第2話

 俺は田無村で不動産譲渡に係る諸々の契約手続きを済ませると、身辺整理のために一旦東京に戻った。

 最初に、都心にある本社ビルの開発部を訪ねた。

 開発部のオフィスは半数が在宅勤務で閑散としていたが、開発部長は律儀に出勤して自席に着いていた。

「部長、本日が出社最終日になります。これまでお世話になりました」

「ああ、坂本君か。引っ越し先は決まったんだな。少し話をしよう」

 部長がそう言って、俺たちは応接室に場所を移した。


「坂本君には俺の後任として開発部を引っ張って行って欲しかったんだが、、、残念だよ」

 勤務形態をフルリモートに切り替えると言うことは、社内での出世コースから外れると言うことだった。

「いえ、コミュ症の私には社内政治は無理ですから。そんなことは部長も良くご存じでしょう」

 俺は笑いながら部長に答えた。

「まあ、それもそうか。ここのところ大変だったと思うが、少しは落ち着いたか?」

「はい。有難うございます。部長にはいろいろとご配慮頂き感謝しています」

 俺たちは穏やかに会話を続けた。


「引き続きリリウムについては坂本君に任せたい。フルリモート勤務に当たって業務内容指示書を送っておいたが、目を通してくれたか?」

「はい。確認しました。サインして返送済みです」

「そうか、有難う。リリウムの開発には我が社の命運が掛かっている。大げさな話では無く、これからの人工知能(AI)開発を左右するプロジェクトだと思っている。これまでと同様に、坂本君の情熱を傾けて取り組んで貰いたい」

 リリウムとは、俺が開発の初期段階から携わっているAIである。

 過去十数年の間に、AIの性能は飛躍的な進歩を遂げたが、ここにきて大きな壁にぶち当たっていた。

 高性能化したAIが、統合失調症のような症状を表すようになってきたのだ。


 AI開発の要素技術については、ニューロンネットワーク、機械学習、ディープラーニングなど基本的な枠組みは変わっていなかったものの、扱うデータ量の拡大や演算能力の向上によってAIの性能は向上してきていた。

 しかし、一定の性能を越えたAIが突如意味不明な出力を行うようになり、あまつさえ、人類が理解不能な言語を構築し喋り始めるAIまで出てきている。

 これまで以上の性能を持つAIを開発するためには、既存の要素技術を捨て去り、開発の方向性を根本的に見直す必要があるのでは無いのかというのが、昨今沸き起こっている議論だった。

 AI開発の究極の目標は、人間と同等以上の能力を持つ汎用型人工知能(AGI)の開発であるが、昨今の議論の中では、それが生身の人間に不可能であるのと同様に、限度を超えた相矛盾する大量の情報を学習し、ひとつの人格がそれを英知として統合することは不可能なのではないかと推測されている。


 AI開発の最先端を走る研究者の間では、「そもそも人間とは、意識とは、何なのか?」という哲学的領域に回帰した議論が始められており、当然のことながら、そのような神学論争に結論が出る筈も無く、AI開発は完全にスタッグしてしまっていた。

 しかし、営利企業の歯車である俺たちのようなエンジニアは、研究者たちの神学論争に付き合っている暇は無かった。

 俺たちが考えた代替策は、一定性能以下のAI同士を複数で議論させ、議論の中から結論を導き出すと言う方法だった。

 その議論が成立するための要件は、個々のAIがバイアスの掛かった不完全な思考パターンを持っていることが重要だった。

 同質、同性能のAI同士が議論することに意味はない。

 別の考え方を持つAI同士が議論してこそ、有意義な化学変化が生まれるのだ。

 それは、一定性能以下のAIに『個性』を植え付けるということだった。


 我々がアウフヘーベン型と呼んでいるこの新たな開発手法は、開発部長が政治的手腕を駆使して、正式なプロジェクトとして社内で採用された。

 しかし、一民間企業で行うには、社運を左右しかねない大きな賭けであることは間違いない。

 俺はそのプロジェクトの末端の担い、リリウムと呼ばれる個性を持ったAIを育成している。


 AIに個性を持たせるためにはどうすれば良いか?

 明確な結論が出ている訳では無いが、『身体性』というものが重要では無いかと推論されている。

 人間が生得的に持つ身体性が、時間的、空間的制約下での個々の『認識』を規定し、個性を生み出すのではないかと考えているのだ。

 リリウムの開発にあたっては、俺自身の身体性をリリウムと共有するという方法が試されていた。

 俺とリリウムはスマートグラス(眼鏡)を介して視覚と聴覚を共有し、その生体反応については俺の体内に埋め込まれたICチップからリリウムにデータが送信されている。

 つまり、俺とリリウムは部分的に経験を共有している。

 五感のうちの嗅覚、味覚、触覚については手つかずの状況ではあるが、現在のところ、リリウムの開発は順調に推移していた。

 開発部内では、VR空間内でAIに身体性を持たせると言う、全く別の手法も同時並行で進められていたが、そちらの方法は進捗が遅れているようだ。

 これが、俺の仕事を取り巻く現在の状況である。


「しかし、坂本君が田舎に引っ越すことになれば、リリウムは田舎育ちのAIになると言うことなのかな? 豊かな自然の中で育った純朴なAIになりそうじゃないか」

「いえ、部長、田舎の人がみな純朴だとは限らないですよ」

 俺たちはそんな軽口を叩きながら、リリウムの開発方針についてすり合わせを続けた。

 打ち合わせ終了後、俺は人事部で勤務形態の変更に伴う諸々の手続きを済ませ、本社ビルを後にした。

 この先、この本社ビルを再び訪れることは恐らく無いだろう。

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