第3話 死闘、神友百貨店
――1――
神居市北区には港がある。
かつては貨物船や漁船が行き交い、街の産業を支える中心地だったが、ここ数年で埠頭の倉庫や工場は次々と取り壊され、代わりにテナントビルや高層マンションが建ち並ぶようになった。
南北に伸びるJR神浜線が街を二分し、JR神居浦瀬駅を挟んだ西口側は再開発で賑わいを見せている一方、東口側は、西口とは対照的に再開発の波から取り残され、古びた商店や住宅が今も残る静かな旧市街のままだった。
東側の衰退を示す象徴的な廃墟がある。平成の時代までは神居浦瀬のシンボルだった神友百貨店が撤退して、七階建てのビルが放置されたままなのだ。
夜になれば、埃で煤けた「神友百貨店」の看板に港の灯が淡く反射し、かつての賑わいの名残だけが朧げにそこに残っている。
最上階の催事場では様々な催し物を開催して賑わっていたが、今は薄暗い空間が広がっているだけだった。床には古い絨毯の破片や埃が積もり、隅には解体されたままの催事用の什器やマネキンが積み上げられている。
そのフロアの中央にぽつんと一脚のパイプ椅子が置かれ、北山小春が縛られていた。
両手両足は結束バンドで固められて身動きができず、頭には布袋が被せられ、口は銀色のテープで封じられている。
パイプ椅子の横にはフロアスタンドが立てられて、LEDの冷たい光がスポットライトのように小春を照らしていた。
突然、頭の布袋が剥ぎ取られ、小春の汗ばんだ顔が顕になった。
小春の目の前にはベージュ色の迷彩服に身を包んだ男が二人立っていた。
一人はガッチリした体格で濃い髭を蓄えたスキンヘッドの男、向井彰だ。向井の後ろにいる背の高い短髪の男は副官だろうか、無表情で切れ長の細目が氷のように冷たく小春を見据えている。
薄暗がりに浮かぶ二つの影に小春は竦み上がった。
スキンヘッドの男は小春を見ると、顔色がみるみる赤くなり鬼のような形相になった。小春の背中を冷たい汗が伝う。
「こいつじゃない!」
広いフロアに猛獣の雄叫びのような野太い怒声が響き渡る。小春がビクッと肩を震わせた。
小春の後ろにいた三人の手下も竦み上がった。リーダーの激しい動揺を前に、フロア全体がひりつくような空気に包まれた。
「リーダー、その……」
震える声が一人から漏れる。手下の一人が青ざめて俯き、口をすくめる。
「駐車場で、その……バンの中であの番組を見てて……こいつがターゲットを見つけたって言って……それで、あの女が一人で歩いてたから、捕まえて車に押し込んで……」
弁解する手下は、隣の男を指差しながら声を震わせた。
向井は無言で床に視線を落とした。突然右腕がキラリと光った。
座っている小春の真横を空気を切るような音が通り過ぎた瞬間、固いものが倒れる激しい衝突音がフロアに響いた。静かになると、床から男のうめき声が聞こえた。
「うう……耳が……俺の耳が」
小春には何が起こったのか分からなかった。
それでも首を回して後ろを見る事は出来たので、恐る恐る振り向いて「ひっ!」と息を呑んだ。
うずくまっている手下の横には、血痕と削ぎ落とされた耳が転がっていた。
その後ろには、鎌の刃が三つに枝分かれしたような奇妙な短剣が、倒れたマネキンの胸に突き刺さり鈍い銀色の光を反射していた。
「バカどもが! ターゲットを間違えやがって! 俺のマンベレが貴様らの心臓に突き刺さらなかったことに感謝しろ!」
向井は地獄の底から唸るような声で怒鳴ると、再びフロアが静まった。遠くから聞こえる救急車のサイレンが、張り詰めた空気をかすめるように通り過ぎて行った。
「あの官房長官の娘を取れば、政府は揺らぐ。……そう思ったんだが。ちっ、バカどもが踊らされやがって」
無表情で立っていた副官らしい男が、マネキンに刺さったマンベレを抜き取ると、落ち着いた声で向井に問いかけた。
「申し訳ありません、この女はどうしますか?」
「顔を見られている以上、処分するしかないが……」
そう言うと向井は、上から下までねめ回すように小春の体に視線を走らせると顔を歪ませて笑った。
