第五章 追憶と臨界

5-1 神界長の夜

 クリストフ、バルカ率いる第一隊、第四隊は、第三隊と分かれてから丸二日間ほぼ休憩を取らずにで行軍を続けた。第三隊に比べて移動する距離が長いため、多少の無理は不可欠だったのだ。二日目の夕刻が過ぎた頃には神界の果てに面する森の端に到達し、クリストフは日が完全に沈んでから野営をするよう命じた。一日目には既に第三隊が行動を開始しているはずだが、第一隊、第四隊は二日目の午後からダレン作戦遂行となり、存在を気取られぬ為に第三隊との連絡も一切絶っていた。明日の朝まで身体を休めておくようにとの伝令に、兵たちはようやく緊張を解いたのだった。

 神界長の為には特別に小テントが張られ、クリストフはその中で出陣の前までしばしの仮眠を取ることにしていた。入り口には槍を持った兵が控えていたが、テントの中はクリストフ一人である。仮眠と側近には言っておいたものの、組み立て式の簡易卓に地図を広げ、書類を広げ、魔法の光が煌々と照らす中、黙々とそれらに目を通していた。さすがに手袋は外していたが、相変わらずコートをきっちりと着込んでいる。

 叡智を孕んだ銀の瞳は、多少暗い翳りを帯びてはいるが、彼の秀麗な顔にはそれすらも美しいと感じさせる。書類をめくったり、僅かに溜息をつく度に背では紅蓮の髪がさらさらと揺れる。その様子には寸分の隙も、調和を乱す僅かな狂いもなく、彼がそこにいるだけで一つの芸術品であるかのようだ。テントの外からは殆ど物音は聞こえず、時の流れは遅々としている。かなり長い間書類に目を通し続けていたクリストフは、ふとその手を休めた。大きく息を吐き出して、視線を虚空に彷徨わせる。

 銀の瞳が、過去を追憶する老人の如き光を帯びる。

 魔界軍が神界に侵攻して来たのはいつの頃だっただろうか。はっきりと覚えているわけではないが、確かまだハミルカルが生まれるか、それよりも前だっただろうか。それから流れた月日はクリストフにとっては瞬きの間に過ぎ去った白昼夢でしかないようにも思える。繰り返される戦。流れる血潮。蹂躙される神界。荒れ果てた焦土。悪夢のように繰り返される魔界軍の侵攻に、当初は為す術を持たなかった神界。急遽戦闘科を設置し、兵を訓練し、民を守り、残虐の限りを尽くした魔界人に耐え忍び。ようやく反撃を開始した頃には、二人の息子は成長していた。ハミルカルはもう少年と呼べる程に、グラゴスはクリストフ自身よりも遙かに老いて。

 時の流れは残酷なものだ、とクリストフは思う。

 時は余りにも簡単に、彼の周囲から何もかもを奪っていく。昨日知り合ったと思っていた友はいつの間にか年老い、彼を残して死んでいく。残されるのは苦い追憶と変わらぬ我が身だけだ。変わらずに、永遠に続く生を繰り返すのみだ。

 そうしているうちに、クリストフの脳裏に、亡き妃の面影が浮かんだ。

 灰色の髪の、貞淑な妻だった。内気で口数は少なかったが、声をかけると可憐な花がほころぶように微笑んだ。体が弱く、病気がちで、グラゴスを生んでからは病床に臥してばかりだった。クリストフが見守る中、炎が風に吹き消されるように、静かな最期を遂げた。

 その時に。

 握っていたか細い手の、冷たい感触は、今でもありありと思い出せるというのに。

 妃の死の悲嘆にくれる間もなく、クリストフは魔界軍との戦いに忙殺され、やがて人々の記憶から妃の姿は薄れ、忘却の彼方に、あるいは伝承の一部とされて。

 それから、どれほど過ぎたのだろう。

 考えるのも億劫になってしまった。年月を数えることは無駄なように思えた。

 今でも、その名を呼べば、すぐに返事をして振り返りそうな気がするのに。

「……セラスティ」

 だが、その囁きに応えたのは夜の静寂だ。

 クリストフは深々と溜息をつき、苦い笑みを浮かべた。

「追憶とは。疲れているらしい」

 ぽつりと呟き、本当に仮眠でもしようかと、卓に手をついて立ち上がる。卓から手を離そうとした刹那、不意に長躯がぐらりとよろめいた。クリストフは顔をしかめて椅子に掴まり、何とか転倒を免れる。顔を上げようとした瞬間に腹から喉にかけて灼けるように痛み、ごほ、と咳き込む。咳は次第に激しくなり、クリストフは口許を押さえた。

