第四話「タイトルのない恋の始まり」

 美咲への想いを自覚してから、僕の日常は少しずつ変わり始めていた。

 授業中、ふとした瞬間に彼女のことを考えてしまう。偶然、廊下ですれ違う時、胸の高鳴りを覚えてしまう。


 そして何より――美咲が部屋に来る日を、以前とは比べ物にならないほど待ち遠しく感じるようになっていた。


 六月に入り、梅雨の季節が訪れた。

 昼休み。僕は教室で本を読んでいた。いつもの習慣だ。

 窓の外では雨が降り続けている。傘を持たずに登校した生徒たちが、困った顔で空を見上げていた。


「木村、お前今日も一人ぼっちで飯食ってんのか」


 同じクラスの田中が、弁当を持って近寄ってきた。


「ああ、一人のほうが落ち着くからな」

「相変わらずだな。まあ、お前らしいけど」


 田中は隣の席に座ると、弁当を開いた。


「そういえばさ、木村っていま寮だろ? 寮生活はどうよ」

「まあ、悪くない。一人の時間が取れるからな」

「へー。俺だったら寂しくて無理だわ」


 そう言いながら、田中は弁当の唐揚げを頬張る。


「あ、そうだ。木村、桜井美咲って知ってる?」


 その名前を聞いた瞬間、本を読む僕の手が止まった。


「……ああ、演劇部の」


「そうそう! あいつ超可愛いよな! 学年違うけど、男子の間でめっちゃ人気あるらしいぞ」


 田中は目を輝かせている。


「今日も昼休み、一年の教室の前で男子に囲まれてたわ。やっぱギャルってモテるんだな」


 その無遠慮な言葉に、僕の胸がざわついた。


「……そうか」


「お前、興味ないの? あんな可愛い子、めったにいないぞ」

「別に」


 僕は素っ気なく答えた。

 だが、内心は穏やかではなかった。


 美咲が男子に囲まれている?

