第8話:嘘の笑顔
朝、鏡の前で笑ってみた。
いつもより少し口角を上げる。
昨日の夜、練習しておいた笑顔だ。
「これくらいなら自然に見えるよね」
鏡の中の自分にそう言ってみるけれど、
どこかぎこちなくて、すぐに視線をそらした。
廊下の向こうから母の声がする。
「美咲、そろそろ行く時間でしょ」
「うん、分かってる」
そう返事をしても、声が少しだけ掠れていた。
洗面台の水が冷たくて。
頬にあてるたびに頭の奥が冴えていく。
今日が“その日”だ。
逃げられない、分かってる。
だけど、心のどこかで“誰か”の顔が浮かんでしまう。
——祐樹。
昨日の堤防での事が頭を離れない。
潮の匂い。
彼の声。
そして、あの諦めきれない表情。
あの時の彼は、私にまだ何かを期待している顔をしていた。
だけど私にはもう、それに応えることはできない。
だから「過去との決別」なんて言ってしまった。
だけど自分でも信じてなかった。
そう言わなければ、彼は前に進めない。
そして私も、崩れてしまいそうだったから。
支度を終えて玄関を出ると、真夏の陽射しが目に刺すように眩しかった。
セミの声が、遠慮なく鳴り響いている。
その音が胸の奥をざわつかせる。
——こんな日にも、夏はちゃんと続いてるんだ。
タクシーに乗り込み、車窓から見える海を眺める。
どこまでも青い空。
昔、祐樹と歩いた海岸線もきっと同じように光っている。
でも、もうあそこに戻ることはない。
料亭の入り口に着くと、母が先に立っていた。
「笑顔、忘れないでね」
その言葉に小さく頷く。
——笑顔なら、もう練習してある。
それが本物じゃないことを、誰も気づかないように。
店員さんに案内されて個室へと向かう。
ここからは最高の私を演じなければいけない。
この襖の向こうにいる相手に選んでもらえるように。
乱れたスカートの皺を伸ばし、大きく息を吐くと、私は襖を開けた。
「失礼します」
軽く頭を下げると私は席に着く。
相手のことは写真で一度見たことがあった。
まさに写真通りの、真面目を絵に描いたような人だった。
「はじめまして。土屋美咲と申します」
三つ指を立てて改めて頭を下げる。
——さあ、人生で最大の演技の開始だ。
「お相手の方、すごく満足そうだったわね」
横に座る母が機嫌良く話しかけてくる。
「ああいう人なら安心ね
安心してあなたを嫁がせる事ができるわ」
私はただ車窓から見える海岸線を眺めていた。
母の言葉が、どこか遠くで鳴っているように聞こえる。
“落ち着く”って、どういう意味なんだろう。
心が静かになること? それとも、何も感じなくなること?
見合いの席は、上手くいったと思う。
相手を立てて話すこともできたし、
仕草だって、母に言われた通り“品よく”できた。
でも——全部、演技。
本当の私は、どこにもいなかった。
相手の人は優しかった。
誠実そうで、きっと誰からも好かれる人。
けれど、あの人の前では心がひとつも動かなかった。
「土屋さんは静かな海が似合いそうですね」
その言葉に笑って返したけど、
私が最後に海を見たのは——祐樹と一緒だった。
「……そうだね」
窓の外を眺めながら私は呟く。
車のエンジン音が妙にうるさく感じた。
それでも私は、母の言葉にただ頷くだけだった。
部屋に戻ると、畳の匂いがやけに濃く感じた。
窓の外では、夕方の光が網戸越しにオレンジ色に滲んでいる。
さっきまで着ていたワンピースを脱いで、ベッドの上に放り出した。
襟のあたりにうっすらと残るファンデーションを指先でなぞる。
指が少し震えた。
——あの席で笑っていたのは、本当に私だったのかな
言葉のひとつひとつが薄い膜の向こうの出来事みたいだった。
母の笑顔も、相手の穏やかな声も、全部がどこか遠いところで響いていた。
カーテンの隙間から、夕陽が差し込んでくる。
オレンジと赤が入り混じった光が、壁を染めていた。
その光の中に、祐樹が立っていた夏の日を思い出す。
堤防の上で、風に髪を揺らしながら笑ってた彼。
あの時の笑顔だけは、本物だった。
ふと部屋にある鏡を覗く。
今の自分がどんな顔をしているのか。
鏡の中の私は酷い顔をしていた。
こんなんじゃいけない、私は必死に笑顔を作ってみる。
でも、笑えば笑うほど祐樹の顔が浮かんで、喉の奥が痛くなった。
「これでよかった」って何度もつぶやいてみるけど、その声だけが嘘っぽかった。
気づいたら、枕元のスマホを手に取っていた。
トークアプリの画面には祐樹の名前。
数日分の会話がそのまま残っている。
——送ろうか
——もう一度だけ、声をかけてもいいんじゃないか
そんな考えが浮かんだ。
でも、同時にその指が動かなくなった。
「もう、終わったんだよ」
自分に言い聞かせるように呟き。
スマホを伏せたまま、ゆっくり目を閉じる。
まぶたの裏で、さっきの“笑顔の自分”が浮かんだ。
その笑顔が、ひどく哀しかった。
あの頃の私に戻れたら、どんなに良かっただろう。
でも、もう戻れない。
涙が頬を伝って落ちた。
——ようやく今日が本当に終わった気がした。
でも、明日が来るのが少し怖かった。
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