「おいおい、この娘、思った以上に上物じゃないか。このまま死なすのは惜しいな……そういや臓器売買のチャンネルがあったな? タケダ」
タケダと呼ばれた副官は黙って頷く。
「今夜のお楽しみのあと、そいつらに売り渡せ。これだけ若ければかなりの額になる、資金の足しにはなるだろう」
「承知しました」
向井はそう言うと、にやっと笑って小春の顎に手をかけた。小春は首を左右に振って必死に抵抗したが、そんな抵抗も向井にしてみたらおもちゃと同じだ。
小春はこれから自分の身に降りかかる暴力を想像すると、恐怖で息が詰まり気が狂いそうになる。
『お願い! 誰か助けて!』
怯えながら、目を瞑り助けを願うしかなかった。
――2――
矢上の乗るGolf II GTIは、時速百数十キロで夜の神居市を疾走した。
十数分後、車はJR神居浦瀬駅の東口側へと滑り込み、神友百貨店の前で止まった。
フクロウから渡されたメモリーカードには、百貨店の詳細な構造図だけでなく、BFが張り巡らせたセンサーや監視カメラの死角も記されている。
矢上は、目出し帽を被り車から降りると、神友百貨店とは逆方向にある地下横断歩道に向かっていった。
寂れて誰もいない階段を地下に降りると、降りた先の角に錆びた鉄扉が閉まっていた。
フクロウから渡された鍵を使うと、鉄の擦れる耳障りな音を立てながら扉が開く。その先には、暗い通路が伸びていた。
それは、着工したまま頓挫した、地下ショッピングモールの跡地だった。
通路を10メートルほど進むと、神友百貨店の地下へ続く重厚な防水扉が見えてきた。
防水扉を開けると、資材置き場のような空間に出た。什器やマネキン、看板、椅子などが積まれており、身を隠すにはちょうどよかった。
「流石、フクロウの情報は正確ですね……」
矢上は什器の陰に身を潜めると、再度、経路と作戦の確認をした。
第一目的は敵の殲滅、第二目的は小春の救出。敵は10人、多くはない。各階に分散して配置されていたのは幸いだった。
スマホに『ヤマド運輸より荷物再配送のお知らせ』というメールが届いていた。一見スパムのようだが、矢上はそれを見て口元を綻ばせる。
『フクロウはちゃんと動いてくれていますね』
この作戦を受ける条件として、一つだけフクロウに要求した事があった。
話を聞いたフクロウは「俺はサプライヤーだぜ」と最初は渋っていたが、矢上の真剣さに折れて要求を飲んだ。メールはそれを実行している報せだった。
『これで思う存分戦える』
矢上は立ち上がると笑みをこぼしながら、一階に続く階段を足音ひとつ立てずに登ると、まずは通用口に向かって行った。
通用口には二人の手下が外を向いて警備をしていた。昼間の油断を引きずったようにだらりと外を見ている。
手下の一人がタバコを咥えてライターを擦るが火は付かない。小さな舌打ちが聞こえた。
ライターの石を擦る音が不規則に響く中、矢上は息を殺して一歩、また一歩。と間合いを詰めていく。
そして、間合い2メートル。矢上の左手が、静かに伸びる。
タックルのような動作はなく、首と肩を一つの力で捩じる。手下はわずかに息を漏らし、床へと崩れた。
もう一人が振り向く前に、矢上の右拳が顔面を捉え、勢いを消して床に転がす。
後ろから首を絞めて留めを刺すと手下を隣の小部屋に放り込んだ。
「まずは二人……」
通用口から店内へ通じる通路を抜けると、広いホールに出た。天井が高い。
「四階まで吹き抜けですか。ふむ、ツリーのおかげで丸見えにはならないか」
ホールの真ん中には、天井に届くほどの大きなクリスマスツリーが埃まみれで朽ちかけて立っていた。床にはオーナメントなどの飾りが散乱している。
情報では吹き抜けの二階から四階まで1人ずつ、ホールに向かって互いの死角をカバーするように立体的に三角配置されている。
「やれやれ、気付かれずに動くのは少々骨が折れますね」
非常階段は音が出る。エレベーターは通電なし。エスカレーターは目立つ上に逃げ場もなく、発見されたら狙い撃ちされて終わりだ。
フロアの階段を静かに登り、物陰に隠れながら、音をさせずに床を歩くのが一番発見されにくいだろう。
