第3話 真の力
「すのうどろっぷ」の看板の灯りを消し、矢上亘が夜の闇に踏み出したのは、午後九時を少し回った頃だった。彼が身を置く神居市北区の静かな住宅街は、すでに深い眠りの気配に包まれている。だが今夜、その静寂は薄いガラスのように脆く、不吉な緊張を孕んでいた。
矢上の足は、感触を確かめるようにアスファルトを捉える。ストライプのベストは寸分の乱れもなく、シャツの袖を留めるガーターが硬質な光を放つ。その歩みは、目的地を知り尽くした獣のように滑らかで、音がない。
彼が向かうのは、湾岸開発から取り残された古い工業地帯の一角。そこに突き立つ、二十階建ての廃ビル。かつては地域の経済を象徴するはずだった建物も、今や「北区の墓標」と揶揄される骸だ。
十分後、矢上はビルの前に立っていた。
空は低く、湿った雲が月を覆い隠している。視界の端には神居港のガントリークレーン群が、赤い警告灯を点滅させながら巨大な昆虫のように蹲っていた。廃ビルは、その群れから逸れた傷だらけの巨獣のように、黒々としたシルエットを夜空に刻んでいる。
割れた窓ガラスの代わりに張られたブルーシートが、吹き抜ける海風を受けて不気味に呻いている。腐臭と潮の匂い、そして微かな埃っぽさが混じり合い、鼻腔を刺す。それは矢上がかつて嗅いだ、死と隣り合わせの場所の匂いによく似ていた。彼は銀縁の眼鏡の位置を、人差し指でわずかに押し上げた。そのレンズの奥で、瞳孔が静かに開く。
彼は建物の裏手、資材搬入口だったであろう暗がりに消えた。施錠されていたはずの鉄扉は、彼の手にかかると、まるで意思を持ったかのように音もなく開いた。
***
同時刻、廃ビル十七階。
そこは、がらんどうの空間だった。床にはコンクリートの破片と、雨漏りでふやけた古いオフィス書類が散乱している。照明は生きていない。光源は、窓から差し込む神居市の希薄な夜景と、男たちが持ち込んだ数個のLEDランタンだけだ。その頼りない光が、点滅するように影を揺らしている。
部屋の中央、錆びたスチール製の事務机に、北山心春は縛り付けられていた。口には粘着テープが乱暴に貼られ、手首は結束バンドで背もたれに固定されている。
(寒い……痛い……矢上さん……)
恐怖が、彼女の思考を麻痺させていく。
心臓が肋骨を内側から激しく叩き、過呼吸で酸素がうまく取り込めない。指先から急速に血の気が引き、氷のように冷たくなっていく。胃が硬くこわばり、吐き気だけが込み上げてくる。
耳の奥で、自分の血液が奔流するような高い音が鳴り続けている。手首に食い込むバンドが、焼けるように熱い。
まるで、冷たい水底から、分厚い氷に閉ざされた水面を見上げているようだ。光は遠く、声は届かない。
彼女を囲むのは、十人の男たちだった。薄汚れた作業服や迷彩服に身を包み、その目には職業的な無感情さと、獲物を前にした卑しい興奮が浮かんでいた。彼らの手には、拳銃、ナイフ、そして鈍く光る鉄パイプ。
緊張と焦燥が入り混じる淀んだ空気の中、リーダー格と思しき、顔に傷のある男が苛立たしげに携帯電話を耳に当てていたが、やがてそれを叩きつけるように切った。
「……チッ。連絡がつかねえ」
「なあ、ボス。これ、本当に春日井の娘か?」
一人が、ランタンの光で心春の顔を覗き込みながら言った。心春は恐怖に目を固く閉じる。
「さあな。テレビで見た顔とちょっと違う気もすんだが……暗かったからな」
「今さら言うな。官房長官の娘って話じゃなかったのか?」
「……いや、待てよ」
別の男が、自分のスマートフォンの画面と心春の顔を見比べた。
「……こいつ、あの料理サークルの……北山心春だ。別人だ」
その一言で、場の空気が凍った。
張り詰めていた糸が、最悪の形で切れる。
「……マズイぞ。誤認だ」
「チッ、じゃあどうすんだ? このままじゃ身代金の話も──」
その瞬間、最も忌まわしい言葉が吐き捨てられた。
「口封じだ。顔を見られた」
ボスと呼ばれた男が、躊躇いなく腰のホルスターから拳銃を引き抜いた。黒光りする銃口が、心春の額に向けられる。
