三 偽りの体に流れるは混沌の血

 二階で茜と七高しちたかが交戦する少し前。

 八雲が大蛇に咬まれ、黒菊クロギク四天王の金木かなぎうれいに捕まった直後のことだ。


「任務完了だと思ったのに……。ボスたちが到着するまで、俺帰れないじゃん……。非番なのにさぁ、さらに残業なんてやってらんないんだけど。あまねちゃんに電話して愚痴聞いてもらおうっと……。ねージョセフ」


 ペットの蛇にぼやきながら、憂は三階の行灯あんどん部屋と呼ばれる物置に八雲を連れて行った。


「じゃあ俺、公衆じどう電話に行ってくるから。店の電話機は使いすぎだってこないだ怒られたんだよねー。激務なんだからちょっとくらいいいじゃんね。鬱憤が溜まって死んじゃうよ……。こんなこと、きみに言っても仕方ないか。おとなしくしててね……」


 ひと通りくだを巻き、八雲を雑に放り込んで長髪の男は去って行った。

 

 扉が閉まると、室内は真っ暗になった。

 開閉のときわずかに内部が照らされたが、巨大な妓楼だけあって物置でさえも相当な広さだ。普段あまり出し入れされない物ばかりらしく、積まれた道具や布団が薄っすらと埃をかぶっていた。


 治療を施されたとはいえ、猛毒におかされ、ようやく意識を取り戻したばかりだ。そのうえ手足は拘束されている。受け身もできずに右肩を思いきり床へ打ちつけて、八雲は苦しげな息を漏らした。


化鳥かちょうか……」

 

 暗闇の中で、聞き覚えのある声が響く。

 

「八雲です」

「どっちでもいい。どちらにしろ偽名じゃねえか」

「筆名と言ってください。憔悴しきっているように聞こえますが、稀少ですね。暗くて顔を拝めないのが残念です」

「煙草……」

「はい?」

「煙草が吸いてえ。死にそう」

 

 低く通りのよい声の主はタカオ活版所所長──とてもそうは見えないが、どこぞの寺の僧侶でもある。法名をしゃく藍鳥らんてう、新世界派の若き作家たちから『あいちゃん』の愛称で呼ばれる三十半ば過ぎの男だった。

 

「心配して損しました」


 はあ、と八雲がため息をつく。


「いつ心配してたよ。そんで、どうしてお前がここにいる? 今、何がどういう感じだ?」

くるわ遊びと賭博で借金を作って連行された生臭坊主の救出に致し方なくやって来たのですが、あっさりと敗北して捕まってしまいました。こんなことなら、藍など放置して自室に引き篭もってアンナと遊んでいればよかった」


 めずらしく早口で喋っているが、すべて当てこすりである。


「どうしてお前は俺にだけそう反抗期なんだ。ガキか。つーかよ、俺はてっきり博徒集団に連れてこられたとばかり思っていたんだが、さっきのうだうだとうるさい男は退廃主義デガダンの金木憂だろ? ここは一体どこだ?」

 

 八雲は上半身を起こして体勢を整えると、これまでの経緯を説明した。

 

「要するに、俺ははめられたってことか!? 異常なぼったくりだった遊女の揚げ代から全部?」

「どんな遊びをしていたかは知りませんが、賭博の負けも引っくるめて敵の掌でしょうね。あちらには遊廓を取り仕切る要人がいるらしいですから。そもそも妓楼で賭博を持ちかけられた時点で怪しんでください」

「くっそ、やっぱりイカサマかよ! おかしいと思ってたんだよなぁ。絶対勝てる勝負だったっつーに」

 

 藍が悔しそうに鉄の棒かなにかを揺らしている音を聞いて、八雲が尋ねる。

 

「藍、もしかして両手が自由ですか?」

「ああ、そういや針金みたいなやつで縛られてたがな。引きちぎった」

阿弗利加あふりかの多湿林に生息する大猩猩ごりらという巨大な猿を知っていますか」

「だれがゴリラだ、だれが」

「私のはただの麻縄です。解いてください」

 

 真っ暗な室内を、声だけを頼りに移動する。手が使えないので触れて確認することもできない。どうにか這って藍の近くまでやってきたとき、八雲は金属に頭をぶつけた。


 ガツンと甲高い音が響く。

 肌に触れる硬く冷たい感触。そこにあるのはおそらく鉄格子だ。


「──額を打ちました」 

「鈍くせえなー。お前は昔から運動能力ゼロだもんな。いや、運動どころか小説を書く以外は何一つできなかったか。よかったな、天才で」

「そういうところですよ」

 

 格子の隙間から、藍が手探りで八雲の手首に巻かれた縄を解く。


 両手が自由になると、八雲は左の人差し指の先を噛みちぎって傷を創った。

 筆記用具は憂に没収されていたので、文字の力を使うには自らの血を使うしかない。慣れた道具でないと力は落ちるが、他に方法がなかった。

 


 蛍火



 と、シンプルな文字が虚空に浮かぶ。

 いくつもの柔らかな光が物置の内部を一斉に照らした。


 続いて短刀を形容化し、足の縄を切る。

 明かりに晒され、目の前に重い鉄の箱が現れた。手足がやっと自由になった八雲は強度を確かめるように、短刀の柄で箱をこんこんと叩く。

 