「正攻法でいきますか……」
二階フロアは婦人服売り場だった場所で、金属什器やマネキンの残骸が散乱して埃を被っていた。見張りの隊員は吹き抜けのホールの暗闇に目を凝らし、一階からの侵入を警戒している。
矢上は、壁と什器の残骸を遮蔽物として利用し、床に散らばるガラス片を一歩ずつ避けるように、慎重に間合いを詰めた。
手下が背を向けているとはいえ、完全に無音を保ち続けるのはプロにとっても至難の業だ。
距離が5メートルにまで縮まった。
隊員は、かすかな空気の流れの変化から本能的にゆっくりと振り返ろうとした。
この一瞬の「間」こそ、クラヴ・マガの達人が活きる時間だ。
手下が体幹を捻り始める瞬間、矢上は跳躍した。
矢上の全身の重みを乗せた右膝が、手下の腎臓の真上に斧のように鋭く叩き込まれた。
「ゴフッ!」
手下は、予想だにしない内臓への激しい衝撃で、空気と声を同時に吐き出し、中国製の85式サブマシンガンを手放した。銃は床を滑り、吹き抜けの端に引っかかる。
矢上は、隊員が内臓の激痛で膝を折る動作を、そのまま利用した。手下の首の後ろを掴み、頭部を地面に叩きつけるようにして、一撃で意識を刈り取った。
戦闘時間は、一秒に満たない。
倒した手下の帽子とチョッキを素早く脱がしてマネキンに着せた。上のフロアから見られても、この薄暗闇なら隊員が立っているように見える。
次は三階。
矢上は階段の角を静かに登り、手すりに寄りかかり目線を上げると、三階の男は階段のすぐそばで通路を向いて立っていた。
矢上は後ろから近づき、手元のナイフを素早く抜くと、男の口を押さえてナイフを喉に当てて引いた。音は一切ない。男の手が空を掻きすぐに力を失った。
そして、四階は厄介だとわかっていた。
テラス状で柱以外の遮蔽物がなく、他のフロアよりも明るく発見されやすい。しかし、そこが盲点にもなっていた。
四階に上がった矢上は柱の影に身を隠すと、クリスマスツリーに飾られていた球のオーナメントを手に取って5メートル先に投げた。
プラスチックのオーナメントが床の上でカツンと硬い音を立てて転がっていく。
手下が警戒しながら近寄って来た。
柱の向こうに背中を向けて立つ男の影が長く伸び、床の照明と混ざる。
矢上は間合いを詰めた。男が振り返るほんの一瞬の「間」、静かに振り返ろうとする、その重心の動きを矢上は逃さなかった。
右手で男の耳の後ろを抑え、左の掌を喉元に当てる。体重を一点に集中させると、男は嗚咽のような呻きを上げて膝を折った。
矢上はそのまま後方へ引き倒し、硬い床に頭を当てないよう素早く首を抑え込む。男が力尽きるまで時間は掛からなかった。
これで、ホールの吹き抜けにいる敵すべてを倒した。
「残りは五人、まだ気付かれてはいませんね」
矢上は見上げると、五階に上がる階段に向かった。
――3――
五階は四階と違い、吹き抜けがないぶん面積が広い。元は家具や雑貨を売っているフロアだった。
階段の手すりの影から覗くと、フロアの片隅にBFが持ち込んだ簡易ベッドがいくつか置かれていた。その横の埃を被ったソファーセットでは手下が三人、カードでゲームをしているようだった。
耳に包帯を巻いている手下が突然バンザイをして、手に持ったカードをテーブルに叩きつけた。
「俺の勝ちだ! 俺が一番にあの娘をいただくぜ!」
「あの娘……?」
矢上の眉がピクリと動いた。言葉から小春に乱暴しようとしている事は安易に想像がついた。
「チクショウ! またお前が先かよ!」
「お前の後は汚ねえからやなんだよ!」
手下の口汚い言葉を耳にして、矢上からクールな空気が消え去った。彼の瞳に、静かな殺意が宿る。
「これは一人ずつ倒すのは無理ですね……」
後ろを向いて座っているのが一人、横を向いているのが左右に一人ずつ。油断しているのは見るだけでわかる。
矢上は息を整えると、ソファーまで12メートルの距離を一気に掛け抜けた。
感覚が研ぎ澄まされ、世界がスローモーションのように引き延ばされる。
ソファーに近づく。
一歩。
二歩。
