君の隣で、春になる
あか
第1話 隣の朝
四月の朝って、どうしてこう、やさしい匂いがするんだろう。
まだ冷たい空気の中に、ほんの少しだけ甘いものが混ざってる。洗いたてのシャツと、ベランダから入りこんでくる柔軟剤の匂いと、どこかの家の炊きたてのごはんの匂い。そういうのがまとめて胸の奥に入ってきて、眠い頭をゆっくり起こしていく。
アラームが止まる前に、俺は目を開けていた。
理由は簡単。スマホより先に、名前を呼ばれるから。
「──ゆうとー。起きてるー?」
窓の外から、小さなノック音と一緒に声が届く。
その声を聞くと、ああ今日からほんとに高校生なんだなって思う。
だって、これは小学校の頃からずっと続いてる、うちと隣の家だけの習慣だ。
「起きてる。今起きた」
「今じゃないでしょ。五分前から起きてるでしょ。知ってるよ」
カーテンを指で少しだけ開けて向こうの窓を見ると、やっぱりいた。
同じ二階の、ほんの三メートルくらいの距離。手を伸ばしたら届きそうなくらい近いベランダに、白いパーカーのフードをかぶった女の子が立って、こっちをのぞき込んでいる。
幼なじみの、真咲(まさき)。
朝の光を受けた髪が、少しだけ透ける。黒に見えるときもあるけど、陽が当たるとちょっとだけ茶色い。肩より少し長い髪をふわっと結んでて、寝起きなのにちゃんと可愛いのはずるいと思う。
「……おはよう」
「おはよう、ゆうと。高校一年生さん」
そう言って、すごくうれしそうに笑うから、なんかこっちまで照れる。
「真咲も一年生だろ」
「えへへ。同い年だもんね」
「いや当たり前だろ。俺より年上だったらこわいわ」
「年上のお姉さんもいいって言ってたの誰だっけ?」
「言ってない」
「言ったー。中二のときに、体育のときに、バスケ部の先輩が──」
「わかったわかったわかったからもういい!」
高一の春の初日から、黒歴史を公開処刑されるのは困る。
俺がベッドから抜け出してカーテンを開けると、真咲はベランダの手すりに両手をかけて、少し身を乗り出した。
「ちゃんと起きててえらいね」
「いや今から起きるところだって」
「ね、今日さ」
「ん?」
「一緒に行く?」
──その一言で、胸の奥がきゅっと音を立てた気がした。
一緒に行く、っていうのはつまり、初登校を並んで歩くってことだ。
ランドセルを背負っていた頃はそれが当たり前で、毎日同じ道を歩いてた。だけど中学では、なぜかその「当たり前」が途中でなくなった。
理由は、よくわからない。わからないけど、たぶんお互いちょっとだけ、はずかしくなっただけだ。
だから、聞かれると、正直ちょっとドキッとする。
「……別にいいけど」
「別にって言った。はい減点」
「なんだその採点方式」
「素直に『一緒に行きたい』って言ったら満点」
「そのテストむずいわ」
そう言い合いながらも、俺は口元がゆるんでるのを感じてた。
たぶん真咲も同じで、目が細くなってる。
「じゃ、七時四十分ね。まってるから」
「了解」
「寝ないでよ?」
「寝ないよ」
「ほんと?」
「寝たら起こしに来るなよ、絶対だからな」
「それフリ?」
目をキラッとさせるな。怖い。
そうやって、朝のいつものやり取りが終わる。
窓を閉めたあとも、部屋の空気はまだほんのりあたたかいままだった。
*
制服に着替える。
新しいブレザーはまだ肩が固くて、シャツの襟はまだちょっとパリッとしてる。鏡の前でネクタイをいじりながら、俺はふと思う。
──俺たち、これからどうなるんだろうな。
小学校の頃は「結婚してあげるね」って平気で言ってきたくせに、中三になったらそういうこと全然言わなくなって。代わりに「テストどうだった?」とか「志望校決めた?」とか、妙に現実的になった。
別にケンカしたわけじゃないし、距離ができたってほどでもない。
でも、前みたいに「隣にいることが当たり前」って感じではなくなっていて。
それがなんとなく、さびしい、って思ってた。
だから同じ高校に受かったって聞いたとき、内心めちゃくちゃ安心したのは、そんなに変かな。
