天使の聲 死神の唄

山狐

プロローグ

第1話 孤独な少女

 ここはまるで、水に満たされた宇宙空間のようだと、彼女はいつも感じていた。

 体感的に重力といった概念が無く、どこが天地にあたるのか、まるでわからない。

 周囲はどこを見渡しても青みがかった星空のようで、体を動かせば水中のような重い感触がする……

 ふと、何かを察知したように彼女は振り返った。

 振り返った際にゆるりと舞い上がった自身の黒髪の隙間から、水面のように揺らめく明かりがその目に映る。


(今日はこっち?)


 吸い寄せられるかのように、彼女は明かりの揺らめく方へと進みだす。

 泳いでいるような、空を飛んでいるような……そんな不思議な感覚に身を任せ、いつものように……

 既に何度も同じ体験をしている彼女には、これが夢の中であるという自覚があった。

 眠りに落ちる度、ふと気が付けば広大なこの空間に一人ぼつんと浮かんでいる。そして毎回、どこかに明かりを見つけ、その場所を目指して進み始めるのだ。

 そしていつも、その明かりに触れようとした瞬間に目が覚める……

 だが……今回はどうやら少し様子が違った。

 微かに。だが、確かに。人の話し声のようなものが聞こえるのだ。


(誰?……)


 明かりに近づけば近づくほど、声は次第にはっきりと彼女の耳に届き始める。

 しかし、何を話しているのか全く分からない。明らかに言語が違うのだ。


(何語なんだろ……)


 まったく耳馴染みのない言語ながら、その言語を話している声が一人ではない事に彼女はすぐ気が付いた。二人……いや、恐らくは三人。どの声も十代後半から二十歳前後程度の若い男性のようだ。

 会話の雰囲気から察するに、明るい話題や楽しい話題ではないらしい。

 彼らの声はどれもひっそりとしていて、重々しく、どこか悲しげだ。


(なんでそんなに……悲しそうなの?)


 揺らめく明かりの前で、そっと手を伸ばす。

 明かりの向こう……伸ばしたその手が、誰かの手に触れたような気がした――


   ~*~


 眠りが途切れるように、彼女はぼんやりと目を覚ました。

 スッキリとした目覚めは、ここ数年ずっと無縁だ。

 現実に無理矢理引き戻されたかような、不快な感覚……いっそ、ずっと夢の中に居られたら良かったのに。と、何度思ったかわからない。


「また……目が覚めちゃった……」


 寝起きで掠れた声に、うんざりとした感情を乗せて小さく吐き捨てる。

 ここ数か月の間、毎日のように見てきた夢。

 その夢の中で、ようやく進展があったというのに……


「今度こそ……に行けると思ったのに……」


 そんな不機嫌な独り言の直後、病室のドアがノックされる。


「おはようございます。半井なからいさん、朝ご飯ですよ」


 看護師が運んできた朝食を気怠けだるげに一瞥いちべつし、彼女……半井椎奈なからいしいなはぐったりと窓の外へ視線を向けた。

 食事なんか欲しくない……そんな我が儘を口に出すのも億劫おっくうだ。

 一言も喋らない椎奈しいなに対して、看護師もそれ以上何か言う気はないらしい。さっさと配膳を済ませた看護師がそそくさと遠ざかる足音と、病室のドアが閉まる音……あぁ、また今日も無意味な一日が始まるのだと、彼女の唇から小さな溜息がこぼれた。


半井なからいさん……か……」


 看護師は皆、彼女の事を苗字でしか呼んではくれない。

 小児病棟のちびっ子ではなく、一般病棟の入院患者なのだからそんなものだろう。それは分かっている筈なのに、苗字で名を呼ばれる度、彼女の心は虚しさに軋んだ。

 椎奈しいなという名前がちゃんとあるのに……その名を呼んでくれる者は誰もいないのだと……


「……今日は、どれ読もうかな……」


 ベッドのリモコンを操作し、上体を起こす。

 サイドボードに平積みされた文庫本を適当に手に取り、彼女は読みたいシーンまでパラパラとページを飛ばした。

 入院時に自宅から持って来た異世界転生もののライトノベルの数々は、もう何度も読み返しているせいで、どの巻のどの辺りにどんなシーンがあるのか大体頭に入っている。

 探していたのは、主人公が初めて異世界の食事にありつくシーンだ。

 彼女にとっての現実リアルの食事は、無駄にこの世にしがみつく時間を延ばすだけの不要な物でしかない。だが、創作フィクションは別だ。

 極限状態でやっと温かい食事にありついた主人公の感動や安心感、そして目の前に実物が提供されたかのようにすら錯覚する料理の描写と解説。やけに饒舌じょうぜつな主人公の食レポ……それらを読んでいると、それだけで心が満たされる。自分には、これくらいで丁度いい。と彼女は感じていた。