三歩……ソファーの背後へ。
包帯が巻かれた手下の後頭部を左手で毟るように掴むと、右手を顎に当てて力任せに捻る。骨が軋む乾いた音とともに、手下は短い呼気を漏らして力尽きた。
矢上はそのままソファーの背もたれを蹴りつけ、真上に飛び上がった。
着地の瞬間、右の手下の顔面目掛けて蹴りを入れ、ソファーから転がり落として牽制すると左を向いた。
左の手下が、54式拳銃を抜き放ち、矢上に向けようとしていたが、クラヴ・マガの間合いの中で拳銃は意味をなさない。
矢上は手下が構えるより早く、左手で54式拳銃の銃身を掴むと右手で手首を掴み捻りながら、股間に強烈な蹴りを入れ、銃を奪った。
「……グブ」と唸り声を上げた手下のこめかみ目掛けて54式拳銃のグリップで殴りつける。
カーン!と何かが砕ける音がして、銃を奪われた手下はソファーの上に沈み込んだ。
顔面を蹴られていた右の手下は、うめき声を上げながら起き上がり、ナイフを抜いた。その瞳には明確な殺意と、仲間が瞬く間に倒されたことへの恐怖が混ざっている。
矢上は無造作に54式拳銃を逆手に持ち、ナイフを持つ手下に向き直った。
手下は野獣のように低く唸りながら、ナイフを中段に構えて突進してきた。
矢上は動かない。ナイフの切っ先が、彼の顔面に届くギリギリの瞬間、矢上は左に半歩踏み込みながら、奪った54式拳銃のグリップを、手下のナイフを持つ手首の真上に叩きつけた。
金属同士がぶつかる音と、手首の骨が軋む音がすると、衝撃でナイフはあらぬ方向へ弾き飛んだ。
矢上は間髪入れず、膝の角度を低く保ったまま、逆手の銃のグリップエンドで手下のみぞおちを深く突き上げる。
「グファ!」
手下は内臓を強打され、声にならない悲鳴を上げる。矢上は相手の体が前かがみになった瞬間を見逃さず、銃を離すと、その首の後ろを掴み、勢いをつけて膝で顔面を打ち砕いた。
ドサリと、三人目の塊がソファーの横に崩れ落ちた。
矢上は数歩後退し、荒くなった呼吸を静かに整えた。ソファーの上で絶命している二人、床に沈んだ一人。すべてが一瞬の出来事だった。
「残りは二人……ですね」
言い終わらないうちに、背後から迫る鋭い殺気を感じて、矢上は反射的に頭を下げた。
シュッ!
頭のあった空間を黒い二本の軌跡が、音もなく通り過ぎていく。頭皮を掠める冷たい風。矢上はすぐに間合いを取り、ソファーの陰に飛び込んだ。
「よく気付いたな」
後ろを振り返ると、廊下の照明の薄暗がりに、背の高い副官が両手に一対の武器を持って立っていた。
副官の手に握られたそれは、三つ又のフォークのような形をした琉球古武術の武器、サイだった。
中央の物打はまっすぐ尖り、両側に付いている湾曲した爪は相手の獲物を絡め取るためのものだ。
物打の先端は、まるで吸い込まれるように、正確に矢上を捉えていた。
副官の切れ長の目は、まるですべてを見透かしているかのように静かで、一切の感情が読み取れない。
「クラヴ・マガの使い手か。まさか全員を無力化するとはな」
矢上は副官の冷静な洞察に警戒を強めた。
「サイですか。これは確かに相性が悪い……厄介な相手です」
矢上は足幅を半身に絞り、つま先で床のガラス片を避けつつ、視線で周囲を確認した。
右斜め前の柱まで二歩。左には壊れたマネキン。天井に吊るしてあったクリスマス飾りのガーランドが、千切れて足元に絡まっている。
副官は静かに一歩踏み出した。その動きは滑らかで、ほとんど音がない。
「今、隊長が取り込み中でな。あまり手間をかけさせるな。」
「同感です、手早く終わらせましょう」
矢上が目を細めた。
副官がゆっくりとサイを構える。その先端が描くわずかな円運動が、矢上の動きを牽制する。
副官は両手のサイをわずかに回し、侵入角を潰してくる。矢上は半身、呼吸だけを落とす。
先に動いたのは副官だった。右手のサイが外から巻き込むように矢上の頭を狙うがこれはフェイントで、左のサイが刺突してくる。矢上は上半身を捻り刺線を外すと、同時に左足で副官の脛を払い体幹を一瞬だけ揺らす。
