第7話 もう一度、君に会うために

雪はもう止んでいた。

 けれど、街にはまだ冬の名残が残っている。

 アスファルトに残る白い影。

 冷たい空気の匂い。

 俺はその中を歩いていた。

 行き先も決めずに、ただ——彼女に会いたいという想いだけで。

***

 あの夜から、何度もメッセージをやり取りした。

 短い言葉のやりとりばかりだったけど、それでも十分だった。

 > 『最近、少しずつ練習再開してます』

 > 『すごい。やっぱり、声を出すあなたが一番です』

 > 『……覚えててくれてありがとう』

 文字だけなのに、彼女の声が頭の中で再生される。

 記憶を取り戻してから、すべてが鮮やかに蘇っていった。

 初めて出会った日。

 養成所で隣の席だった彼女の笑顔。

 台本を読みながら一緒に笑った日々。

 あの頃、俺は確かに彼女に支えられて生きていた。

 彼女の声が、俺の心の中心にあった。

 ——もう一度、会いたい。

 その気持ちは、日に日に強くなっていった。

***

 事務所のロビーで、マネージャーの高瀬が声をかけてきた。

 「天野、来月のラジオ特番のゲスト決まったぞ」

 「そうなんですか?」

 「うん。ゲストに“新進声優の相川葵”さんが来る」

 その名前を聞いた瞬間、息が止まった。

 「……相川葵?」

 「そう。最近すごく伸びてる新人だよ。声、どこかで聞いたことあるなーって思ったけど……」

 それ以上は聞いていなかった。

 頭の中が真っ白になった。

 まさか、同じ現場で——?

 心臓が、激しく打ち始める。

 「……俺、その日、絶対出ます」

 「もちろん。お前がメインだしな」

 高瀬が笑うのを背に、俺は深呼吸をした。

 いよいよ——会える。

 もう逃げない。

 彼女に、ちゃんと自分の言葉で伝える。

 「葵、もう一度、君に会いたい」

***

 ラジオ収録当日。

 スタジオの空気は静かで、どこか張りつめていた。

 ガラス越しにスタッフが動き、ライトの光が白く差し込む。

 俺はマイクの前に座り、深呼吸をした。

 胸の鼓動がうるさいくらいに響く。

 控室のドアが開く音がした。

 振り向くと、そこに——葵がいた。

 黒いコートを脱ぎ、軽く会釈してスタッフに挨拶する。

 その姿を見た瞬間、時が止まった。

 あの頃より少し大人びた表情。

 けれど、笑ったときの目の優しさは何も変わっていない。

 目が合った。

 彼女の瞳が一瞬だけ揺れて、そして静かに微笑んだ。

 「お久しぶりです、天野さん」

 声が震えていた。

 それでも、その声はまっすぐに届いた。

 「……ああ。久しぶりだね、葵」

***

 番組が始まる。

 スタッフの合図、カウントダウン。

 オンエアの赤いランプが点く。

 > 『本日のゲストは、新進気鋭の若手声優・相川葵さんです!』

 司会者の声に合わせて、葵が笑顔で答える。

 「よろしくお願いします」

 その声を聞くだけで、胸が熱くなった。

 進行は順調だった。

 でも、俺はずっと彼女を見ていた。

 マイク越しに届く声が、何度も胸を震わせる。

 司会者が話題を振った。

 > 「相川さん、声優を目指すきっかけは?」

 葵は少し間を置いて答えた。

 「昔、ある人の声を聞いて、救われたんです」

 「へぇ、素敵ですね。その人って?」

 「——今、目の前にいる方です」

 空気が止まった。

 スタッフのペンが動きを止める。

 俺は息を呑んだ。

 葵が少しだけ笑った。

 「三年前、雪の日に約束したんです。

  “夢を叶えて”って。

  その言葉が、私の原点でした」

 司会者は一瞬戸惑ったが、すぐに笑顔で言った。

 「素敵な話ですね!」

 番組はそのまま進んだ。

 でも、俺の心臓はもう止まりそうだった。

 言葉にならない想いが喉の奥に溜まっていく。

***

 収録が終わり、スタッフが退室する。

 二人きりになったスタジオ。

 照明が少し落とされ、静寂が降りる。

 俺はマイクを外して、ゆっくりと立ち上がった。

 葵も同じように立って、少し距離をとって向かい合う。

 「……覚えてくれたんですね」

 彼女の声が震える。

 「うん。思い出した。全部」

 「……よかった」

 涙が光る。

 彼女が泣きそうになるのを見て、俺はたまらず近づいた。

 「ごめん、葵。あのとき、約束、忘れてた」

 「ううん。忘れたんじゃないよ」

 彼女は首を振った。

 「ちゃんと、届いてた。

  私も……もう一度、声を取り戻せたから」

 俺は息を呑んだ。

 言葉よりも先に、涙がこぼれた。

 葵がそっとマイクに手を伸ばした。

 「……ねぇ、もう一度だけ、言って」

 「何を?」

 「昔みたいに。

  “君が笑ってくれるなら、それだけで報われる”って」

 俺は笑って、マイクをオンにした。

 そして、ゆっくりと。

 > 「君が笑ってくれるなら、それだけで俺は報われる」

 葵が泣きながら笑った。

 その笑顔が、すべてを照らした。

***

 スタジオの外に出ると、夜空に雪が舞っていた。

 街の灯りが滲んで、白く光る。

 葵が小さく呟いた。

 「また、雪だね」

 「うん。でも、もう寒くない」

 「どうして?」

 「隣に、君がいるから」

 彼女が少し顔を赤らめて笑う。

 その笑顔を見て、胸の奥の空白が完全に埋まった気がした。

 ——やっと、ここまで来た。

 声が繋いだ奇跡。

 忘れかけた約束の先で、

 俺たちは再び、同じ空を見上げていた。

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