心春の全身の筋肉が硬直した。呼吸が止まる。
死。
その一文字が、彼女の意識のすべてを塗りつぶした。
カツン。
その場にそぐわない、硬く、澄んだ音が響いた。
革靴の踵が、コンクリートを打つ音。
男たちが一斉に音のした方へ振り向く。
そこは、十七階の広間へと続く、エレベーターホールからの入り口。
暗闇の中に、人影が立っていた。
「……誰だ?」
一人が銃口を向ける。
人影は、ランタンの光が作る円の内側へと、静かに一歩を踏み出した。
ストライプのベストに、白いシャツ。銀縁の眼鏡。
矢上亘だった。
「おや。随分と賑やかな夜ですね」
その声は、喫茶店でコーヒーを淹れる時と何ら変わらない、穏やかなテノールだった。
男たちは一瞬、呆気に取られた。場違いな闖入者。なぜ、こんな場所にスーツ姿の男が。
「て、てめぇ! どこから……」
銃を構えた男が叫ぶ。その背後で、見張りをしていたはずの仲間が、音もなく床に崩れ落ちていることに、彼はまだ気づかない。矢上はその倒れた男の首筋に指先で軽く触れ、頸動脈の拍動が正常なことを確認する。ただの気絶。完璧な仕事だ。
「ただの喫茶店のマスターです。……少々、忘れ物を取りに参りまして」
矢上は心春を一瞥し、そして、目の前の男たちへと視線を戻した。
彼の心拍は、驚くほど静かだ。だが、全身の血流は加速し、末端の毛細血管までが覚醒している。アドレナリンが視床下部から放出され、彼の五感を極限まで研ぎ澄ましていた。
空気が、肌に張り付くように濃密に感じられる。男たちの荒い呼吸、汗と恐怖の入り混じった匂い、銃の安全装置が外れる微かな金属音。そのすべてが、鼓膜ではなく、皮膚感覚として直接脳に届く。
まるで、埃まみれの工房で、傷つけられた精巧なアンティークを見つけた職人だ。その修復作業に取り掛かる前の、冷徹な集中。彼の内側で、戦場の獣が静かに目を覚ますが、それを「マスター」としての理性が完璧に制御している。
「ふざけやがって!」
銃を構えた男が叫ぶと同時に、矢上は動いていた。
床に転がっていた鉄パイプを、つま先で軽く蹴り上げる。空中に舞ったそれを、まるで長年の相棒であるかのように滑らかに掴み取る。
一瞬。
矢上の姿が、床を滑るように前進する。
「ガッ!」
鈍い音。鉄パイプは回転しながら、男の右手首を正確に打ち据えた。
粉砕された骨が軋む乾いた音が、静かなフロアに響き渡る。男の悲鳴よりも早く、拳銃が床に転がった。
クラヴ・マガの基本、“ディスアーム”。凶器を持つ相手に対し、最も効率的に攻撃能力を奪う技術。
矢上は鉄パイプを手放し、次の標的へと視線を移す。
その時、奥の暗がりから、重い足音と共に、嘲るような声が響いた。
「……ハッ。相変わらず、無駄のねえ動きだ。まるで機械だな、お前は」
ぞろり、と。闇の中から一人の大男が姿を現した。
筋肉質のがっしりとした体躯。腕には、古い火傷の痕が醜く引き攣れている。他の男たちとは明らかに違う、濃密な暴力の匂いを放っていた。
彼の腰には、農具のようにも、武器のようにも見える、湾曲した異様な刃が吊るされている。
マンベレ。アフリカの戦場で使われる投げナイフ。
矢上の目が、わずかに細められた。
「……向井さん。お久しぶりですね」
「おうよ、矢上。まさか、こんな極東の便所みたいな街で、お前と再会するたぁな」
男の名は、向井彰。矢上が傭兵部隊にいた頃の、数少ない「戦友」と呼べた男。そして、道を違えた男。
「ずいぶんと荒れた商売をなさっている。テロ組織『ブラック・フラッグ』の構成員が、こんな所で誘拐ごっこですか」
矢上の皮肉に、向井の顔が歪んだ。
血が頭に上り、こめかみの血管が脈打つ。呼吸が荒くなり、唾液が口内に溜まる。
頬がカッと火照り、錆びた鉄のような血の味が舌の上に広がる。
導火線に火をつけられたダイナマイトだ。爆発の衝動が、理性を焼き切ろうとしている。
「笑わせんなよ、矢上! お前こそ、マスターだと? 銃じゃなく、豆を挽いてんのか、アァ?」
「ええ。どちらも“苦み”を扱う、繊細な仕事ですから」
