アディクション





 京香と別れてからも、すぐに家に帰る気分にはなれず、そのまま駅前からすこし行った所にある波止場に向かった。向こうの島に繋ぐ巨大建造物の下には当然海があり、今日は全然荒れていない。風も少ないからだ。11月に入ったが気候はまだまだ穏やかで、日中はすこし汗ばむほどの陽気だった。小春日和とはこういうものを言うのだろう。しかしそのノンビリした気候と光景に対して、私の心はひどく沈んでいる。


 波止場では相変わらず海に釣り針を下げているおじさんたちがいるし(彼等はいつ働いているのだろうか?)手前の段になっているコンクリートに座って、穏やかに海を見つめている老夫婦もいる。同じく私も静かに座っていたのだが、こんな場所に制服女子高生がひとりでいるのは不自然極まりなく、浮いていないかどうか気になったが、しかしそれよりもずっと海を見ていたいという気持ちのほうが勝った。


「なんだかなぁ……」


 じつのところ、私がここまで沈んでいる理由が、自分自身でも分かっていないのである。ここにくれば答えが見つかり、答えが見つかれば解決方法も見出せると思ったのだが、期待に反して私の心は曖昧にぼやけたままだった。


 朝はそれなりに調子がよかった。晴れやか、というほどではないものの、私の暗いものが少しずつ明けてきたような感じも覚えていた。地味同盟の効用であることを認めるにやぶさかではない。一時期の私に比べて心が軽くなっているのは事実だった。それがいいことなのか悪いことなのかは分からない。いや、世間一般からすれば、それは普通にいいことなのだろう。しかし私は私の美学によって、敢えて暗黒の道を選んだ筈だった。故に簡単には手放してはいけないという思いもある。意固地になっているだけではないか、という意見もあろうがこの際それは封殺する。


 しかしながら、あの浦部紀子は――


 いや、そのことは前にも書いた。さらに深みに嵌まるような思索は止めておこう、しかし彼女の垂らした蜘蛛の糸に勇んでつかもうとするような浅ましさは私にはない筈だった。


 それよりも今のことを考えよう。何故私は落ち込んでいるのか。落ち込まなければならないのか。正体不明だからこそ気持ちが悪い。


 まずは取っ掛かりを探すべきだった。まずは学校での1日を振り返る。今日も平穏無事な日だった。高校生活に度々事件が起こる訳もない。お母さんが用意してくれたお弁当はとても美味しかった。羨まし気に見つめる紀子に対してすこし卑しい優越感を覚えたのも、まあ悪くはない。そこまではよかった。午後も大したものではなかった。


 とすれば、やはりあの放課後から調子が狂ったと見るべきだろう。具体的にはあの、桐生洋二くんがやって来た時から――しかしそれはおかしな話なのである。私は彼に好印象を持っている訳ではないが、かといって悪感情を持っている訳でもない。つまりはどうでもいい。


 先程の京香の話がキーになっているのかもしれない。


『あのふたり、なんだか怪しい』


 私は言明を避けたが、それは私も感じていたことだ。紀子と桐生くんは表面上は喧嘩をしていたように見えたが、そこには奇妙な愉しさがあったように思えてならない。桐生くんの気持ちはこの際置いておこう。問題は紀子である。紀子も紀子であのやり取りを面白く感じていたのではという疑惑がどうしても拭えない。


 そこなのだろうか。


 もしかしたら、私は紀子を彼に取られることを怖れているのか? そんな筈はない――と切り捨てる程事態は単純ではない。認めざるを得ないが、私は紀子との会話を悪くないと思っている。愉しいかどうかは別にしてもだ。


 海を眺めているのも、釣り人のおじさんを眺めているのも飽きたので、ここからは帰路に着きながら考えることにする。と言っても、ここから自宅までは徒歩10分程度の距離だ。深く考えるには時間が足りない。そもそもひとりで考えて答えが出る問題なのかも分からない。しかしこの漠然とした心は気持ち悪く、答えを出さねば眠れそうにもない。


 三毛猫が寄ってきた。どういう訳か前から私に懐いている子である。別にエサを上げたというわけでもないのに、その理由は謎に包まれている。彼女は自分の縄張りからは滅多に出て来ないが、私が通ると足にすり寄ってくる。人間を怖れてはいないらしい。ただの野良猫――いや、今は地域猫とかいうのだろうか? それはともかく、まだ若い猫で、中々の美女でもある。彼女と接している時だけは心がすこし安らぐような気もする。と言って、遊んでやる訳でもないのだが、そこにはなんだか奇妙な絆が存在している。名前は付けていない。孤高の彼女に名前は必要無いと思ったからである。しかし彼女も孤独に生んでいるのかもしれない。