 咳は止まった。口許を押さえていた手を外す。

 どす黒く変色した赤い液体が、掌にべとりと張り付いていた。

「…………」

 クリストフは眉一つ動かさずに掌を見つめる。

 卓の上に置いてあった布で掌を拭い、口許を拭い、僅かな吐息を漏らす。

フレア

 彼の呟きに応じ、手にしていた布が一瞬にして燃え上がり、灰となって舞い落ちた。その微細な空気の動きが完全に消えるのを確認してから、テントの外へと歩き出した。

 顔を出すと、衛兵二人がギョッとしてこちらを向いた。

「クリストフ様」

「どうなされました」

「何、地図を見ていたら少々眠気が来てな。顔を洗いに行く」

「左様ですか。右手に少し参りますと、清らかな小川がありますぞ」

「クリストフ様、どうか少しはお休みなさいませ」

 心配そうな兵の言葉に、クリストフは微笑みを浮かべた。

「こうして休んでおるではないか。そなた達も、居眠り程度なら許さぬでもないぞ」

「そんな、とんでもない!」

「クリストフ様の御身、万一大事あった時に居眠りしていたとあらば、我ら末代までの恥」

「こうして不寝番に就くのも、身に余るばかりの栄誉」

「頼もしい限りだ。すぐに戻る」

 衛兵が深々と頭を下げて見送る中、言われた通りに右手に進むと、程なく小川に辿り着いた。夜の静寂に水の流れる音が溶け合い、ここだけ空気もひんやりと静まりかえっているようだ。本陣から少し離れているので周囲を見回してもまばらに木々が立つばかり、人の姿はクリストフ以外には皆無だった。

 川までは僅かな下り坂になっている。川幅自体は子供が両手を一杯に広げたくらいか。水は清らかで、夜目にもはっきりと水底が窺えた。

 川岸に膝をつく。手を清流に差し入れると、突き刺すような冷たさを感じる。差し入れた片手で掬い、口に含む。慎重に口中を洗い、吐き出し、もう一度口を濯ぐ。それから手を洗い、今度は両手で掬い、顔を洗った。

 水面を見つめる。濡れた前髪を、鼻梁を伝って、雫が滴り落ちる。

 僅かに揺らいでいるが、紅蓮の髪の男が、銀の瞳でクリストフを見上げていた。水滴が滴り落ちる度にその顔は揺らめき、彼の苦渋に満ちた表情を掻き消した。

「……毒か」

 聞こえるか聞こえないか程の呟きは、清流のさらさらという音に紛れてしまう。

「余にも毒が効くのだな」

 クリストフは静かに溜息を洩らす。

 ぽたり、ぽたり、と、雫が滴り落ちる。

 ふと胸に浮かんだ思いを掻き消すかのように、クリストフは銀の瞳を閉じた。懐から手拭いの布を取り出し、顔と手の水気を拭き取る。立ち上がった頃には、濡れた毛先以外は何一つ普段の様子と変わらぬ、堂々たる姿となっていた。元来た道を歩き出しながら、再び思考の海へと沈んで行く。

 明日は、こじ開けられた時空の歪みに封印をして。

 ダレン作戦を遂行。

 ディアネイラたち第三隊が、魔界軍を引きつけている間に。

 ディアネイラの名が脳裏に閃いたところで、クリストフは僅かに顔をしかめた。強く美しく成長したディアネイラは、十数年前に救い出した少女とはもはや別人だった。忠実で信頼のおける、邪剣将軍と呼ばれる戦の女神だった。

 ディアネイラの勝ち気な性格は良く承知している。勝つことを目的とするなとは言っても、結果として勝ったのならば文句はあるまいと考えるはずだ。作戦も遂行しつつ、ともすればヨルダンの二万はクリストフ達が突撃する前に勝敗が確定しているかも知れない。ディアネイラの天賦の才と、彼女に絶対の信頼をおいている第三隊ならば、決して不可能ではない。

 だが。

 万が一、と考えてしまい、ざわりと胸騒ぎがする。

「……無茶をしなければいいが」

 そう呟いても不安の影を拭い去ることは出来ず、ふとその原因に思い当たったクリストフは苦笑いを浮かべた。

 どことなく、セラスティに似ているのかも知れない。

 顔立ちも髪の色も、瞳の色も、性格も、全く異なるけれど。

 微笑んだ時の面影が。

「…………」

 軽く首を振り、今度こそ亡妃の面影も、ふと暗雲の如く浮かんだ不安の影も拭い去る。テントに戻り、衛兵二人に労いの言葉をかけてやりながら、本当に仮眠でも取るかと掛け布を手に取った。

 夜明けが、ひたひたとそこまで近付いていた。






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