最終話 断罪

 夜の海辺は肌寒いほどの風が吹いていた。濃紺の夜空は澄み渡っていて、遠くに星が見える。その夜空と水平線で繋がる、紺碧の海原。波は穏やかで、まるで一枚の布のように静かに揺らめいていた。深く鈍い青は闇となって、何もかもを飲み込まんとしていた。でもそんな果てしない闇の中にも、光はあった。夜空から降り注ぐ月光を浴びて水面が時折煌めている。闇の中にこぼれ落ちた光の欠片――。飛鷹を失った私にとって、一実くんはまさにそんな存在だった。


 一実くんと再会して、止まっていた時計の針が動き出した。あの子を失ってから灰色で味のしなくなった人生が再び色を取り戻したような、そんな感覚だった。

 飛鷹の素顔を探ることには、痛みが伴った。私は母として、彼は彼氏として、目を背けたくなるような事実とも向き合わなければならなかった。でも、そうやって、一緒に傷ついて、苦しみながら飛鷹と向き合う中で、いつしか私は彼と強い絆で結ばれていたのだと思う。


 ――だからこそ、私は行かねばならないのだ。覚悟を決めて、振り返る。


 街灯の少ない海辺にはぽつんと一軒、橙色の明かりが灯っていた。真っ白な壁はその内に秘められた悍ましい秘密を塗り込めているみたいだった。

 カフェ『アトランティス』――旅の終着点がこの場所だったなんて思いもしなかった。今でさえ、考えたくもないことだった。心のどこかではまだ全部が嘘であればいいなんて思っていて、でも、私自身が突き止めた真実はもはや疑う余地などないほどこの場所を明確に指し示している。

 意を決して扉に近づくと、カフェの電気は消えていた。もう営業は終了しているはずだ。多分キッチンの電気だけがつけっぱなしになっているのだろう。ゆっくりと扉を押して、中に入る。

 アトランティス――神の罰によって海底に沈んでしまった伝説の島。あの人は誰にも疑われることのないこの場所を、誰も見つけることのできない神秘的な遺跡に重ねたのだろうか。海底を意識した青い調度品の数々に、そんなことを想像する。でも、不思議なことに何の感情も湧いてこなかった。感情が昂り過ぎたせいで情緒が乱れてしまったのかもしれない。真っ当な怒りさえも、どんなものだったか思い出せなかった。



「いらっしゃい」


あの人の声がして、思わず肩をすくめる。


「――と言うには随分遅いじゃないか」 

マスターはキッチンで、コーヒーを飲んでいた。いつも通りの穏やかな笑みを湛え、からかうように言った。心が揺らぐ。今ならまだ、引き返せる。そんな気がした。たまたま近くを通って、コーヒーが飲みたくなっちゃったの――。そんなでまかせも、きっとまだ通用する。このまま何も知らないフリをして、優しいマスターの元でコーヒーを飲んで、くだらないことを喋って……。


 だめだ。私には無理だ。

 この人の本性を知ってしまった今、もう馴れ合うことなどできない。

 

 私は表情を崩さず、彼に聞いた。

「今日が何の日か、覚えてる?」

彼はおどけたような素振りを見せる。

「忘れもしないよ。飛鷹が、死んでしまった日だ」

可哀想な子だった――しみじみと思い起こすような顔もどこか白々しく感じる。この前流していた涙も嘘だったのだとしたら、相当な演技派だ。でも、それは私がこの人のことを微塵も疑っていなかったから本当に見えただけなのかもしれない。こんな芝居に騙されるほど、私は彼を盲目的なまでに信じていたのだろう。反吐が出る話だ。


 私はもう騙されない。彼に真実を突きつける。


「貴方が、飛鷹を殺したのね」


 静寂が、海底に満ちる。

 彼は一瞬目をかっと見開いた。それからわざとらしく眉尻を下げる。


「物騒なことを言うなあ、百合子ちゃんは」

――否定してほしかった。そんなわけないじゃないか、といつもの調子で笑い飛ばしてほしかった。だから睨みつける。彼と真正面から対峙する。

 けれど、マスターは、そうしなかった。否定するでもなく笑うでもなく、ただ深い溜息をついた。

「その様子じゃ、もう、全部分かっちゃったのか」

まいったなーと間抜けな口調で彼は言った。飄々とした声には空恐ろしさを覚える。彼の表情には何ら罪の意識が感じられなかった。

「あれはね、飛鷹がいけないんだよ」

彼はそう言って立ち上がってキッチンから出てきた。そして私の前を横切って、店の奥の方へと軽快な足取りで歩いてゆく。テラスに出る窓のカーテンは開け放たれたままで、夜空の光が彼の背中をかたどっていた。クリーム色の床には彼の細長い影が伸びて、私まで届きそうだった。