「あたしに懐いてもなにも出ないよ。お互い時間の無駄じゃないの?」


 三毛猫はにゃあんと鳴いた。猫撫で声という言葉があるが、それに相応しい。ひょっとして私に甘えているのだろうか。よく分からない。


「お前も女の子なんだから、もっといい男を探して……」


 その自身の何気ない言葉で――


 私は不意に違和感の正体を突き止めた。突き止めてという方が良い。



       ◇



 しかしそのクリティカルに過ぎる解答からはしばし最終的結論を出すのを避け、帰宅後のルーティンワークをこなす。今日は父がいなかった。


「残業が長くなるんだって」


 ここで現代日本社会に於ける労働問題に対して一席をぶつつもりはないし、またその資格も女子高生の私にはないが、取り敢えず今言えるのは、今日という日に父と顔を合わせる必要がないのは僥倖と言えた。父はしばしば私に男ができたかどうか訊いてくるからだ。父のことを毛嫌いしている訳ではないが、この部分だけは辟易としている。繊細な女子高生の恋愛にどかどかと足を踏み込むのは、家庭内のことだからセクハラとドメハラの複合体と言えよう。父は紳士のはずなのだが、結局男である呪いからは逃れられないということであろう。単に心配されているだけの可能性もあるが。


 シャワーを浴びたらすこし気が楽になった。人間とは案外単純に出来ているものである。言い換えれば肉体的感覚と精神的感覚はそれぞれ別個のものではなく、密接に繋がり合っているという話になる。学者に言わせれば、精神と呼ばれるものも単に脳内物質の混淆による産物に過ぎないのかもしれないが。


 そして自室に引き籠る。安寧の場所。すぐに眠る気はなかったので本を読んだりゲームをして時間を潰す。勉強はしない。


「なんでカッコいいおじさんは紙の向こうやモニターの向こうにしかいないのかなぁ」


 私は現実の恋愛にまだ未練があることを憎々しく思った。そしてそれが先程気付いたことであり、不愉快さの正体だった。


 恋愛。


 どういう訳か現代に於いてはそれが一番崇高な精神活動であると見做されているらしい。恋愛がメインの作品ならまだしも、それが主題ではない創作物にすらそれは侵入してきている。オマエラそんなに異性が好きなのか、と悪罵を投げたくなるが、私ひとりがあがいたところで世の風潮を簡単に変えられるものではない。仕方がない。


 しかし現実に関しては話が別である。ニュースではやれだれそれが熱愛中だの、だれそれが不倫しただの、そんなハレンチなもので溢れかえっている。そしてそれに看過されて一般人までもがアツい恋愛をしたがる。モテる為の指南本は飛ぶように売れ、出会い系サイトは下衆な欲望を持った男女をかき集め、搾り取る。私はそういった現実を目の当たりにするたび「うげっ」となるのである。


 なにも私が恋愛全般を否定しているという訳ではない。ひとがひとを好きになるのはごく自然なことだからだ。私が問題としているのは、概念としての「恋愛」に振り回され、必要以上に付いた離れたを繰り返そうとする、その魂の浅薄さにある。


 ここで問題は今日の放課後に戻る。桐生くんが瀬島さんを求めるのは、まさにその浅はかさが露呈したものだった。真剣な恋とは思えない。それが気に食わなかったのだろう。


 だがそれだけでは完全な答えに至らない。桐生くんの態度が気に入らないのなら、ただ苛立っていればいいだけの話で、落ち込む必要はない。


「ああ、もう……」


 つまり、そのことによって私もまた恋愛という幻想にまだ夢を見ていることを突き付けられたからなのだった。そしてその恋愛観は砂糖菓子で作られた、ヘンゼルとグレーテルのおうちのような甘ったるく理想化されたものだった。恋愛のための恋愛はいらない。いつか運命の人が現れて、それに熱狂するほどの恋をする――私はそういうものを求めていた。つまり劇的でなければいけなかった。だがそれは間違いなく私の精神的恥部に当たるものである。出来れば意識しないで日常を過ごしたい。


 それゆえ、現実に恋愛という局面が――それが第3者のものだったにせよ――現れた時、私は動揺してしまう。私の中にある愚昧さを意識せざるを得なくなる。今日起こっていたのはまさにそういう話だった。


 高潔な人物でありたいとは思わない。私が愚者であることはこれまでもこれからも変わらないだろう。だが愚者なりに誠実に生きたいとは思っている。だが恋愛という毒はそれを容易に崩壊させる。「いつかステキなひとが現れて……」という甘ったるい願望がもぞもぞと心臓の肉を破るように芽吹き、精神を狂わせる。その時ひとは愚者ですらない、なにものか、怪物になってしまう。それは避けたい。でも。


 でも。創作物の中と言えど、お前は男を求めているんだろうと詰問されればそれは否定できない。結局の所、私も恋愛という現象の奴隷なのだ。


 男なんかいらない。


 しかしそう言うのも難しい。


 もしかしたら私は地味同盟に対して、そういった効用を求めていたのかもしれない。だからこそ、リーダーたる浦部紀子が愉し気に――そう、愉しげだったのだ――異性と喋っている現実に耐えられなかった。女の連帯が壊れたような、そんな気がしたのだ。


 分かっている。愚かなのは彼女ではない。私だ。


 しかしどうしようもない。乱れる心というものは――

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