「……ッ、テメェ!!」
向井が吠えた。
腰からマンベレが抜き放たれる。鈍い銀色の刃が、ランタンの光を反射し、唸りを上げて矢上の喉笛めがけて振り抜かれた。
矢上は、紙一重でそれを避けた。
頭を傾け、刃が空気を切り裂く音を耳元で聞く。
即座に踏み込み、肘を盾のように立てて、マンベレを振り抜いた向井の腕を受ける。
ゴッ、と重い衝撃が骨に響く。だが、矢上の体幹は微動だにしない。
反撃。開いた掌底が、最短距離で向井の顎を弾く。
脳が揺れた向井がたたらを踏む。矢上は追撃の膝蹴りを放つ。
しかし、向井もまた戦場の修羅。咄嗟に腕で蹴りを受け流し、刃を薙ぎ払うようにして距離を取った。
「……変わらねぇな、お前。あの頃と、何も」
息を整えながら向井が吐き捨てる。
「ええ。ただ、戦う理由だけは違います」
矢上は静かに答えた。
向井が、残った部下たちに顎をしゃくった。
「かかれ! 殺せ!」
その号令で、我に返った八人の男たちが、一斉に動いた。
獣の群れが、一人の男に襲いかかる。
だが、それは狩りではなかった。一方的な、「処理」だった。
・銃口が三つ、同時に火を噴く。
矢上は、発砲と同時に床を蹴っていた。銃弾が、彼が先ほどまで立っていた場所のコンクリートを砕き、粉塵を巻き上げる。
・彼は壁際を、影が流れるように走る。倒れた古いスチール製の机を蹴り上げ、即席の盾とする。金属音を立てて銃弾が机に弾かれる。
・盾の陰から飛び出し、最も近い男(ナイフ持ち)の間合いに入る。
男が恐怖に歪んだ顔でナイフを突き出す。矢上はその腕を外側から払い、手首を掴む。そのまま体重を乗せて腕を捻り上げる。
「ギッ!」
人間の関節が発してはならない音が響き、男は膝から崩れ落ちた。腕はあらぬ方向に曲がっている。
・背後から鉄パイプが二本、同時に振り下ろされる。
矢上は振り向かない。背後の気配、風圧、殺意。そのすべてを皮膚で感じ取っている。
彼は身を屈め、二人の男(AとB)の間をすり抜ける。AとBの鉄パイプは、互いの肩を強打した。
矢上は立ち上がりながら、Aの喉に肘打ちを叩き込み、昏倒させる。
・怯んだBの顎を、反対の手で押し上げるように掴み、首を極める。テコの原理で巨体が持ち上がり、そのまま床に叩きつけられる。後頭部を打ったBは、痙攣して動かなくなった。
・残る四人。一人が銃を乱射する。
矢上は、柱の陰に身を隠す。弾丸が柱を削る。
(……この空気。この硝煙の臭い。十年前と、何も変わらない)
彼の脳裏に、砂漠の陽炎が揺らぐ。
(だが、違う)
今の彼は“殺さない”。“喫茶店のマスター”として、命を奪わず、ただ「機能」を停止させる。
彼は“破壊者”ではなく、“修復者”だ。
銃弾が途切れた。リロードの一瞬。
矢上は柱から飛び出した。
銃を持った男が、慌てて弾倉を入れ替えようとする。その両手首を、矢上の指が鷲掴みにする。
「あ……」
人間の急所である手首の神経叢を、万力のような力で圧迫される。男は絶叫する間もなく、銃を取り落とし、失神した。
残る三人。彼らはもはや戦意を失い、後退っていた。
矢上は、落ちた拳銃を拾い上げると、その扱いに慣れきった手つきでスライドを引き、弾丸をすべて抜き取り、床にばら撒いた。そして、空になった銃を、彼らの足元に滑らせるように投げた。
「どうぞ。もう、ただの鉄の塊ですが」
戦闘は、わずか数十秒で終わっていた。
十七階のフロアには、十人の男たちが折り重なるように倒れ、呻き声を上げている。
その中央に、矢上は静かに立っていた。息一つ乱していない。
残るは一人。
向井彰。
彼は、血が滴るマンベレを握りしめ、肩で息をしながら、目の前の光景を信じられないという顔で見ていた。
「……バケモンが」
向井が絞り出すように言った。
「お前、まだあのガキを庇うつもりか? そいつは人違いだ! 俺たちの計画とは何の関係もねえ、ただのガキだ! 誤認で攫われた女なんざ、どうでもいいだろうが!」
矢上は、心春の方を向いた。
彼女は、恐怖と混乱で涙を流しながらも、その目を必死に矢上に向け続けていた。