 それは、いつものことかもしれない。彼女は派手で目立つから、まわりから注目されるのは当然だ。


 でも――。


「木村、お前ってさ、ああいうタイプ、苦手だろ?」

「……まあ、そうかもな」


 そう答えながらも、胸の奥がざわついた。

 田中の言葉に、僕は何も言い返せなかった。

 確かに、僕と美咲は住む世界が違う。

 彼女は明るくて、人気者で、いつも誰かに囲まれている。

 僕は地味で、目立たず、いつも一人でいる。


 そんな僕が、彼女のことを好きだなんて――。


「木村? どうした、顔色が悪いぞ」

「……いや、何でもない」


 僕は本に視線を戻した。

 だが、文字は全く頭に入ってこなかった。


 ◇


 放課後。

 僕は寮への帰り道、一年生の校舎の前を通りかかった。


 そこで――偶然、見てしまった。

 美咲が三人の男子生徒に囲まれている光景を。


「桜井さん、今度の日曜日、俺と映画行かない?」

「えー、日曜日は予定あるんですよねー」

「じゃあ、土曜日は? 俺、桜井さんが好きそうなカフェ知ってるんだけど」

「ごめんなさい、土曜日も忙しくて」


 美咲は笑顔で、しかしはっきりと断っている。

 だが、男子生徒たちはしつこく食い下がる。


「そんなに忙しいの? もしかして彼氏とデートとか?」

「彼氏は……いないですけど」


 その言葉に、僕の胸が痛みと共にさわつきを覚えた。


 そうだ、美咲には現在、彼氏がいない。

 でも、こうして他の男子からアプローチされている。

 当然だ。彼女は可愛いし、明るいし、とても魅力的だ。


「じゃあ、俺とデートしようよ! 絶対楽しませるから!」

「うーん、でも……」


 美咲が返答に困っている。


 僕は――とっさに、その場に近づいていた。以前の自分ならそのまま見過ごしてしまう状況なのに……。


「桜井!」

「え?」

 美咲がこちらを振り返る。

 そして、僕の姿を見て、目を見開いた。


「き、木村先輩!?」

「悪い、今日も部屋使わせてもらっていいか?」


 僕は適当な嘘をついた。

 美咲は一瞬とまどったが、すぐに言葉の意味を理解してくれた。


「あ、はい! もちろんです!」


 そして、男子生徒たちに向かって言った。


「ごめんなさい、先輩と約束があるので。じゃあ、また!」


「……先輩、行きましょ」


 美咲は僕の腕をつかんで、その場から離れた。

 男子生徒たちは呆然としたまま、僕たちを見送った。


 校舎を出て、雨の降る中を歩く。

 美咲は僕の隣で、傘を差している。

 僕も自分の傘を差していたが、なぜか二人の距離は近かった。


「先輩、助けてくれてありがとうございます」


 美咲が小さく言った。


「あいつら、しつこかったな」

「はい……いつものことなんですけどね」


 美咲は少し疲れたように笑った。


「いつも、なのか?」

「まあ、そうですね。私、見た目が派手だから、よく声かけられるんです」


 美咲の声には、どこか諦めのような響きがあった。


「でも、みんな私の外見しか見てないってすぐに分かるんです。本当の私に興味があるわけじゃなくて」


「……そうなのか」


「はい。だから、適当に断ってます」


 美咲はそう言って、僕の顔を見上げた。


「先輩は……あの人たちとは違いますよね」

「え?」

「先輩は、私の中身を見てくれる。本を読む私を、変だって言わないし。ちゃんと話を聞いてくれる」


 美咲の大きな瞳が、真っ直ぐに僕を見つめている。


「だから……先輩といる時が、一番落ち着くんです」


 その言葉に、僕の胸が熱くなった。

 美咲にとって、僕は特別な存在なのか?

 それとも、ただの居心地のいい先輩でしかないのか?


