三国恋演義

あおじ

ブルーバード 1


 ドンドン、ドンドンドン!


 すっかりと寝入っていたのに、突如鳴り響く音にアイは飛び起きた。一体何事かと暗い部屋の中を見回すも、室内は静かに眠っている。


 ドンドンドン!


 足元の方に嵌め込まれた窓の木戸が音を立てて揺れている。慌てて寝台から抜け出て木戸を開く。


「ちょっと、大きな音を立てないで」


 窓の向こうに佇む男を睨み付ける。

 月光に照らされた男はにこりと深く微笑むと、何の躊躇もなく窓枠に足をかけた。愛が少し身をずらすと、男はひょいと窓を飛び越えて室内にやって来た。


「家の者にバレたらどうするの? いつもはもっと控えめに叩くのに。ああ、早く靴を脱いで。泥や土で私の部屋が汚れてしまいますわ」


 愛が矢継ぎ早に言葉を投げ掛けるも、男は適当にうんうんと頷くだけだ。いつもと違うその態度にもしやと思い、愛は男に近寄って鼻をすする。


「やっぱり、酔ってなさるのね。お酒臭い、祝宴でもあったの?」


「祝宴? まさか、祝い事なんて。その逆、やけ酒だよ」


 男はやっと言葉を発した。そして煩わし気にひっつめていた髪を解き放つ。髪紐を引き抜くと、艶やかな紫色の髪がばさりと音を立てて落ちていく。絹の様な長髪には傷みもなく、癖もなくただただ美しい。

 女なら誰でも羨むその髪をどうやって維持しているのかを、以前愛は男に訊ねたことがあった。しかし彼はきょとんと間抜けな表情を浮かべて首を傾げると、


──香油?  女性じゃないのだから、そんなものつけないよ。お湯で洗っているだけさ


 と言ってからこちらの苦労など知るよしもなく笑うので、何だか殺したくなった。殺したくなったが、愛は彼の髪が好きだった。

 特に、今の様に髪をほどく仕草は神々しい儀式を見ている様で胸がドキドキと脈打つ。動く度に波打つそれは、羽ばたく鳥の翼の如くだ。それに何より、髪をほどいた彼は姿をさらけ出してくれている気がするのだ。


「やけ酒はよくないな。どんなに高級な美酒でも不味く感じる」


「酔いたいだけなら安酒になさればいいのに」


「安酒は明日頭が痛くなる」


 男はばりばりと頭を掻くと、そのまま寝台へ仰向けに倒れ込んだ。思いのほか寝台が大きな音を立てて軋むので愛の心臓はひゅんと縮み上がる。


「だから大きな音をさせないで。誰か来たらどうするの?  困るのは貴方でしょうに」


「困るのは君もだろう? 嫁入り前の女性が男を招き入れて、とんだ不良娘だ。ご両親が悲しむよ」


「まぁ酷い言い種。いくらお酒が入っているからってあんまりだわ」


 顔を両手で覆って泣き真似をしてみれば、男の焦った声が聞こえてくる。


「ごめん、俺は君と言い争う為にここに来たんじゃないんだ。だからどうか泣き止んでくれないか? 俺は君と一緒にいたいんだ」


 男が深夜に女性の部屋を訪ねるなど、目的は一つしかない。その目的を遂行する為に愛の機嫌を損ねるのは得策ではないといくら酔った頭でも理解出来たので男は必死に阿る。

 そんな彼の様子を愛は指の隙間からそっと伺っていると、ばちりと視線が交わった。


「ほら、おいで」


 上半身を起こした男が愛に向かって腕を伸ばす。おいで、なんてその寝台はもともと愛のモノなのに自分のモノの様に振る舞う男の態度に頬が緩む。

 愛はまずしゃがみこんで男の足から靴を脱がせてから寝台に上る。そしてゆっくり男の隣に身を倒す。


「さっきは酷いことを言ってすまない。酒で気が変になっていたんだ」


 男は愛の身体を抱きすくめると、謝罪と弁解を吐き出す唇を彼女の髪や顔に落としていく。まるで飼い猫にする様な愛撫に愛は目を細める。


「よいのです。私も貴方に謝らなければならないことがあるの。それであいこにしましょう」


「俺に謝りたいこと?」


 不思議そうな顔で身を離した男に愛はにっこりと笑って言った。


「昨日から月の物がきておりまして、今宵はお相手出来そうにありませんの。ごめんなさいね」


 愛の衝撃的な告白に、男は瞳を大きくして絞りだす様に呟く。


「う、そ」


「こんなことで嘘を言ってどうするのよ。ね、甘寧カンネイさま」


 愛の悪戯っぽい笑みに、男──甘寧は落胆色を隠そうともせずに盛大なため息をつくのだった。


***

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