第七章 本望

7-1 邪剣将軍の申し立て

 第一隊、第二隊の半数、第三隊、第四隊、訓練兵を加えた神界軍は総勢六万を超す大軍となった。魔界軍は、先日第一隊、第四隊と第三隊が分岐したあたりまで進軍し、神界の出方を窺っている。作戦は特には立てられていない。ただ向かい合い、勝敗が決するまで戦い続ける。最も単純で最も正々堂々とした戦い方だ。隊を特に分ける必要がないので、神界軍総指揮官にクリストフが就き、ディアネイラ、バルカがその副将となった。第二隊将軍ツィアンと第二隊の半数、および訓練兵と共に見守る中、六万の軍勢は粛々と出陣した。兵達の顔は皆が鋼鉄の決意に引き締まり、もはや目の前に魔界軍が見えているかのようであった。その緊張は進むにつれて衰えるどころかますます張りつめ、魔界軍がもう直前に迫ろうとする辺りでは、誰も口を開かなくなっていた。だが決して苛立ったりはせず、粛々、粛々と行進は続けられる。辺りは一面に広がる草原ばかりで、多少の起伏が続いている。行くまでに困難はない。

「クリストフ様」

 手綱を取りながらクリストフが思考に沈んでいると、側近が遠慮がちに声をかけて来た。

「何だ」

「ディアネイラ様が、お話があると」

 側近のすぐ後ろには、白馬に跨ったディアネイラがこちらを見つめている。視線が合って頭を垂れた女将軍を見て、クリストフは僅かに顔をしかめた。

 行軍の足は休まることはない。馬は兵に合わせてゆっくりと歩みを進めている。

「どうした」

 ディアネイラは手綱を操り、クリストフの黒馬に近寄った。

「お願い申し上げようと、参上いたしました」

「……申してみよ」

 クリストフを真っ直ぐに見つめ、ディアネイラはしばらく沈黙する。クリストフは邪剣将軍の美貌を見つめながら、ただ言葉を待っている。

 ディアネイラは尚も躊躇い、だが意を決して拳を握り締めた。

「私に、バルケスと戦わせて下さい」

「やはりか」

 神界長の表情は変わらないが、声は苦いものとなる。

「……実力をわきまえぬほど愚鈍ではあるまい」

「はい」

「バルケスは強いぞ」

「心得ております。出来るならば、一騎打ちを」

「……その命、むざむざと投げ出すと申すか」

 クリストフが顔をしかめると、ディアネイラはゆっくりと首を振った。金髪がさらさらと揺れ、場違いな朝日の光が零れたように輝く。

「青く変わった凍てつく心臓フロズンハートならば、あるいは」

 馬はかぽ、かぽ、とゆっくり歩いている。

「五分五分と見込んでおります」

 微風が草原を、緊張した面持ちの兵たちを、ディアネイラの決然たる美貌を撫でて通り過ぎていく。

 クリストフは銀の瞳でまじまじとディアネイラを見つめる。微動だにせず、怖れもせず、彼を見返す美貌。夕焼け色の美しい瞳。背に背負うのは忌まわしき邪剣、凍てつく心臓フロズンハート。その姿は幼い少女の頃からは想像もつかぬほど凛々しく、猛々しく、美しい。茫然と家族の遺骸を見つめる少女を昨日のことのように思い出せるクリストフは、過去の幻影と、邪剣将軍とを見比べた。

 あの、死にかけていた少女が。

 これほどまで、強く美しく成長するとは。

「やれる限りやってみるが良い。止めはせぬ」

「ありがとうございます」

 ディアネイラは顔を輝かせた。軽く頭を下げ、手綱を引いて戻ろうとしたのを、クリストフは呼び止めた。

「ディアネイラ」

「はい」

「怖くはないのか」

 聞かれた内容に意表を突かれたのか、ディアネイラは僅かに首を傾げる。

「まるでハミルカル様のようなことを仰られますのね」

「ハミルカルも同じ問いをしたのか」

「いいえ。若様に申し上げれば、きっときつく引き留められなさるだろうと思いまして」

 ディアネイラはクリストフの秀麗な顔から視線を外し、まだ見えぬ魔界軍が控えている方を振り仰ぐ。髪をさらりと掻き上げると、銀の十字架が耳許でちりちりと揺れた。

「例えクリストフ様が引き留められなさっても、戦う覚悟でした」

 女神を見つめるクリストフに、表情の変化は全く見られない。

「怖くないと言えば、嘘になるかも知れません」

 クリストフの背で、紅蓮の髪が僅かに揺れている。

「けれど私はこの時のために邪剣を手にしたのです。今さら死を怖れたところで、何になるでしょうか」

「…………」

「私情を挟むこと、お許し下さいませ」

「ディアネイラ」

 クリストフは視線をディアネイラから外し、呟くように言葉を紡いだ。

「死ぬな」

 ディアネイラは一瞬ぎくりと身を震わせたが、すぐに溜息を洩らし、クリストフを見上げた。

「保証は、出来ませぬが」

 そう言って、言葉とは裏腹に、勝利を確信しているかのように強気な微笑みを浮かべた。 クリストフは横目でその笑顔を見つめ、ふと苦笑いを浮かべる。

「頼もしい限りだ」

 ディアネイラが更に何か言おうとした時、前方から伝令の情報科が駆けて来た。

「申し上げます! クリストフ様、魔界軍が見えました!」

「そうか。どのような様子だ」

「横一面に広がり、我々を迎撃する模様です。飛行部隊は一カ所に固まらず、均等に散らばっております」

「魔法攻撃を怖れてか。魔界人め、少しは学習したな」

「いかが致しましょう」

「もう少し前進してから、こちらも同じように横一文字の布陣を敷く。総力戦だ、士気を高めるよう言っておけ」

「はっ」

 情報科はぺこりと頭を下げると、今の内容を伝えるべく再び慌ただしく駆けて行った。その後ろ姿を見送りながら、ディアネイラは遙か前方を振り仰ぐ。

「いよいよですね」

 その黄昏の、濃紺と灼熱の間にのみ生じる類い希な紫の瞳は、微塵の揺らぎも見せない。「ああ」

 クリストフの銀の瞳は、決然と前方を見据える。

 前方に横たわる小高い丘を登ると、一気に視界が開けた。遙か向こうにはダレン平原、右手奥にはエイダム森、左手にはそびえ立つヨルダン山脈。その手前、神界軍の行く手を塞ぐが如く、黒く巨大な魔物──魔界軍が、一面に待ち構えていた!






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