だから愛は嫌だ~虐げられた令嬢が訳あり英雄王子と偽装婚約して幸せになるまで~
来須みかん
01 ため息ばかりの婚約者
「ディアナ! ディアナ・バデリー!」
責めるような声で婚約者に名を呼ばれ、伯爵令嬢であるディアナは我に返った。
とたんに、パーティー会場内の音楽やざわめきが戻ってくる。
(そうだわ。私は今、ロバート様と王宮主催の夜会に参加中で……)
目の前には、銀色の髪をきれいに整え、夜会用の正装をした侯爵令息ロバートが立っている。ディアナに向けられたエメラルド色の瞳はひどく冷たい。
「ディアナ、夜会の最中にぼんやりするな!」
パーティーに参加している他の人達に聞こえないようにするためか、ロバートの声量は抑えられている。
「申し訳ありません」
ディアナが謝罪すると、ロバートからはため息だけが返ってきた。
(まただわ……)
ディアナはロバートの、このため息が苦手だった。
つい先ほどもロバートに「もう少しマシなドレスはなかったのか? アクセサリーも安物っぽいな」とため息をつかれてしまい、どう返事をすればいいのか分からず、一瞬だけ頭が真っ白になってしまっていた。
(せっかく、ロバート様の緑色の瞳にドレスを合わせたのに)
きれいに結い上げたディアナのライトブラウンの髪には、銀色の髪飾りが輝いている。イヤリングやネックレスも、すべてロバートの髪色に合わせて銀でそろえた。
そうすることで、ディアナは婚約者として最大限の気遣いをしているつもりだ。
仲のいい婚約者なら男性から女性にドレスを贈ると聞くが、ロバートがディアナにドレスを贈ったことは一度もない。
(ドレスやアクセサリーにこだわりがあるのなら、ロバート様が選んだものを贈ってほしいわ)
そう言ってしまいたい気持ちを、ディアナはグッとこらえた。
ロバートのコールマン侯爵家は、王家の覚えめでたい名家だ。それに対してディアナのバデリー伯爵家は、金はあるが貴族としての歴史が浅く、侯爵家の足元にも及ばない。
その証拠に夜会に向かう前、ディアナは両親から「くれぐれもロバート様の機嫌を損ねないように」と強く念押しされている。
(気をつけていても、ロバート様はため息ばかり……。これ以上、どうすればいいの?)
ディアナがそう思っている間にも、ロバートがまたため息をついた。
「まったく君はいつもそうだ。少しも周りが見えていない。そんな婚約者がいる私の身にもなってほしい!」
だんだんと大きくなっていくロバートの声に、周囲の人達が何事かと視線を向ける。
「ロバート様、それ以上は……。気分転換にバルコニーへ行きませんか?」
ロバートもここではまずいと思ったようだ。嫌そうにディアナをエスコートしながら、バルコニーへと向かう。
バルコニーに出ると、ひんやりとした夜風がディアナの頬を優しく撫でていった。
その心地よさにディアナは落ち着いたが、ロバートはそうではないようだ。バルコニーの柵をガンガンと叩きながら、怒りをぶつけている。
「ロバート様。手を傷つけてしまいますわ」
ディアナが、ロバートの腕にそっと触れたそのとき、「うるさいっ!」とロバートが勢いよくディアナの手を振り払った。
驚きと共に足元がふらつき、ディアナの視界に夜空が映る。
輝く星々を『きれい』とディアナが思った瞬間、ロバートが「危ないっ!」と叫んだ。
ガンッと大きな音と共に、ディアナはバルコニーの柵に後頭部をぶつける。
「ディアナ!」
倒れたディアナに駆け寄ってきたロバートの瞳は、大きく見開いていた。
「大丈夫か!?」
頭はひどく痛むし、ディアナの視界はチカチカと点滅している。
「ディアナ、立てるか?」
気遣うようなロバートの声を聞きながら、ディアナはなんとか立ち上がった。すると、めまいに襲われふらついてしまう。
倒れてしまわないように、バルコニーの柵に掴まりながらじっと耐えていると、次第にめまいがおさまっていった。それでも、視界のチカチカは消えない。
(こんな状態で、パーティーなんて無理だわ)
ディアナを見ていたロバートは、「大丈夫そうだな」と言いながら迷惑そうに眉間にシワを寄せた。
「少し私の腕が当たったくらいで、大げさな態度をとるな!」
「ロ、ロバート様……。今日はもう、帰らせていただきます」
「何を言っているんだ?」
「頭を打ってしまい……」
そのとき会場にファンファーレが鳴り響いて、ディアナの言葉を遮った。
ロバートは「王族の誰かが来られたようだな。行くぞ」と乱暴にディアナの腕を引く。力強いその腕から逃れることができず、ディアナはまるで引きずられるように会場へと戻された。
人だかりの中心にいるのは、まばゆい金髪と知的な青い瞳を持つ美しい青年だ。
「王太子殿下が来られたのか。お会いするのは久しぶりだな」
ロバートは、王太子と面識があるようだった。ディアナは、式典などで遠くから見たことがあるだけだ。
ただでさえ、王族に挨拶をするなんて緊張してしまうというのに、今のディアナは頭が痛くてそれどころではない。
「ロバート様……。私、もう帰ります……」
「は? 挨拶をするくらいならできるだろう?」
そんな会話をしているうちに、王太子がこちらに近づいてきた。
(ここまで来て、ご挨拶をしないわけにはいかないわ。挨拶が終わったら、すぐに帰らせてもらいましょう……)
ディアナは、頭の痛みに耐えながら、ロバートの腕に自分の手を添えた。形だけでも、ロバートにエスコートされているように見せなければいけない。
王太子が、ロバートに向かって片手を上げる。
「久しいな、ロバート卿」
「王太子殿下にご挨拶を申し上げます」
ロバートの挨拶に合わせて、ディアナも淑女の礼(カーテシー)をとった。そのとたん、頭がさらにズキッと痛む。
(我慢よ、我慢。この挨拶さえ終わったら、何が何でも家に帰るわ)
頭の痛みはどんどん強くなり、目の前で談笑している王太子とロバートの声が耳に少しも入ってこない。
今ここで倒れたら、ロバートにため息をつかれるくらいではすまないだろう。
(お願いだから、早く終わって……)
ディアナが必死に痛みに耐えていると、徐々にディアナの視界がぼやけていった。
(もう、だめ……。立っていられない)
ディアナがそう思った瞬間、力強く抱き止められた。周囲で悲鳴が上がったような気がする。痛みに耐えながらなんとか目を開くと、ディアナは黒い仮面をつけた金髪の男性に抱きとめられていた。
仮面には装飾品が一切ついておらず、顔の半分以上を覆ってしまっている。だから、ディアナを支えてくれている男性は、目の部分と口元しか見えない。
「どこが痛むんだ?」
声は淡々としているのに、仮面の隙間から見える瞳は青く、とても澄んでいた。
ディアナが小さく首を左右に振ると「嘘をつくな。今のお前は戦場で負傷した兵士と同じような顔をしているぞ」とあきれたような声が返ってくる。
「あ、頭が」
ディアナがそう伝えると、ロバートが怒鳴った。
「おおげさなことを言っていないで、今すぐ立つんだ。ディアナ!」
仮面の青年は、「失礼」と声をかけるとディアナの髪にそっと指を差し入れる。
「ライオネル殿下!? ディアナに何を?」
仮面の青年は自身の指を見せた。その指先は赤く染まっている。
「血だ。令嬢はケガをしている」
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