第5話
配達エリア、オフィスビルの裏手
誠志郎は、もらったセブンスターの箱をジャケットのポケットに入れたまま、午後の仕事を始めていた。
あの公園で、美少女にもらったタバコ。
「貢ぎ物たい」という博多弁が、頭の中でエコーする。不快なのに、妙に耳に残る。
(最悪だ。なぜ俺が、あの女の施しを受けなければならない)
怒りが込み上げるが、捨てることもできなかった。
貧乏性か、それとも、この一件をまだ終わらせる自信がないのか。
昼のピークを少し過ぎた時間。今日の配達は特にハードだった。雨上がりの蒸し暑さが体力を奪う。最後の配達先である大手IT企業のビル前にバイクを停め、書類を届け終えた頃には、時刻は午後二時を回っていた。
「休憩だ」
バイクのミラー越しに、自分の疲れた顔を睨む。いつもなら、ここでコンビニに寄って冷たいコーヒーと、カロリーだけが高いパンを胃に流し込む。それが彼の昼食だった。
ヘルメットを脱いだ途端、耳に届いたのは、よく通る、しかし少し焦ったような声。
「誠志郎さん! 待って!」
誠志郎は頭を抱えたくなった。
「嘘だろ……またか」
振り返ると、樹が息を切らしながら、ビルの角から駆け寄ってくる。
今日は昨日とは違う、グレーのAラインワンピースに、ローヒールのパンプス。完璧に計算された「清楚な大学生」のファッションだ。
「はあはあ……良かった、間に合ったと。」
樹は誠志郎の前で立ち止まり、息を整えた。その胸元は上下に激しく動いている。
「また、どうやって……」
誠志郎は警戒心から無意識に距離を取った。
「ウチ、あんたの午後の配達スケジュールも、大体読めとるっちゃん。この辺りのオフィス街を回るっちゅうのは確定やったけん、一番デカいビルで張り込みばしとったと。」
「法学部じゃなくて、探偵に向いているんじゃないか?」
誠志郎は皮肉を込めた。
樹は、彼の皮肉を気にする様子もなく、嬉しそうに微笑んだ。
「褒め言葉として受け取るよ。そやけど、今はそんな話はよか。それより、あんた、まだ何も食べとらんとやろう?」
彼女はそう言うと、持っていた大きなトートバッグの中から、丁寧に包まれた風呂敷包みを取り出した。
風呂敷は淡いチェック柄で、生活感と温かさを感じさせる。
「ほら、これ。ウチが作ったお弁当たい。」
誠志郎の眉間に深くシワが寄った。彼が最も嫌う、他人の温かい善意の押しつけだ。
「いらない」彼は反射的に拒絶した。語気は強い。
「なんで?」樹は一瞬、悲しそうな顔をした。
「いらないと言っている。他人の作ったものなど、食えるか」
「……ウチは、あんたの「他人」やなかと。それに、あんた、いつもコンビニの冷たかパンとコーヒーで済ませよるやろう。体が悲鳴ばあげとうよ!」
樹は、風呂敷包みを開け、中身を誠志郎に見せた。
中には、白いご飯の上に丁寧に梅干しが置かれたおにぎり(二個)、彩りの良い卵焼き、そして、煮物の小鉢が入っていた。手際よく作られた、素朴で健康的な和食の弁当だ。
「栄養、偏っとうばい。あんたは体を資本にする仕事やろうに。しっかり食べんと、倒れてしまうっちゃん!」
「俺の勝手だ。余計な世話をするな」
誠志郎は吐き捨て、バイクのエンジンに手をかけた。
「二度と、俺の前に現れるな」
彼の逃げ腰の態度を見て、樹の瞳に再び強い光が灯った。彼女は、静かに、しかし威圧的に誠志郎のバイクの前に回り込んだ。
「よか。それでもよか。」
彼女は毅然とした態度で言った。
「ウチは、あんたがウチば嫌う理由ば知っとうと。ウチが綺麗だから?ウチが軽薄な男にモテるから?違う。あんたが、誰かの優しさを受け取ると、自分が汚れてしまうち思っとうからやろう?」
誠志郎の身体が硬直した。彼女の言葉は、彼の心の最も深く、隠していた部分を正確に射抜いた。
「でもね、誠志郎さん。ウチはあんたば助けたと。見返りなしで、あんたの孤独に寄り添いたかだけ。」
樹は持っていたおにぎりの一つを、サッと彼の手に押し付けた。熱すぎず、程よい温かさだ。
「食べて。これは、ウチがあんたを助ける、一回目の援助たい。」
誠志郎は熱いおにぎりを手に、その場に立ち尽くした。怒り、困惑、そして――ほんのわずかな温かさが、手のひらから伝わってきた。
(なんで、こいつは……俺のこんな場所に、土足で踏み込んでくるんだ)
彼は、手に持ったおにぎりと、その対面で情熱的な博多弁で自分を見つめる樹を、ただ見返すしかなかった。
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