第26話

 昼になる。

 いつものように社食で昼食を摂る。

 日替わり定食――焼き魚に小鉢、味噌汁。

 温かいご飯を口に運びながら、「昼からも頑張るぞ」と小さく気合を入れた。


 ――その時だった。


 視界が、ふっと歪んだ。

 机の端が揺らぎ、蛍光灯の光が波打つように見える。


 (……なんだ? 疲れか?)


 頭を押さえる間もなく、

 耳の奥に、確かに声が響いた。


 「――聴こえているか?」


 低く、はっきりとした声。

 社内の誰の声でもない。

 まるで、頭の中に直接語りかけてくるような――そんな声だった。


「ああ、聴こえる」

 そう返した自分の声が、やけに遠くで響いた気がした。


「ならいい……これから“シュレディンガー”を切るから、耐えてくれ」


 (シュレディンガー? なんだそれ?)


 問い返す間もなく、視界がぐにゃりと歪んだ。

 地面が波のようにうねり、机も、空間も、すべての線が崩れていく。

 吐き気が込み上げ、膝が折れそうになる。


 ――そして。


 瞬きをした次の瞬間、

 俺は家の近くの街路に立っていた。


 陽の角度が違う。空気の匂いも違う。

 ここは……?


 道の先に、一人の男がいた。

 黒いコート、銀色の髪、目だけが異様に光を反射している。


 (……誰だ?)


「大丈夫か? 自己紹介がまだだったな……俺は武井。武井久義(たけいひさよし)だ」


 声は落ち着いていて、どこか懐かしさすら感じる。


「俺は――」

 口を開きかけた瞬間、武井が軽く手を上げて遮った。


「知っている……だが、その名は少し“言いにくい”な」

 彼は顎に手を当てて、ふむ、と考え込むような仕草をした。


「……ふむ、『若(わか)』と呼ぶことにしよう」


「ぶっ!? なんだよそれ!」


 思わず声が裏返る。

 「若」って……まるでヤクザの組の呼び方じゃないか。


 「俺、そんな柄じゃないんだけど!?」


 武井はくすりと笑い、コートのポケットに手を突っ込んだ。

 「いいだろ、“若”。この状況じゃ、名前より立場が大事なんだ」


 (……立場? 何の話だ?)

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