「なあ、美咲」

「はい?」

「さっき、彼氏はいないって言ってたけど……」


 言いかけて、僕は言葉を止めた。

 何を聞こうとしているんだ、僕は。


「先輩?」

「いや、何でもない」


 僕は視線を逸らした。

 だが、美咲はその場で立ち止まった。


「先輩、もしかして……」

「ん?」

「嫉妬とか、してました?」


 その言葉に、僕は固まった。

「は!? な、何を言ってるんだ」

「だって先輩、さっき廊下で声をかけてくれた時、すごく怖い顔してましたよ」

「き、気のせいだ」

「本当ですか?」


 美咲が少し意地悪そうに笑う。


「……先輩が助けに来てくれた時、すごく嬉しかったです」

「た、助けたわけじゃないだろ。たまたま通りかかっただけで」

「嘘。先輩、絶対わざわざ来てくれましたよね」


 図星を突かれて、僕は何も言えなくなった。

 美咲は嬉しそうに笑うと、僕の腕に自分の腕を絡めてきた。


「な、何してるんだ!?」

「だって、嬉しいんですもん。先輩が、私のために来てくれたって」


 美咲の制服越しの体温が、腕に伝わってくる。

 シャンプーの香りが、雨に濡れた空気の中でより強く香った。


「せ、先輩……もしかして」


「何だ?」


「私のこと……」


 美咲が何かを言いかけた時、突然の雷鳴が響いた。

 雷鳴が落ちた瞬間、街灯の光が一瞬だけ揺らいだ。

 美咲の指先が、僕の袖先をぎゅっと掴む。


「こ、怖い……」

「大丈夫か?」

「はい……でも、私、雷が超苦手なんです」

 美咲は僕の腕にしがみついている。

 その距離の近さに、僕の心拍数が、相手に聴こえてしまうのを心配するほどに、

 高まる。


「早く寮に戻ろう」

「は、はい」


 二人で急いで寮に向かう。

 雨脚が強くなり、傘を差していても濡れてしまう。

 だが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。


 美咲が僕の隣にいる。

 それだけで、この雨も悪くないとさえ思えた。


 寮に着いた頃には、二人ともびしょ濡れだった。


「うわー、すごく濡れちゃいましたね」


 美咲は髪から雫を滴らせながら笑っている。

 制服も濡れて、ブラウスの体のラインが少し透けて――。


 僕は慌てて視線を彼女から逸らした。


「と、とりあえず部屋に入れ。タオルを用意するから」

「ありがとうございます!」


 部屋に入ると、僕はクローゼットからタオルを二枚取り出した。


「ほら、これを使って」

「ありがとうございます」


 美咲はタオルで髪を拭き始める。

 その仕草が、妙に色っぽくて、僕はまた視線を逸らした。


「先輩も、ちゃんと髪を拭いてくださいね。そのままだと風邪ひきますよ」

「あ、ああ」


 僕も自分の髪を拭く。

 沈黙が流れる。

 いつもなら自然に会話が始まるのに、今日は何だかぎこちない。

 さっきの、美咲の『私のこと……』という言葉が、頭から離れない。

 あれは、何を言おうとしていたんだろう。


「先輩」

 美咲が先に口を開いた。


「何だ?」


「……さっきの続き、聞いてもいいですか?」

「続き?」

「はい。先輩、私が男子に囲まれてるの見て、嫌でしたか?」


 あまりにも直球な質問に、僕は言葉に詰まった。


「それは……」

「正直に、教えてください」


 美咲の瞳が、真剣に僕を見つめている。


 もう嘘はつけない。


「……正直、いい気はしなかった」

「どうしてですか?」

「それは……」


 僕はどう答えればいいんだ。

 美咲が好きだからだなんて、とても言えるわけがない。


「……君が、困ってたから」

「それだけですか?」


 美咲が一歩近づく。


「先輩、本当にそれだけですか?」


 彼女の顔が、すぐ近くにある。そっと指先を伸ばせば柔らかい頬に触れそうな距離感だ。


 大きな瞳が、僕を見つめている。


「美咲……」

「私、先輩に正直に言います」


「ふうっ」


 美咲は深呼吸をして、続けた。


「私、先輩以外の人とデートしたくないです」

「え?」

「先輩以外の男の人に、アプローチされても全然嬉しくないです」


 美咲の頬が、ほんのり赤く染まっている。


「だって、私……」


 そこで、美咲は言葉を止めた。

 そして、そのままうつむいてしまう。


「……ごめんなさい、やっぱり言えないです」

「美咲?」


「今日は、もう帰りますね」


 美咲は慌ててその場から立ち上がった。


「お、おい、ちょと待てよ」

「ごめんなさい、先輩。私、変なこと言っちゃいました」


 美咲はタオルを僕に返すと、ドアに向かった。


「また、来てもいいですか?」

「え? あ、ああ、もちろん」

「良かった……」


 美咲はほっとしたように笑った。


「じゃあ、また金曜日に」

「ああ」


 美咲がドアを開けようとした時、僕はとっさに声をかけていた。


「美咲!」

「はい?」


 振り返った美咲に、僕は――言えなかった。


 本当は、僕も同じ気持ちだと。

 君のことが、好きだと。


「……気をつけて帰れよ」

「はい。ありがとうございます」


 美咲は少し寂しそうに笑って、そのまま部屋を出ていった。


 ◇


 一人になった部屋で、僕は壁に頭を打ち付けた。


「馬鹿野郎……」


 なぜ、言えなかったんだ。

 美咲は、あんなに勇気を振り絞って想いを伝えようとしていたのに。

 僕は、何も言えなかった。


「臆病者だ……」


 自分を責める。

 だが、怖かったんだ。

 もし告白して、彼女から断られたら。

 今の関係が壊れてしまったら。

 僕は、また一人になってしまう。


「でも……」


 美咲の言葉を思い出す。


『先輩以外の人とデートしたくない』