副官は踏み直しながらサイの爪で矢上の前腕を絡め取ろうとした。矢上は肘を素早く内側へねじ込み、サイと同じ動きで爪の噛みを外す。
そのまま肘頭で相手の前腕を外へ割り、右肩でサイの柄頭をコンクリの柱に押し付けた。金属が低く鳴り、副官の握力が一拍抜けた。
矢上の腕が伸びる前に副官は素早く半歩後ろに引いた。矢上の組み手を外すとサイを持ち直した。ニヤリと笑う。
両手のサイを構えると、順手から逆手持ち、そしてまた順手持ちと高速でサイを回すように間合いをつめた。鈍く黒光りするサイは薄暗い中では認識しづらい。ヒュンヒュンとサイが回り空を切る音が耳を突く。
間合いに入った瞬間、副官が動いた。
左手逆手持ちのサイが突き出された。柄頭が矢上の鳩尾を狙う。
矢上が左手でそれを払おうとすると、右手順手持ちのサイの物打ちが、その手を払う。
両手を弾かれた隙に、今度は左手順手持ちのサイが頭を狙って振り下ろされる。矢上は体を後ろに逸らしてそれをかわした。
サイの空気を裂く音は止むことがなく、先や柄頭が矢上を掠めるたびに鋭く熱い痛みが走る。
サイの連撃は途切れず、リズムを変えて襲いかかる。右から左、低から高へ。順手と逆手が目にも止まらぬ速さで入れ替わるたびにリーチが変化し、反撃の隙を与えない。
矢上は防御の角度を狂わされ、肩を裂かれそうになりながら後退した。
「どうした、クラヴ・マガ。反応が遅いぞ」
副官の声は冷たく乾いていた。呼吸ひとつ乱れていない。
『……このままじゃジリ貧になりますね。身体を小さくする技は奴のリーチの前では無意味です』
矢上は息を整えながら、床の隅で足に絡まったガーランドを蹴り上げると指で掴んだ。
次の一撃を誘うように、右手を大きく広げて構える。
副官が見逃すはずもない。
左手のサイが刺突の構えに入った瞬間、矢上は一歩踏み込み、ガーランドを副官の顔めがけて投げつけた。
キラキラと照明を反射したガーランドの銀糸が、副官の視線をほんの刹那動かし、死角を作った。
その瞬間、矢上の影が床を滑った。
ゼロ距離だ。
副官の胸骨の下、肋骨の隙間にManurhin MR73の銃口が突きつけられていた。
ドンッ。
接触射撃で抑えられた音が骨を伝い、銃口から解き放たれた.357マグナム弾が副官の胸を掻き回す。血の匂いと、微かな硝煙の香りが漂った。
サイが二本、ほとんど同時に床に落ちた。冷たい金属音がフロアの沈黙を破って、広く、長く響いた。
矢上はManurhin MR73をホルスターに戻すと、倒れた副官の体を柱の陰に引きずる。胸の動きが止まっているのを確認して、息を吐いた。
――4――
神友百貨店七階の奥、バックヤードには店長室がある。
店長室には窓があり、かつては旧市街の煌びやかな夜景が望めたが、今ではパチンコ店のネオンの光が時々窓を照らすだけだった。
ソファーセットとデスクが置かれている室内は、高級品であろう調度品のどれもが輝きを失い、埃が積もっていた。
重厚なデスクの後ろの壁には「知足者常富」と毛筆で書かれた額縁が掛けられているが、傾いたままのそれは文字の意味も虚しく、ただの木と紙のオブジェと化している。
北山小春は縛られて身動きが出来ないまま、ソファーの上に荷物のように寝かされていた。カビと埃の臭いが鼻をつく。
小春からはデスクで何かの作業をしている向井の背中が見えていた。向井は手にした小瓶をデスクに置くと、ゆっくりと小春に向かって振り向いた。
外のネオンの光が向井の顔を赤く照らす。その顔はまるで地獄から呼ばれた悪魔のようにしか見えなかった。
向井の右手には一本の注射器が握られていた。小春は目を見開き向井から離れようと必死にもがいた。
「嬢ちゃん、逃げなくても良いんだぜ? コレを打ったら気持ちよくなって、怖さなんか吹っ飛んじまうからよ」
向井はわざと注射器を小春の顔の前に掲げると、下卑た笑いを浮かべた。
「んー! んー!」
小春は恐怖と嫌悪感から顔を歪ませ、叫ぼうとするが、口に貼られたテープがぴったりと貼り付いて声にならない。向井はにやにやと笑い、小春の右腕を掴んで注射器を刺そうとした時だ。
ドンッ!