いや、変か。変だな。ちょっと重いな。
やめよう、自分で自分にツッコむの。朝からめんどくさいやつになる。
ネクタイをなんとなくそれっぽく結んで階段を降りると、台所から母さんの声が飛んできた。
「ゆうとー。ちゃんと食べなさいよー。今日は特別メニューなんだからー」
「特別メニューってなに」
「卵焼きの形がハート」
「なんでそういうこと高校生にすんの!?」
「高校生だからよ?」
「どういう理論!?」
「はいこれ。ほら。可愛いでしょ?」
「母さんさあ……」
本当にハート型だった。笑った。
あと、なんだかんだでうれしいのも悔しい。
「真咲ちゃんと行くんでしょ?」
母さんがわざとらしく聞いてくる。こういうとこは昔からぜんぜん直らない。
「……まあ」
「写真撮っとこっか」
「撮らない」
「じゃこっそり──」
「撮らないで!?」
「はいはい。じゃいってらっしゃいのキスだけで我慢する」
「それはもっと無理だから!」
母さんがケラケラ笑ってる。
俺は味噌汁を一気に飲み干して、トーストを口にくわえたまま玄関に向かった。
靴をはいてドアを開けると、ちょうど向こうのドアも開く。
「おまたせー。ゆうと」
制服の真咲が、そこにいた。
ぱっと見た瞬間、心臓が一拍ぶん止まった気がした。
いつもよりほんの少し髪を巻いてる。前髪もきれいにそろってて、リップもたぶん透明だけど、いつもよりちょっとだけツヤがある。スカートのプリーツはちゃんと整ってて、カバンにはうさぎのキーホルダーが揺れてる。
なのに、表情はいつもの真咲だからずるい。
「……なに?」
「いや、なんでも」
「いまなんでもって言った。減点」
「点数きびしくない?」
「ふふっ。似合ってるよ。ちゃんと高校生っぽい」
「真咲も」
「えっ」
「似合ってる。っていうか」
言おうとして、ちょっと詰まった。
言葉を選ぶのに、時間がかかった。
だってこの一言で、これからの一日が少し変わるような気がしたから。
「──かわいい」
それを聞いた瞬間、真咲の耳が、すっと赤くなった。
風が吹いたみたいに、髪が揺れる。
でも彼女はすぐには何も言わなくて、ほんの一秒遅れてから、目を細めるように笑った。
「……ゆうと」
「うん」
「それは満点」
そう言われて、なんか一気に顔が熱くなったのは俺のほうだった。
やめてほしい。本当にやめてほしい。朝から破壊力が高すぎる。
「じゃ、行こ?」
「ああ」
並んで歩き出す。
家と家の距離は数歩なのに、学校までは十五分近くある。曲がり角を三つ曲がって、踏切を渡って、バス通りを抜けて、その先に大きな校門がある。
小学校のときは、大きいって思ってた道。でもいま並んで歩いてみると、やけに短い。
「ねえ」
と、真咲が言った。
「今年さ、同じクラスだといいね」
「そうだな」
「席近いといいね」
「そうだな」
「できれば隣がいいね」
「願望がどんどん強くなってない?」
「だって」
「だって?」
「高校生になったらさ。なんか、いろいろ変わるって聞いたもん」
いろいろ。ってなんだ。
でもその先を彼女は言わなかった。ただ、少しだけ俺の制服の袖をつまんだまま、指を離さないで歩く。
俺はその指先を見ながら、息がちょっとだけ浅くなるのを感じてた。
これ、手つないでるって言っていいのかな。
いや、つないではない。けど。
でも、ほどけそうになったら、真咲がちょっとだけきゅっとつまみ直すから、結局ふたりはずっとくっついたままだ。
たぶん俺はいま、めちゃくちゃ幸せな顔をしている。絶対に。
*
校門の前は、人が多かった。
新入生らしい顔ぶれが、緊張とテンションの混ざった声でわいわいしてる。制服のリボンを直してる子とか、親が写真撮ってる子とか、男子同士で「お前も受かったのかよマジか」って肩を殴り合ってるやつとか、そういう空気でいっぱいだ。
俺と真咲は、そこでいったん立ち止まった。
「入学式ってさ」
「うん」
「なんか、ちょっと映画っぽいよね」
「映画?」