 あれは、どういう意味だったんだろう。


 もしかして、美咲も――。


 その可能性を考えると、胸が高鳴った。


 だが、同時に不安にもなる。

 僕みたいな地味な奴を、人気者の美咲が好きになるはずがない。

 きっと、自分の勘違いだ。


「はぁ……」


 僕は深くため息をついた。

 窓の外では、雨が降り続けている。

 雷鳴が、時折響いた。


 ◇


 その夜、美咲は自分の部屋で枕に顔を埋めていた。


「やっちゃった……やっちゃった」


 あんなことまで言うつもりじゃなかったのに。


 勢いで、つい本音が出てしまった。


「先輩、どう思ったかな……」


 不安で、胸が押しつぶされそうになる。


 でも、少しだけ――すっきりした気持ちもあった。

 想いを伝えるのは、怖い。

 でも、伝えなければ、相手には分からない。


「次に会った時、私、どんな顔すればいいんだろう」


 美咲は天井を見上げた。


 金曜日。

 また、先輩の部屋に行く日。

 いつも通りに振る舞えるだろうか。


「……頑張ろう」


 美咲は小さく呟いた。

 演劇の舞台では、堂々と演技ができるのに。

 恋愛は、台本がないから難しい。


 でも、だからこそ――本物なんだ。


「先輩……」


 木村先輩の顔を思い浮かべる。

 優しくて、本が好きで、少し不器用だけど、誰よりも私を理解してくれる人。


「好きです」


 小さく呟いて、美咲は一人で顔を赤くした。

 いつか、ちゃんと伝えよう。

 台詞じゃなくて、本当の想いを。


 ◇


 金曜日。

 その日は、朝から快晴だった。

 梅雨の晴れ間。

 僕は授業中も、ずっと放課後のことを考えていた。

 今日、美咲は来るのだろうか。

 この前のことがあって、気まずくなっていないだろうか。

 不安で、胸がざわざわする。


 そして――放課後。

 僕は部屋で、美咲を待っていた。

 いつもなら三時半には来るはずだが、今日は三時四十分になっても来ない。


「……来ないのか?」


 不安がどんどん大きくなる。

 やっぱり、この前のことで気まずくなったのか。

 もう、来てくれないのか。


 その時――ノックの音が部屋に響いた。


 僕は慌ててドアを開けた。


「せんぱーい、遅くなってごめんなさい!」


 そこには、いつもの笑顔の美咲がいた。


「美咲……」

「先生に呼ばれちゃって、遅くなっちゃいました」


 美咲はぺろっと可愛い舌を出す。


「そ、そうか」


 安堵で、胸が熱くなった。

 来てくれた。

 美咲は、また部屋に来てくれた。


「先輩、何か機嫌悪いですか?」

「え? いや、別に」

「本当ですか? 何だか元気ないですよ。顔色も悪いし」


 美咲が心配そうに顔を覗き込んでくる。

 その距離の近さに、僕はどきりとした。


「大丈夫だ。ちょっと疲れてただけ」

「そうですか? ならいいんですけど」


 美咲は安心したように笑った。

 そして、いつものように定位置の床に座り込む。


「今日は、『人間失格』読んでもいいですか?」

「ああ、どうぞ」


 美咲は本棚から本を取り出して、ページを開いた。


 いつもと変わらない光景。

 でも、何かが違う気がした。

 美咲が時折、こちらをちらりと見る。

 そして、すぐに視線を本に戻す。


 その仕草が、何だか可愛くて――。

 僕も、つい美咲を見つめてしまう。

 視線が合うと、お互いすぐに逸らす。


「……」

「……」


 沈黙が流れる。

 だが、それは気まずい沈黙ではなく――。

 お互いの存在を意識しすぎて、何も言えないような沈黙だった。


「あの、先輩」


 美咲が先に口を開いた。


「ん?」

「この前のこと……」


 美咲は本から顔を上げて、僕を見た。


「覚えてますか?」

「……ああ」

「私、すごく変なこと言っちゃいましたよね」

「別に変じゃない」


 僕は即座に答えていた。自分でも驚くほどに。


「え?」

「変じゃないよ。君の気持ち、とても嬉しかった」


 美咲の顔が、ぱっと赤くなる。


「せ、先輩……」

「僕も、同じ気持ちだから」


 ついに、言ってしまった。

 でも、後悔はなかった。


「君が他の奴に囲まれてるの見て、正直、めちゃくちゃ嫉妬した」

「嫉妬……」

「ああ。君のことが……気になってる」


 まだ、『好き』とは言えない。


 でも、この言葉が精一杯だった。

 美咲は目を潤ませて、僕を見つめている。


「私も……先輩のこと、すごく気になってます」

「美咲……」


 二人はそのまま見つめ合う。

 別に言葉はいらなかった。


 お互いの気持ちは、もう伝わっている。

 まだ、告白には至っていない。

 でも、確かに――二人の間に、何かが芽生え始めていた。


「先輩」

「ん?」

「これからも、ここに来ていいですか?」

「当たり前だろ」


 僕は笑った。


「君が来ない日、部屋が寂しいんだ」

「私も、先輩に会えない日は寂しいです」


 美咲は嬉しそうに笑った。

 そして、少しだけ僕に近づいた。


「じゃあ、これからもよろしくお願いします」

「ああ、こちらこそ」


 窓の外では、夕日が沈みかけている。

 オレンジ色の光が、部屋を優しく照らしていた。

 その光の中で、二人は並んで座り、本を読んだ。

 距離は、以前より少しだけ近い。

 時々、肩が触れ合う。

 お互い、それを避けようとしない。

 言葉にはしていないけれど――。


 窓辺の光が、二人の影をゆっくりと床に重ねていた。

 それは、まだ名前タイトルをつけられない恋の始まりだった。


 第四話 了


 第五話「星に願いを、君に想いを」に続く

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