下の階から鈍い銃声が聞こえてきた。
向井の目が鋭く光り、デスクの上のトランシーバーを取った。
「タケダ! 何があった!」
副官を呼ぶが、トランシーバーから返答はなかった。向井の顔に焦りが見える。
向井は舌打ちを一つすると、右手で小春の髪を乱暴に鷲掴みにし、左手で壁に掛かったマンベレを2つ取ると、1つは腰のホルスターに取り付けた。
「チッ……ここまで来るとは何者だ、下の客はよ」
向井は小春を盾にするように抱え込み、マンベレの刃先をその喉元に押し当てた。口元のテープ越しに漏れる小春の呼気が、刃先に微かに白く曇る。
六階へ続く階段を降りると、向井はフロア中に響き渡る声で怒鳴った。
「おい! 誰か知らんがいるのだろう? この小娘の命が惜しいなら出てこい!」
しばらく静寂が続いたが、柱の影から男の影が現れた。向井は間髪入れずに手に持ったマンベレを影に向かって投げた。
銀色の刃が男の眉間に命中する。そのまま男が倒れて、ガシャンと乾いた音がした。
「マネキンか!」
向井が気づいたと同時に、パン!という乾いた音が響き左肩に熱い激痛が走る。
「うがっ!」
手が緩んだ隙に小春が横に逃げた。逃げる小春の背中に向かってもう一つのマンベレを投げようとした瞬間だ。
再び、パン!という乾いた音と共に振りかぶったマンベレが弾かれた、マンベレが床に転がる鋭い金属音がフロアに響く。
「こっちへ」
小さな呼ぶ声がして小春が振り向くと、柱の影に目出し帽で顔を隠した黒ずくめの男が立っていた。
この男なら助けてくれると、直感的に感じた小春は男の背中に隠れた。
「チクショウ! 誰だ!」右手を押さえた向井が吠えた。
横の柱の影からManurhin MR73を構えた矢上が姿を現した。小春は男の背中に隠れるように立ち、既に手と口の拘束は解かれていた。
矢上の姿を見た向井が目を細める。
「Snowdrop……お前か……」
矢上を睨み付けると、片頬を上げて笑みを浮かべた。まるで新しいおもちゃを見つけた子供のようにも見えた。
「これは逃げる顔じゃない」
矢上は直感してManurhin MR73を撃ったが遅かった、向井は横の柱に飛びすさり、柱の影に隠れるとスマホを操作した。
その瞬間、百貨店全体を揺るがすような爆発音が轟き、床が大きく揺れた。バランスを崩した小春が倒れそうになって、矢上に支えられる。
ガソリンの燃える臭いが辺りに漂い、矢上と向井の間にも火の手が伸びて二人を遮った。
「TNT? いや……これはガソリンまで!?」
小型のTNT爆薬とガソリンタンクが各所に仕掛けられていたのだ。これはフクロウの情報にもなかった。
「ギャハハ! 貴様、これで生き残って見せろ!」
向井は炎の向こうで叫ぶと、エレベーターの扉を手で開いて、深く暗い空洞の中に飛び込んでいった。
矢上はうずくまって震える小春を抱きかかえると階段に向かって全力で走った。
走ったと同時に床が轟音と共に崩れ落ちて炎が顔を出した。階下の煙の中でタケダの死体が炎に飲み込まれているのがちらりと見えた。
階段に入ると下から黒煙が上がり、ガソリンとプラスチックの燃える臭いが鼻を突く。判断があと数秒遅かったら階段まで辿り着けなかっただろう。
煙の上がる階段を駆け上り、屋上に出る。
まだここまでは火も煙も回っていないので、新鮮な空気を吸い込む事が出来たが、ここに居られるのも時間の問題だ。
矢上は素早く屋上の手すり付近にある鉄製の避難器具コンテナを開いた。中に垂直式救助袋が入っていたが、袋を支える架台が錆びて使い物にならない。矢上は救助袋には見向きもせず横に付いていたロープを掴み取った。
次に屋上出口の横にある、消防ホース格納庫を開いた。ホースが使えそうなのを確認すると急いで引き出した。
「そんなのでこの火を消せるの?」
小春の疑問をよそに、矢上は取り出したホースの根元を鉄製の配管に二重結びすると、手早く強度を確かめて、ホースのノズル側を下に投げ落とした。
階下につながる扉からは黒煙が生き物のように吐き出され、熱気も感じ始めている。もう一刻の猶予はない。
矢上は小春の背中から両脇の下にロープを通すと自分の肩にかけて、小春をおぶった。