「だって、今日から新しいステージがはじまりますー!みたいな。オープニングの特別OP流れそうじゃない?」
「それ俺たちが主役ってこと?」
「当たり前じゃん?」
即答で言われて、ちょっと笑った。
真咲は、そういうふうに言ってくれる。
小さいころからずっと。俺のことを、ちゃんと「主役」にしてくれる。
そんなふうに思ってくれる人って、どれくらいいるんだろうって、たまに考える。
「じゃ、クラスわり見よ」
「おう」
昇降口の前の掲示板に、人だかりができてる。
俺と真咲は人のあいだを抜けながら、紙に貼り出された名前を探した。
「一年A組……いない」
「一年B組……」
「あ、いた。ここ。B組、ほら。俺」
「ほんとだ。宮野悠斗(みやのゆうと)……B組。B、B……」
その次の瞬間、真咲の声が、一段明るく跳ねた。
「やった!」
人目も気にせず、俺の腕をぎゅっと抱きしめられる。
びっくりして変な声が出そうになるのを、ギリギリでこらえた。
「ちょ、ま、さき!?」
「しーっ!」
「しーって言うならまず離れろ!」
「やだもん。ほら、見て。ほらほら」
「え、あ、ほんとだ」
指さされた紙には、ちゃんと「綾瀬真咲(あやせまさき)」の名前が並んでた。
俺の三つ下。つまり同じクラス。
その事実が頭に入ってきた瞬間、胸のあたりがぽん、と軽くはじけた気がした。
同じクラスだ。
本当に。
「ふふん。運命きたね」
「軽いな、おまえの運命」
「軽くないもん。わたしわりと本気だもん」
真咲は腕をほどいたあとも、俺の制服の袖口をまたつまんで離さない。
それを見てたら、さっきまで少しだけ残ってた不安みたいなものが、ちゃんと溶けていくのがわかった。
ああ。よかった。
やっぱり、同じとこにいられるんだ。
「……なに笑ってるの?」
「笑ってた?」
「笑ってる。今すごい、安心したって顔した」
「そう見える?」
「わかるよ。わたし、ずっと隣だったもん」
その言い方が、やさしくて。
俺は一瞬だけ、ためらったあと、正面から言ってみた。
「これからも、隣でお願いします」
真咲は、ほんの一拍で頬を赤くして、でも逃げずに頷いた。
「うん。任せてください、宮野くん」
苗字で呼ばれて、変にドキッとする。
たぶんそれは真咲も同じで、ふたりして同時にちょっと目をそらした。
*
教室は、まだ少しインクの匂いがした。
新しい名札、新しい時間割、新しい黒板。窓際の席から春の光が入ってきて、床のワックスまできらっと光ってる。
俺と真咲は、となり同士……ではなかった。世の中そんなに甘くない。
でも、斜め後ろ。手を伸ばせば届く距離。
「ちょっと惜しいね」
「いや、近いほうだろこれ」
「もっと近くてもよかったのにー」
そう小声でぼやきながら、真咲は俺の椅子の背に指をひっかけて揺らしてくる。なんだこの距離感。中三のときまでこんなことしてこなかったのに。高校生ってすごい。進化ってこういうことか。
担任は気さくそうな男の先生で、自己紹介してくださいねーって黒板に「自己紹介カード」のテンプレを書いていく。名前、出身中学、好きなこと、ひとこと。
クラスの空気はまだ少し固い。誰もまだ、自分の位置を決めきれていない。
でもその中で、俺はずっと感じてた。
──この教室で、これから毎日、真咲が俺のすぐそばにいる。
それって、すごいことなんじゃないかって。
なんでもない日でも、眠い日でも、機嫌が悪い日でも、テストでヘコんだ日でも。
そこに行けば、必ず彼女がいて、俺を見つけて「おはよう」って言うんだ。
それってさ、多分ものすごい幸せなことなんじゃないかって。
そう思った瞬間、胸のど真ん中が、あたたかくなった。
*
自己紹介は、わりと普通に終わった。
俺は趣味を「ゲーム」とだけ言ったし、真咲は「お菓子づくり」って言った。実際、真咲のクッキーはうまい。これはガチだ。俺はテスト期間中、それだけで生き抜いてたときがある。あれはマジで救われた。