「鉄格子の檻──。なかなか、骨が折れそうです」


 

 ゆらゆらと気ままに淡い光を放つ蛍が、檻の中にいる男の姿を映しだした。

 漆黒の法衣と、僧侶に似つかわしくない伸ばした髪。無精髭は監禁されていたせいではなくいつもどおりだ。

 精悍な顔つきだが、瞳だけは素行の悪さから考えらないほど穏やかである。

 

「猛獣並みの扱いですね。その判断は間違っていませんが」

 

 かがんで覗き込みながら八雲が言う。

 長身の鍛えられた肉体に対して、檻は見ているだけで息苦しくなりそうなほど狭かった。足を崩してけだるそうに座っているが、ほとんど身動きはできなかっただろう。

 

「少しは心配しろ。いや、よく見たらお前のほうがボロボロじゃねえか。何やってたんだよ。ガキの頃みたいに、毒蛇と毒虫を闘わせて遊んでたんじゃないだろうな。大丈夫なのか?」

 

 毒蛇は当たらずとも遠からず。しかし、遊んでいたわけではない。

 僧侶はまるで小さな子供にやるように、檻から手を伸ばして青年作家の髪をがしがしと掻き回した。


 その手を払いのけはしなかったものの──。

 

「──嗚呼、いやだ。あなたのその、何だかんだと善良なところが。あとなにより、私を子供の頃から知っているのが厭だ」


 八雲は普段仲間たちには見せないような、いじけた様子で愚痴をこぼした。


「んなこと言われても、俺の家にあとからお前が来たんだろ。来たっつーか誕生したっつーか」

「虎丸君も少し似たところがあるので、つい八つ当たりであなたの代わりに弄んでしまいました」

「とらまる? 誰だ、その猫みたいな名前の奴は。化けダヌキの次は化け猫でも拾ったのか?」

「江戸の頃、品川の宿場に化猫遊女と呼ばれる美女に扮した猫の物の怪が出たそうで。あなたも遊びが過ぎると、猫に頭を齧られるかもしれませんよ」

「そりゃ草双紙に描かれた作り話だろうが」

 

 無駄口を叩きながら、八雲は立ちあがって部屋の作りを確認し始めた。

 一見なんの変哲もない木造建築だが、木板を一枚隔てた向こう側に鉄壁があるようだ。敵に見つからないよう静かに壁を叩くと、乾いた木の音とともに硬い音が鳴った。

 

「たしか、行灯部屋は監禁や折檻に使われるのでしたか。それにしても頑丈に作られていますね」

「おい、音楽が聴こえないか。喜歌劇オペレッタで流れる外国の曲みてえな……」

 

 藍に言われ、八雲は耳を澄ませた。

 かすかに、旋律が聴こえる。


 西洋の鍵盤楽器が奏でるこの音には覚えがあった。パーティールームを使用する際、十里じゅうりがよく弾いているオルガンだ。


「これは──。十里君からの連絡です。ドの音は、♭ラであればヱルというように音階にアルファベットを仕込み、新世界派の部員にだけ通ずる暗号となっているのです」

「なんだそりゃ。どうせ遊びで作ったんだろ」

「文学とて全力の娯楽あそびですよ。真下の部屋にいる、余裕があったら力を貸してほしい、だそうです」


 八雲は血で使い魔の名を書いた。


銀雪ぎんせつ、出てこられますか」 

『称呼?』


 雪を纏いし、白鬼が姿を現す。


「ええ、呼びました。実体のないあなたであれば、床を通り抜けられるはず。下の階にいる十里君を助けてあげてくれませんか?」

『仏蘭西伊達男、報恩者徳。果報は寝て待て』

「なるほど。十里君には恩義があるので行ってくる、安心して待て、と。私から離れすぎると消えてしまいますので、注意してください。よろしくお願いします」

 

 銀雪の体がすっと半透明になり、床下へと消えた。使い魔との不思議な会話に、藍が怪訝な顔をしている。

 

「果報は寝て待て……? ちょっとズレてないか?」

「細かいことを気にしないでください。意思の疎通は真心です」

「コミュニケエション弱者が似合わねえこと言ってんな。さっきの鬼でこの檻を壊せないのか?」

「あの子は雪なので、凍らせたり壁を作るのは得意でも、物理的な破壊は苦手です。あなたを檻ごと氷漬けにするならできますが」

「やめてくれ」

「私たちだけでこの部屋から出るのは難しそうです。とりあえず、銀雪が戻ってくるのを待ちましょう」

 

 そう言うと、八雲は力が抜けたように壁に背を預けて座り込んだ。

 大蛇に咬まれた腕が、黒ずんだ紫色に腫れている。指の先から滴る血がうごめいていた。

 

 床に溜まった八雲の血は不気味に泡立ち、ぞわぞわと動きはじめた。

 小さく、真っ赤な文字の集合体だ。

 

 

  血 血液 赤 傷 朱殷 血汐 

     紅血 創痍 

 鮮血 損傷 真赭 

         体液 

   疵

 

 

 まるで狂人の書いた日記のように、それ以上の意味を持たない言葉たち。ただひたすらに溢れる混沌とした血文字。


 藍は血溜まりの文字を無表情で見下ろしていたが、何も言わなかった。

 やがて、見なかったふりをして目を逸らした。 

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