 ふと、彼女が目の前に置かれている朝食に視線を移す。

 まだほんのりと湯気を立てている白米と味噌汁が、恨めしそうにこちらを睨んでいるような気がした。


「……いらないのに作られて……私と同じ……」


 憐れむような声音で小さく呟いて、彼女は再び手元の文面に視線を戻す。

 窓の外で、朝から救急車のサイレンが小さく響いていた。

 彼女が自分の事を無価値だと感じるようになったのは、三年ほど前からだ。

 看病疲れでノイローゼを起こし、極限状態だった母親が男を作って行方を眩ませた……その事を暗い顔で話した父親も、この一年は面会にすら来ていない。

 最初のうちはそれを寂しいと感じる心も確かにあったが、今は父親の行動も当然だろうと、彼女は納得していた。自分を捨てた女とそっくりの娘になんて、会いたくないだろう……と……


「別に……好きで母さんに似た訳じゃないのに……」


 最後に父親が面会に来た日の事はよく覚えている。

 面会時間ギリギリにふらりとやって来て、無表情に彼女を見つめた父親の目は冷え切っていた。


―……成長すればするほど……お前はあいつに似ていくな……まるで、あいつの看病をさせられてるみたいだ……―


 そう吐き捨てて病室を出て行った父親は、今頃何をしているのだろう?……いっそどこかで女を作って、母親と同じようによろしくやっているのかもしれない。


(……まぁ……今更来られても話す事なんて無いし……私にはがあるから別にいいけど……)


 胸の中で呟きながら、彼女は膝の上の文庫本をそっと一撫でする。

 両親から見放された椎奈しいなに寄り添ってくれたのは、ライトノベルだけだった。

 元々異世界ファンタジーが大好きだった彼女にとって、異世界転生という題材で綴られた物語の数々は、自身の『死後』を空想する為の教科書……いや、もはや聖書バイブルと言ってもいい。

 転生時にチート能力を授かって無双したり、現代の知識を生かして活躍したり、そうした能力や知識のお陰で、他人に必要とされ仲間に恵まれたり……

 現実はそう甘くない。と……死んだら無に還るだけだ。と……常に心の片隅で自分の空想を小馬鹿にする冷めた自分に蓋をして、彼女はずっと異世界へ憧れを抱いていた。

 ……それこそ、繰り返し見続けているあの夢の場所が『異世界へのアクセスポイント』なのではないか? と、本気で信じてしまうほどに。


「あの明かりの先は……どんな世界なんだろう……」


 窓の外の穏やかな秋晴れを見上げて、椎奈しいなはいつものように空想にふける。

 異世界転生作品の舞台になる異世界は、大体どの作品でも基本は同じ。所謂いわゆる『ナーロッパ』のイメージが強い。やはり転生するのなら、ああいう世界観が一番ロマンがある。

 そして大抵の場合、現実世界の人間は異世界に渡ると『転生者』や『召喚者』などと呼ばれ、チート能力を付与されたりするのがお約束だ。


(……まぁ、『転生者』と『召喚者』はまったくの別物だと思うけど……)


 彼女にとって、このジャンル分けは非常に重要な意味を持つ。

 主に、異世界の住人として『新しく生まれ変わる』のか、『元の体のまま』異世界へ渡るのか……という点において。


(こんな体……もううんざり……)


 病に侵され、ストレスと拒食で痩せ衰えたこの体も、父親に拒絶された母親そっくりのこの顔も、彼女にとっては苦痛でしかない。

 友達もいない。親もいない。誰も、自分の名前を呼んでくれない……そんな世界に別れを告げ、この体をかなぐり捨てて、まったく新しい存在に生まれ変わる。それこそが彼女の望む異世界転生だった。


異世界あっちの人は、私の名前……呼んでくれるかな……」


 一抹の切なさが椎奈しいなの胸を掠めた。

 誰か……もう一度自分の名前を呼んでくれる人に出会えたら……もしかしたら、自分の本当の願いはその程度のささやかな物なのかもしれない。と、彼女は思い至る。

 ……そして同時に、そんなささやかな願いすらこちらの世界では望めないのか……という虚しさに、酷く乾いた笑いがこみ上げた。


「どうせ無駄な命なら……いっそ今、この瞬間、消えちゃえば良いのに……」


 そうだ。

 これ以上こちらの世界に居たところで意味がない。

 誰にも望まれない、誰にも愛されない、誰にも呼んでもらえない……

 こんな世界に、未練などとうになかった。


(誰かもう一度……私の名前を呼んで……)


 不意に、視界が薄らいだ。

 椎奈しいなにとって、それは別に珍しい事ではない。疲れると決まってこんな風に眠りに落ちるのが、彼女の日常だ。

 いつものように意識を手放し、ゆっくりと視界が暗転してゆく……

 ただ、普段と違った事が一つだけ……眠りに落ちた彼女にならうように、彼女の呼吸が、鼓動が、緩やかにその動きを鈍らせていったのだ。

 やがて心電図の無機質な電子音が、静まり返った病室に響き渡る。

 その電子音は悲しみや絶望などを掻き立てる不快な音として、本来ならば誰もに忌み嫌われている筈のものだが、彼女……半井椎奈なからいしいなという孤独な少女にとって、この無機質な音は『第二の人生の幕開け』を静かに告げる開演ブザーのようだった。

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