式だの説明だのをひと通り消化して、教室に自由時間ができたころには、少しだけ周りと話せる余裕も出てきてた。
「綾瀬さんと宮野くんって、同じ中学?」
前の席の女子にそう聞かれて、真咲はにっこり笑った。
「ううん。家がとなり」
「え、それってさ──幼なじみ、ってやつ?」
「そう。ずっと隣のおうちで、朝も一緒に登校して、放課後も一緒に帰って、テスト前はうちで勉強会して、たまにごはんも一緒に──」
「ちょっと真咲!?それ全部言わなくてよくね!?」
「事実です」
「事実だけど!」
「かわいいよねーそれ!」
前の席の女子が、両手を頬に当てて目を輝かせた。
「わあ、リアル幼なじみカップルだ……」
「カップルじゃないです」
「カップルじゃないです」
俺と真咲は同時に言った。ハモった。
そして、同時に固まった。
沈黙。
なんか、変な空気になる。
「……えっと」
「……あの」
「え、なに?今の間なに?カップルじゃない“まだ”ってやつ?」
「ま、まだとかじゃなくて!」
「ち、ちがっ、そういうのじゃなくて!」
俺と真咲は慌てて手を振った。はずかしすぎる。頼むからこの話題をこれ以上ふくらませないでほしい。今日まだ一時間目も始まってないんだぞ。
でもその女の子は、逆にちょっと嬉しそうに笑って、
「じゃあ、ふたりは同盟組めるじゃん」
「……同盟?」
「そう。席ちょっと遠いじゃん?だからさ、こういうのってふたりで“いっしょにがんばろうね同盟”とか作っとくと、離されにくいんだよね、今後」
「へえ、そんなのあんだ?」
「あるある」
「へえ……」
そんな話をしながら、俺はなんとなく、真咲のほうを見た。
真咲もこっちを見てた。
視線がぶつかる。
それだけで、なんとなく胸がくすぐったい。
「じゃあ、同盟」
真咲が、そっと手を差し出してくる。
机の横で、他の人からは見えない角度。
小指を、俺のほうに向けて。
──ああもう、ずるい。
小指と小指を、そっとからめる。
声に出す必要なんてどこにもないのに、胸のなかではちゃんと言葉になってた。
これからも、隣にいる。
俺たちはそれを、約束した。
*
放課後。昇降口を出るとき、真咲がぽそっと言った。
「ねえ、ゆうと」
「ん?」
「今日さ。帰り、コンビニ寄ろ?」
「なんで?」
「アイス買ってお祝いする」
「お祝い?」
「うちら、同じクラス記念日」
記念日って。
でも、なんかいいなと思った。そういうの。
「いいけど」
「じゃあ決まり」
「っていうか、今日ちょっと暑いもんな」
「そうそう。春のくせに生意気にあったかい」
「春のくせにってなに」
「春のくせにって春に失礼?」
「まあ多分な」
笑いながら校門を出る。
朝よりも、距離は近い。歩幅が自然と合う。
俺は手をポケットに入れて歩いてたけど、ふと、指先にあたたかい感触がのってくる。
真咲の手。
さっきまで袖をつまんでた指先が、今日はちゃんと、俺の指を探してきた。
ぎゅって強いわけじゃない。
でも、離れないってわかるくらいには、ちゃんとつかまれてる。
そのまま横を向くと、真咲は前を向いたまま、ちょっとだけ口元だけで笑ってた。
「なにその顔」
「別に」
「別にって言った。減点」
「今日減点多くない?」
「大丈夫。あとでちゃんと加点するから」
「こわい」
「こわくないよ。甘いよ」
甘い、って言葉がやけに近く聞こえて、俺は息がつまった。
心臓の音が少しだけ速い。
でも、その速さがいやじゃない。
たぶん、今日のこの帰り道を、俺はずっと忘れないんだろうなって。
そんな予感が、ちゃんと胸のど真ん中に残った。
だって、俺たちはもう一度「当たり前の隣」に戻れたんだ。
それって、奇跡みたいにうれしいことだから。
コンビニのビニール袋が、ふたりのあいだでやさしく揺れる。
俺はそっと、その揺れごと守るみたいに、指をからめ直した。
──これから、高校三年間。
君の隣で、春になる。
そういう話が、今はじまる。
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