「え! ちょっと!」
小春の体重を背中に乗せたらロープを引っ張って密着させる。肩にかけたロープを胸の前で三回捻った後に、ロープの先を小春の内腿から外側に通し、肩のロープの内側でベルトのようにしっかりと縛った。
これで矢上の背中にロープで固定され、小春の身体がずり落ちる心配はなくなった。
小春を縛っていた向井のロープは、恐怖と絶望の象徴だった。けれど今、矢上と自分を結ぶこのロープは、命を預けるための絆になっている。
背中越しに伝わる矢上の息づかいが、炎の中で唯一の希望のように思えた。
「両手を俺の首に回して、絶対に力を抜かないように」
小春は恐怖に耐えながら、言われた通りに矢上の首に両腕を回し、顔を肩に深く埋めた。
彼女の震える息を耳元に感じる。小春の体温が、「生きている」という証を確かに伝えていた。
矢上は一瞬だけ息を整え、背中の彼女の重みを確かめる。
「目を閉じて」
その一言だけ残すと非常階段の手すりを蹴って跳んだ。ホースがギシリと軋んだ。
手と足に巻き付けたホースを滑らせ、壁を蹴って降下していく。
煙が視界を遮り、炎の猛り唸る音が怨嗟のようにすべてを飲み込んでいく。
焼けた鉄とガソリンの匂いが、世界の終わりのように鼻を刺した。
小春は声を上げることもできず、ただ、必死に矢上の首元に顔を押しつけていたが、硝煙の臭いの中にふわりとしたコーヒーの匂いが漂っている事に気がついた。
その匂いを感じた時、小春の中にこの人なら絶対大丈夫だ、という確信にも近い信頼感が芽生えた。
六階、五階……そのたびに熱風が頬を撫でていく。
矢上は靴底で外壁を蹴ってリズムを取りながら下降していった。
「あと半分だ」
四階付近まで降りた時、すぐ下の外壁が崩れた。ジグソーパズルをひっくり返したように壁がバラバラになって落ちていき粉塵が舞い上がる。崩れた壁の隙間から手招きするように炎が覗き蠢く。
「怖いですか?」
矢上が聞くと、小春は首を横に振った。
「上出来です。しっかり捕まってなさい」
矢上はホースを左右にゆすると、タイミングを見てホースから手を離し「神友百貨店」の看板に飛び移った。
鉄の支柱が悲鳴を上げるように軋みながらも、二人の体重をぎりぎりで支える。
そのまま看板を伝い、ジャンプすると隣の雑居ビルの屋上へ転がり込んだ、看板の支柱が悲鳴のような軋みを上げたあと、崩れ落ちていった。
「頑張りましたね」小春の肩を軽く叩くと、背中越しに震える嗚咽が聞こえてきた。
矢上は何も言わず、小春を背負ったまま静かに非常階段を降りていった。
「おーい! こっちだ!」
ビルから出ると、道路に停めたプリウスの前でフクロウが手を振っていた。
「この子を頼みます」
「ああ! 任せな」
矢上が小春を背中から降ろすと、小春は一瞬、彼の上着の布を掴んだまま離そうとしなかった。
しかし、フクロウの顔を見て自分の置かれた状況を思い出し、静かに手を離した。
その直後、神友百貨店を囲む仮設囲みの中から、ブゥオオンという野太いエンジン音が轟くと、黒いメルセデス・ベンツのGクラス。ゲレンデヴァーゲンが囲いを破って飛び出してきた。
「向井!」
炎上する百貨店の前を、Gクラスが巨大な獣のように突っ切った。
黒光りする鋼鉄の車体は、火の粉を弾きながら夜の湾岸道路へ消えていく。
その後を、古びたGolf II GTI が咆哮を上げるとテールライトを滑らせて追いかけた。
――5――
Gクラスは深夜の産業道路を西へ暴走していた。
猛猪のように左へ右へと車線を変え、一般車を跳ね飛ばすように突き進む。
何台かが避けきれず、商店のシャッターを破って突っ込んだが、向井はアクセルを緩めなかった。
その後方をGolf II GTI が巧みに他車を避けながら疾駆する。
タイヤが路面を噛み、矢上のハンドル操作に反応して、踊るように車の隙間をかい潜るGolf II GTI の姿は獲物を追いかける猟犬そのものだった。
フロントガラスにポツリと水滴が落ちた、やがて水滴はフロントガラス全体を洗うように降ってきた。
GクラスとGolf II GTI は濡れた路面を滑るように駆け抜け、産業道路を港湾地帯に抜けていった。
