第36話 「ノイズ」
■東京湾・海ほたる PA・屋外デッキ
雨足が強まっていた。
海風が、龍の頬を容赦なく叩く。
作戦室を飛び出したカヲルは、デッキの端、
暗い海を見下ろすフェンスにしがみついていた。
その背中が、雨に打たれて小さく震えている。
「カヲル!!」
龍の叫び声が、風音を切り裂いた。
カヲルはビクリと肩を震わせたが、
振り向かない。
「来るな……!」
声が、悲鳴のように掠れている。
「来ないで、龍さん!
私のそばにいたら、あなたまで……!
私のコードが、私の存在が、みんなを殺すの!
田辺さんも……次は、龍さんが……!」
龍は足を止めず、雨で滑る床を踏みしめて距離を詰めた。
「違う!!」
龍はカヲルの腕を掴み、強引に振り向かせた。
その顔は、
今まで見たこともないほどグシャグシャに濡れていた。
雨か、涙か、わからない。
ただ、絶望だけが張り付いていた。
「離して! お願い、離してよぉ……ッ!
私が死ねば終わるんだ……私が消えれば……!
ずっと一人だったんだっ!!
ずっとスパイだった…っ!!…
ずーっとそうやって生きてきた!
死んだって誰も気にしないから!!
構わないでよ!!」
カヲルが暴れる。だが龍は、
その細い肩を両手で強く掴み、
絶対に離さなかった。
「ふざけんな!! カヲルっ!!
田辺さんが何のために命を張ったと思ってんだ!!」
龍の怒鳴り声に、カヲルの動きが一瞬止まる。
龍は、真正面からカヲルの瞳を見据えた。
自身の胸ポケット
――田辺の遺言が入った端末の熱を感じながら。
「田辺さんは言った。『カヲルを守れ』って。
それはな、お前が『重要な記録媒体』だからじゃねぇからな!!よく覚えとけ!!」
龍の声が、雨音に負けじと響く。
「お前が、俺たちに見せてくれた笑顔が!
不器用な優しさが!
**お前という人間が発する『ノイズ』が!!**
この腐れきった、この国を変えられる
唯一の希望だと信じたからだ!!」
カヲルが息を呑む。
「田辺さんは、お前の『機能』に賭けたんじゃない。
お前の!この国を守る「情熱」に
賭けたんだよ!!
それをお前が捨てたら……
田辺さんの死は、本当に無駄になる!」
「……っ、でも、私……」
「俺もだ!」 龍は言葉を重ねた。
「俺も、お前の機能なんてどうでもいい。
俺は、俺のアシスタントの瀬貝カヲルを守る!
お前が泣いてるなら、
俺がその原因をぶっ壊す!
それが俺の『ノイズ』だ!!」
カヲルの瞳から、堰を切ったように涙が溢れた。
エージェントとしての冷徹な仮面は、
もうどこにもなかった。
「龍、さん……」
「泣いてる暇があったら、立て。
俺たちは、まだ終わってねぇから。
これからだから。
田辺さんの残した希望を……証明しに行くぞ」
龍が差し出した手。
それは、美容師としてハサミを握り続けた、
温かい手だった。
カヲルは震える手で、その手を握り返した。
冷たい雨の中で、二人の体温だけが確かに繋がった。
「……龍さん…ありがとうございます…」
涙と雨が入り混じり、止まらなかった…
――――――
■芝浦・高架下の影
―2021年8月1日 午前3:28―
雨は、止む気配を見せなかった。
高架の下、コンクリートの柱が
都市の心拍のように濡れていた。
天城は、フードを深く被りながら歩いていた。
足音は、都市のノイズに吸い込まれていく。
この場所――田辺のGPSが最後に示した地点。
監視ログが途絶えた空白。
都市の“感情帯域”が沈黙した座標。
(……田辺。お前、ここで消えたのか)
「田辺……あのバカ・・」 天城の声は、
雨に溶けた。
その唇を噛む力は、怒りを抑えるための、
ギリギリの抵抗だった。
その涙は、都市が流したもののようだった。
街灯の下に、焦げたタバコのフィルターが落ちていた。
その銘柄は、田辺が吸っていたものだった。
天城はしゃがみ込み、指先で拾った。
――まだ、熱が残っている気がした。
その瞬間、耳鳴りが走った。
「……っ!、耳鳴りか?!ノイズか?!」
都市のノイズが、天城の中で震えた。
田辺の声が、微かに響いた。
「……天城先輩。あなたなら、わかるだろ。
この国で、静かに生きるノイズ。 秩序の裏に、何があるか」
天城は、立ち上がった。
その目は、真実の奥を見据えていた。
柱の裏に、微かな擦過痕。
地面には、靴の跡が複数。
そして、排水口の奥に
――公安庁の特殊部隊が使う“麻痺針”の破片。
(……Λ-3。あいつら、
ここで田辺を“処理”した)