矢上は、向井へと向き直った。
銀縁の眼鏡の奥の瞳が、絶対零度の光を宿す。
「私のお気に入りを」
その声は、地を這うように低く、冷たかった。
「“どうでもいい”と呼ぶのは、許せませんね」
「……ッ、う、おおおおおっ!」
向井が、最後の理性を焼き切って突進した。
マンベレが、彼の絶叫と共に閃く。
それは、すべてを断ち切るための一撃。
だが、矢上はすでにその軌道を見切っていた。
彼は内側へと踏み込む。向井の懐へ。
刃が頬を掠め、数本の髪を切り裂く。
矢上は、マンベレを握る向井の手首を内側から掴み、そのまま体を捻転させる。
向井の巨体が、意志に反して宙を舞う。
肘が極められ、マンベレが手から離れた。
矢上は奪い取ったそれを、床に向かって投げつける。
マンベレはコンクリートに深く突き立った。
「あなたには、まだ立ち直る機会があると思っていましたが……」
矢上は、受け身を取って立ち上がろうとする向井の前に、滑るように移動する。
「……どうやら、違ったようだ」
向井が、最後の力を振り絞り、拳を振るう。
その拳が届くより早く、矢上の掌底が、寸分の狂いもなく向井のみぞおちを撃ち抜いていた。
「……ぐ、ふ……」
肺から全ての空気が強制的に排出される。
内臓を直接、熱い鉄の棒で貫かれたような衝撃。視界が白く点滅し、全身の力が抜けていく。
向井は、糸の切れた操り人形のように、その場に崩れ落ちた。
***
静寂が戻った。
部屋に残るのは、倒れた男たちの苦悶の呻きと、割れた窓から吹き込む風の音だけ。
矢上は、ベストの埃を払うように軽く手で撫でると、心春のもとへ歩み寄った。
彼は、彼女の口に貼られたテープを、その皮膚を傷つけないよう、驚くほど優しい手つきで剥がした。
「……や、がみ……さん……」
心春の声は、涙でかすれていた。
「もう大丈夫です。怖い思いをしましたね」
矢上は、結束バンドをナイフで切り、彼女を自由にした。
震える足で立ち上がろうとする心春。矢上は、彼女が倒れないよう、その腕を軽く支えた。
その手は、先ほどまで戦っていた男の手とは思えないほど、温かかった。
矢上は胸ポケットから、通報用に使っているプリペイド式の携帯電話を取り出し、匿名で110番通報を行った。場所と、武装した男たちが倒れている旨だけを簡潔に告げる。
やがて、遠く。
地上の喧騒の中から、甲高いサイレンの音が響き始めた。
「参りましょう。彼らに見つかるのは、少々面倒ですから」
矢上は心春の手を引き、窓際の鉄骨を軽々と飛び越え、非常階段へと導いた。
階段を駆け下りながら、心春は必死に息を整える。
矢上の足音は、ここでもほとんど聞こえない。まるで、重力の影響を受けていないかのようだ。
廃ビルの外へ出たとき、サイレンの音は最高潮に達していた。赤色灯の光が、ビルの側面を舐めるように照らし出している。
「ここから先は、走らなくても大丈夫です」
矢上は、何事もなかったかのように言った。
「……どうして、私を……」
心春は、まだ震えが止まらない声で尋ねた。
矢上は立ち止まり、夜の街路灯の下で、彼女に向き直った。
「あなたは、“すのうどろっぷ”の人間です」
彼の口元に、ごく微かな笑みが浮かんだ。
「それだけで、十分ですよ」
街灯の光に、矢上の眼鏡が白く光る。
その背後では、パトカーが次々と廃ビルに到着し、警官たちが慌ただしく飛び出していく。
矢上は、心春が安全な大通りまでたどり着くのを見届けると、静かに背を向け、夜の闇へと歩き出した。
その背中に、心春のかすかな声が響く。
「……矢上さん、ありがとうございます……!」
矢上は振り返らなかった。
ただ、小さく片手を上げた。
その姿は、神居市の夜景の中に、ゆっくりと溶けていった。
夜風が、硝煙の代わりに、どこか遠い場所から運ばれてきた、微かなコーヒー豆の香りを運んできたような錯覚を、心春は覚えていた。
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