港湾地帯に入ると、車の交通量も少なくなり互いの性能差が出始めた。
雨で路面が濡れて、Gクラスはスピードを殺さないと急なカーブは曲がれなくなっていた。
カーブでGolf II GTI が追いつき、直線で引き離されるの追いかけっこを繰り返す。
「この先は埠頭になりますね」
Gクラスは倉庫街に入っていく、左手は海、右手は倉庫を望む埠頭をまっすぐ走る。濡れた路面にタイヤが水を蹴るシャーッという走行音だけが、倉庫の壁に反響した。
矢上はアクセルを緩めてフロントの荷重を抜くと右にハンドルを切り、車の向きが変わった瞬間にアクセルを踏む。
低い唸り声と共に、Golf II GTI は雨の倉庫の路地に入ると、路肩のポリバケツをひとつ跳ね飛ばした。
車一台ようやく通れる、狭い倉庫の隙間をGolf II GTI は咆哮を上げて駆け抜けた。
路地の終点は数本の線路と無数のコンテナ、そして巨大なクレーンが並ぶ操車場に続く貨物線と並走する道路だった。
矢上は再びアクセルを緩めるとタックインで右にハンドルを切った。
曲がり終えた所で、突然後ろからハイビームを浴びた、バックミラーの反射光の眩しさに目を細めて確認すると、Golf II GTI の真後ろにGクラスが走っている。
「早すぎましたか」
「ギャハハハ! 踏み潰すぞ!」
向井は顔を歪めて笑うと、アクセルを全開にした。Gクラスのフロントがリアに衝突する、リアガラスが砕ける鋭い破断音が車内を駆けた。
「これは逃げ切れませんね……」
矢上は、周囲を確認する。100メートル先に貨物線の踏切があり、その先にキラリと機関車のヘッドライトが見えた。
Gクラスが再度押し潰そうとアクセルを踏んだ瞬間を狙って、矢上はフルブレーキを掛けた。
激しい破壊音を立てて、GクラスがGolf II GTI に衝突すると、ハッチバックの上にボンネットごと乗り上げる形になった。
矢上の真後ろにGクラスのフロントフェンダーがあり、エンジンが威嚇するような唸りを上げている。
GクラスはGolf II GTI に完全に乗り上げて前輪が浮いているので舵が効かなくなっている。
矢上はブレーキとアクセルワークを組み合わせ、Gクラスの衝撃を利用して車体を踏切方向へ滑らせていた。
踏切に乗った瞬間、矢上はハンドルを切ってアクセルを開けた。Golf II GTI はGクラスのフロントを持ち上げたまま、線路の上を加速した。
「矢上! このまま潰してやる!」
向井が吠えてアクセルを開けるが、Gクラスは亀の子のように線路を跨ぐ形ではまってしまい、リアタイヤはバラストの上で砂利を弾くだけだった。
線路の上でGクラスのシャーシを引きずる焼けた鉄の臭いとGolf II GTI のガソリンタンクから漏れるガソリンの臭いが車内に充満した。
貨物列車を引く機関車のヘッドライトが目の前まで来ていた。
機関車はけたたましく警笛を鳴らしてブレーキを掛けるが、貨物を満載した機関車は、雨に濡れたレールの上では滑ってなかなか止まれない。機関車の甲高いブレーキ音が耳を刺す。
矢上はManurhin MR73のグリップエンドをアクセルペダルに深々と挟んでロックすると、ドアを蹴り開けてGolf II GTI から飛び降りた。
Golf II GTI が意思があるかのように渾身の咆哮を上げると、さらに加速して機関車に向かって疾走した。
矢上は線路脇の側道まで受け身で転がりながら、横目でGolf II GTI に引きずられるGクラスを見た。
「ヤァアガァアミィィィィィ!!」
向井の叫びは機関車との衝突音でかき消された。
Golf II GTI とGクラスは機関車の前でくしゃくしゃに丸めた紙のように潰れると、ガソリンに引火して燃え上がり、黒煙が雨空高く上がった。
それは、向井の野望が潰えた狼煙でもあった。
矢上は雨の中、スマホを取り出すとフクロウに電話を掛けた。
「……終わりました」
雨と炎の匂いの中、夜の港に静寂が戻りつつあった。
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