天城は、拳を握りしめた。 その手の中には、
田辺の最後の『現場のノイズ』 である
タバコのフィルターがあった。
「……黒崎。お前の演出は、 俺の相棒の命と、
この国の静かな日常を奪った。 必ず、ぶっ壊してやる」
その瞬間、ノイズが微かに震えた。
それは、田辺の「愛国者としての魂」だった。
そして、天城の中で ――
「失われた日常」を取り戻すための
**誓い”**に変わっていった。
――――――
■東京湾・海ほたる PA・屋外デッキ
龍とカヲルは、決意を固め、
地下施設への入り口へと向かって歩いていた。
ずぶ濡れの服が重いが、
二人の足取りは軽かった。
その時だった。
闇の中から、一対のヘッドライトが
鋭く二人を照らした。
水しぶきを上げて、一台の黒い車が滑り込むように停まる。
エンジンが止まり、ドアが開く。 降りてきたのは
――黒いレインコートを羽織った巨躯。
「……天城さん!?」
龍が声を上げる。 天城は、ゆっくりと顔を上げ、
二人を見た。その顔は雨に濡れ、どこかやつれていたが、
瞳の奥には今まで見たことのない
「静かな炎」が宿っていた。
天城は、ふっと口元を緩めた。
「……なんだ。お前ら、デートか? ずぶ濡れじゃねえか」
「デートじゃないですよ! ……天城さんこそ、
どこに行ってたんですか!GPSも切って……みんな心配して」
龍が詰め寄る。
天城は悪びれもせず、肩をすくめた。
「ちょっとな。……忘れ物を取りに行ってたんだよ」
天城はポケットから、
ハンカチに包まれた小さな物体をゆっくりと取り出した。
焦げたタバコのフィルター。
龍とカヲルが息を呑む。
「田辺はな、俺たちをバラバラにするために死んだんじゃねえ。
俺たちを『本気』にさせるために、最後のノイズを残したんだ」
天城の声が、雨音に負けない力強さで響く。
「……お前らは、どうする?」
龍は、カヲルの顔を見て、頷いた。
龍が拳を突き出す。
「決まってるじゃないですか。
俺たちは『チーム・ノイズ』です。田辺さんも含めて、四人で」
カヲルも、その上に小さな拳を重ねた。
天城は自分の大きな拳を、二人の拳にガツンとぶつけた。
「……へっ、生意気になりやがって」
三つの拳が、雨の中で重なった。
その中心には、見えないけれど確かに、四人目の拳があった。
そして、天城はカヲルを見つめ、再び口を開いた。
「……おい、カヲル」
天城は、ずぶ濡れのカヲルの頭に、
その大きい手をポン、と置いた。
「お前はもう、ただの『記憶媒体』でも、
『レムリアンのスパイ』でもねえ」
天城の目が、雨に濡れながらも、温かくカヲルを見つめる。
「田辺が命を張ったのは、世界の構造なんかじゃねえ。
あいつはな、『瀬貝カヲル』っていう
一人の「人間」が、
笑って、飯食って、恋をして……
そんな当たり前の未来を生きるために、
盾になったんだ」
カヲルの瞳が、大きく揺れる。
天城は、クシャっとカヲルの髪を撫でた。
「だからよ、カヲル。 もう自分を『呪い』なんて呼ぶな。
お前が生きてることは、罪じゃねえ。 田辺が生きた証だ。
……俺たちの、誇りなんだよ」
「もっとよ、生きろよ、お前」
その言葉が、カヲルの心の奥底に残っていた、最後の氷を溶かした。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁん!!!」
カヲルは、天城の胸に飛び込み、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「ごめんなさい……っ、ありがとう……っ! うああああぁぁぁ……!!」
天城は何も言わず、
泣き崩れるカヲルを力強く抱きしめた。
龍もまた、二人の肩に手を回し、
強く抱きしめた。
男二人の体温が、震えるカヲルを包み込む。
しばらくして。 カヲルは顔を上げた。
目は真っ赤に腫れていたが、
そこにはもう、一点の曇りもなかった。
「……行きましょう」
カヲルは涙を拭い、龍と天城を交互に見た。
「私たちの未来を、取り戻しに」
天城がニカっと笑い、龍が力強く頷く。
「行くぞ!! 田辺の弔い合戦だ!!
日本の現場(ノイズ)をナメんなってことを、教えてやる!!」
三人は背を向け、地下の闇へと歩き出した。
雷鳴が轟く。 それは、彼らの反撃開始を告げる号砲だった。
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