 彼が私の方に振り返る。その横顔は月明かりに照らされて燦然と輝く。くっきりとした顔立ちは濃い陰影を落とし、残酷なもうひとつの顔が浮かび上がったように見えた。

「俺達だけの秘密だったのに、誰かにバラそうとするから」

調子の良い声色はかえってその残忍さを際立たせていた。

「秘密を守れない子には、お仕置きをしなきゃいけないだろ?」

当然のようにそう言ってのけ、唇の端を吊り上げる。

「だから、仕方なかったんだ」

仕方なかった――簡単にそう吐き捨てた彼の言葉にやっと怒りが込み上げてきた。腹の奥で、激しい憎悪の炎が燃え上がる。私の息子は、そんなちゃちな理由で命を奪われたというのか――。


 ――憎みたかった。憎めるはずだった。それでも、どうしてだろう。目の前にいる彼が憎むべき相手だと割り切れない。私は彼のことを、本当の父親だと思ってもいいくらい愛していたのだ。家族だと思っていた。それでも、貴方にとっては、そうじゃなかったんだろうか。のこのこやってきて、自分の息子を餌食に差し出す愚かな母親でしかなかったんだろうか。貴方が見せた涙も、貴方がくれた言葉も、何もかも、嘘だったんだろうか。とても、そんな風には思えなかった。少なくとも、飛鷹がここに来なくなってからは、私なんて利用価値がなかったはずだ。彼は、純粋に私のことを娘のように思ってくれていたんじゃないか。鬱陶しいと思っていてはできないほどの愛情が、そこにはあった気がして――。いまだに私は、彼のことをいい人だと思ってしまう。飛鷹を苦しめ、そして殺した張本人だというのに――。


 決意が鈍らないうちに、私は彼に告げる。


「ねぇ、お父さん」


初めて、彼のことをそう呼んだ。目頭が熱を帯びる。あぁ、やっぱり私は、この人が好きだ。この人を本当に愛してたんだ。もう、あなたにとってはどうだったのか分からない。それでも、私にとってあなたは――かけがえのない、家族だった。


 彼はゆっくりと私の方に向き直る。月明かりを背にした彼の顔は逆光のせいでよく見えない。好都合だと思った。もう一度あの優しい微笑みを見てしまったら、私の決意はいとも容易く揺らいでしまいそうだから。この人がけだものであるうちに、私は――。


カバンに忍ばせていた果物ナイフを引き抜いた。冴え渡った銀色の光が青を切り裂く。


「さよなら、お父さん――」


握りしめたナイフとともに彼めがけて突き進む。


月光がステンドグラスに入射して、床面を青く染めていた。


真っ青な光の底へ、彼に抱かれるようにして倒れてゆく――。



 鈍い感触。

 温い飛沫。

 そして、鉄の臭い。 


 瞼を開ける。ナイフの柄からそっと手を離して、立ち上がった。ぬらり、と温い液体が指を伝ってゆく。床に倒れた彼の腹はみるみるうちに赤く染まっていった。とくとくと溢れ出す鮮血が、綺麗に拭き清められたクリーム色の床を濡らしてゆく。それはやがて彼を中心にじわじわと放射状に広がり、どす黒い、血溜まりをつくってゆく。私は顔に飛び散った血しぶきを拭って、蹌踉めきながらかろうじて立ち上がる。


「百合子、ちゃん」

ごぼ、と血を吐きながら彼は私の名前を呼んだ。

「ごめんね。マスター」


――人はこれを復讐と呼ぶのだろうか。でも、私にとっては復讐以上の意味があった。愛する人を守るためだ。私は飛鷹を守ってやることができなかった。だから、せめて、一実くんだけは守ってあげたかった――。あの子を人殺しにしないためには、私が先に手を下すしかなかったのだ。


