第2話 声

「……誰かが、住んでたの?」


美咲がゴクリと唾を飲む。


「それはそうよ……」


「そうだよね……」


詩織に言われて美咲も「古い団地だし、人が住んでいたのはあたりまえか」と、納得した。


詩織はスマートフォンのライトを隙間に差し込むが、光は奥の暗闇に吸い込まれて届かない。


ただ、カビと、何か甘ったるい香が混じったような、形容しがたい匂いが鼻をついた。


「違う。これは……意図的に塞がれてる」


詩織は、隙間に指をかけた。打ち付けられたベニヤ板は古く、少し力を込めると、バキリ、と音を立てて崩れた。


「お姉ちゃん、危ないよ!」 「大丈夫。……見るだけ」


現実主義者の詩織にとって、恐怖よりも先に「前の住人が何を残したのか」という確認作業が優先された。もし危険物だったら、管理会社に連絡しなければならない。


板を数枚剥がすと、そこには畳一畳分にも満たない、歪な空間が口を開けていた。まるで、押入れの設計図を無理やり変更して作られた「蔵」だ。


ライトが、その空間の全貌を照らし出す。


「なに……これ」


そこにあったのは、段ボール箱一つだけだった。 いや、違う。その上に鎮座している、黒くて四角い機械。


「オープンリール……デッキ?」


詩織は思わず声を漏らした。 博物館でしか見たことのないような、旧式の録音・再生機だ。二つの大きなリールが特徴的な、あの機械。


なぜ、こんなものが、こんな場所に。


機械の隣には、テープが数本、丁寧に並べられていた。そのうちの一本だけが、デッキにセットされた状態になっている。


「うわ、レトロすぎ。マニアの人だったのかな」 美咲が、恐怖よりも好奇心を覗かせながら、狭い空間に身を滑り込ませた。


「美咲、触っちゃダメ!」 「だって、コンセント、繋がってるよ」


見れば、デッキから伸びた黒いコードが、壁の奥の暗闇へと消えている。こんな空間に、電気が通っている?


美咲の指が、セットされたテープの箱に触れる。 色褪せたボールペンで、震えるような文字が書かれていた。


『わたしたちの、しあわせな時間』


「……幸せな、時間」 美咲がそのタイトルを呟いた。 その響きが、両親を失ってから二人きりで生きてきた姉妹の胸に、小さく刺さる。


「……聞いて、みようよ」 「やめなさい。気味が悪い」 「だって! もし、前の住人の大事な思い出だったら……。それに、再生ボタン、押すだけだよ」


美咲は、悪戯っぽく笑うと、詩織が止める間もなく、その黒い機械の「▶(再生)」と書かれた、赤くすすけたボタンを押し込んだ。


カチリ、と古い機械が軋む音がした。


二つのリールが、ゆっくりと、ぎこちなく回り始める。 数秒の沈黙。


スピーカーから、サーーーッという激しいノイズが流れ出した。


『……あ、ついたかな? パパ、マイクこっち』 『お、おう。えー、テスト、テスト。……カナ、今日は何して遊んだんだ?』


ノイズの向こうから聞こえてきたのは、男の人の穏やかな声と、幼い少女の甲高い笑い声だった。


『あのね! あのね! きょうはね、だるまさんがころんだ、したの!』 『そうか、楽しかったか』 『うん!』


「……なんだ。ただのホームビデオ、みたいなものか」 詩織は、張り詰めていた息を吐いた。 どこにでもいる、ありふれた家族の団欒。録音されたのは、一体何十年前だろうか。


『ママも、なにか言って』 『そうね……カナ、お歌うたおうか』 『うん! うたう!』


優しい母親の声。 少女が、たどたどしい調子で童謡を歌い始める。


微笑ましい光景だ。 それなのに、なぜだろう。


聞けば聞くほど、背筋が粟立っていく。


ノイズが酷くなってきた。 サーーーッ、という音が、まるで嵐のように強くなる。


『……うたう! うたう!』 『……たのしかったか』 『……ママも』 『……だるまさんが、ころんだ』


幸せだったはずの家族の声が、ノイズの中でバラバラに分解され、混ざり合い、こだましている。


「な、なにこれ……」 美咲の顔から血の気が引いた。


「もう止めよう、美咲!」 詩織がデッキに手を伸ばした、その瞬間。


全てのノイズと、全ての声が、ピタリと止んだ。


リールだけが、無音で回り続けている。


静まり返った押入れの中。 姉妹は、スピーカーから響いた「それ」を、確かに聞いた。


録音されているはずのない、すぐ耳元で囁かれたような、少女の声。


「……ころんだ」


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