 四肢を痙攣させる彼に突き刺さったままのナイフは、鮮血を纏いながらも冷たい月の光を浴びて綺麗に煌めく。彼は自分の血溜まりの中で身体を捩らせ蠕動した。そのたびに夥しい量の血を流し、血の海と化した。海の色は更に深みを増してゆく。私はその光景をただぼんやりと見つめていた。


 

 青い光の底で、彼は静かに息絶えた。

 冷たい潮風が血に塗れた肌を優しくなぞってゆく。

 長い夏がようやく終わった、そんな気がした。



 *

 血に濡れた手でスマホの液晶をタップして警察を呼んだ。まもなく彼らは『アトランティス』にやってくるだろう。その前にすべきことが、まだ残っていた。


 テラスに出て、夜の外気に身を晒す。それから、テラスの欄干に上った。どこまでも果てしなく広がる海に両手を伸ばす。海は、まるで私の罪をも包み込むかのような穏やかな表情をしていた。


 ――やっと、罰を受ける時が来たのだと思う。あんなに飛鷹の傍にいたのに、あの子を守ることができなかった。それどころか、あの子の痛みにも気づいてやれなかった。それが私の罪だ。今こそ私が断罪されるときなのだろう。


 ひとつ心残りなのは、一実くんのことだ。あの子は、この先どうしていくのだろう――。できればいつも通りの日常に戻ってほしい。普通の大学生として生きて、別の誰かと巡り合って、恋をして、幸せな日々を送ってほしい。君なりの幸せを描いていってほしい。私のことを気に病む必要はない。飛鷹のことは忘れちゃってもいいから……いや、でも少しは覚えていてほしいかな。――とにかく、一実くんならきっと、大丈夫だ。なぜだろう。確証はないけれど、自信を持ってそう言える気がした。


 深い息を吐き、まっすぐ海を見据える。覚悟はとっくに決まっている。

 飛鷹のところへ行こう。

 あの子と話したいことが、沢山あった。

 

 母さんね、貴方の彼氏と会ったよ。一実くんと付き合ってたんだね。さすが私に似て面食いだねえ――なんて茶化して……。きっとあの子は反抗期の延長みたいに気だるそうな顔をして、それでもなんだかんだ私の話を聞いてくれるような気がする。


 一実くんと色んなところに行ったよ。バイクにも乗せてもらった。いつの間にか彼のことまでもうひとりの息子みたいに思えてきちゃった。もし貴方達がパートナーになってたら、それも間違いじゃなくなったのかな。貴方の惚気話とか、聞いてみたかった。多分恥ずかしがってしてくれないだろうけど。照れる顔くらいは見せてくれるかな。


 飛鷹のことを知る人に会いに行ったよ。絵麻ちゃん、小野寺先生、船生さん、ヤスくん、首藤くん、城崎さん、類くん――。彼らと話して、貴方の素顔を知った。貴方の抱えていた苦しみに気づいてあげられなくてごめんね。あんなに近くにいたのに、何も分かってやれなかった。貴方は独りで抱え込んで、独りで戦おうとしていた。もっと早く気づけたらよかった。貴方の背負っているものも一切合切抱きしめてあげればよかった。悔やんでも悔やみきれない。――飛鷹に謝りたい。それから、愛を伝えたい。旅の中で、飛鷹の不器用で、痛々しいほど健気な愛を知った。でも恥ずかしくて伝えられないのはお互い様だった。私がもっと愛を言葉にできていたら、あの子も言葉にしてくれていたかもしれない。本当のことを話してくれたのかもしれない。今更遅いけれど、今なら恥ずかしがらず、まっすぐ伝えられるような気がする。


 私は――母さんは貴方のことを、貴方の総てを愛してる。


 本当は、貴方が生きているうちに伝えたかったな。



 ふっと全身の力を抜いた。私の身体はゆっくりと前傾してゆく。欄干から爪先が離れる。ふわりと宙に浮いて、刹那、鈍い水飛沫の音とともに海に呑まれた。冷たい水が、私を優しく包み込む。視界が滲み出す。吐き出した泡沫が遠ざかってゆく。そっと瞼を閉じる。私の意識は、紺碧の海に解けてゆく――。


 海の底から、懐かしいあの子の声が、聞こえた気がした。



【了】










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