第21話 真相

 気持ちを落ち着けようと、コーヒーカップを手に取ろうとしたけれど、滑り落ちてしまいそうなほど手汗がひどくておまけに馬鹿みたいに震えていた。口に含んだコーヒーの味も美味しいのか不味いのかもう分からない。

 小野寺先生は私の様子を見計らって言う。

「どうやら、心当たりのある人物がいらっしゃるみたいでですね」

答えることも、頷くこともできなかった。でも彼は総てお見通しのようだった。

「たとえそれが、どんなに信じがたい人物でも、疑ってください。性被害というのは私達が想像している以上に身近なところで行われているんです。そして加害者は、一見まるで無害なように見える、むしろ優しい人物であるかのように装っている場合が多い」

彼の言葉は説得力が強い。私はこの人の言うことを信じなければならない、そう思った。だから私は、マスターを疑う。

「……分かりました」

振り絞るように声を出すと、小野寺先生の顔は心做しか穏やかになった。

「あなたなら大丈夫です」

しかし、その顔はすぐに深刻そうな表情に変わる。

「問題は、堂島くんです」

彼は続けて言った。

「私が危惧しているのは、堂島くんが既にその人物を突き止めている可能性です」

一実くんとの連絡が途絶えたのは、そのせいかもしれない。飛鷹と類くんの関係から推測して、マスターに疑いを向けたというのは、一実くんなら充分に考えられる。それに気づいた彼はどうするだろう。私を置いて、一人で乗り込む――ありえない話ではない。むしろ、そんなことをしそうな気がした。

「堂島くんなら、おそらくその人物と接触を図るつもりです。そして何らかの決着をつけようとするはず……」

一実くんが何をしようとしているのかは分からない。でも、それがよくないことであるのは明白だった。

「鳴瀬くんの命日、確かもうそろそろでしたよね」

小野寺先生の呟きで思い出す。そうだった。一実くんの安否に気を取られていて忘れていたけれど、あの子の命日は、今日じゃないか。かすれた声で彼に告げると、まずいな、と彼はひとりごちた。

「今日、堂島くんが行動を起こす可能性は極めて高い」


 *

 喫茶を足早に去り、帰路につく。日は今にも暮れかけていた。帰り道、一実くんの携帯に電話をかけ続けた。閑静な町並みにコール音が響き、溶けてゆく。祈るように、彼が出るのを待った。お願い、間に合って――。何度もそう願いながら、液晶を見つめる。


 そんな祈りが通じたのだろうか。何度目かの着信で電話が取られた。

「一実くん!」

心配したのよ、と喉まで出かけた言葉を呑み込む。

「今、どこにいる?」

彼を刺激しないように、穏やかな口調で彼に問う。けれど、彼はその質問には答えなかった。無言のまま時間が過ぎる。今電話を切られると、もう二度と彼に会えなくなるんじゃないか、そんな気がして、私は早口で彼に提案する。

「今から、会えないかな」

時間を稼ぐしかないと思った。


「今、ですか」

ようやく、一実くんの声が聞こえた。その声のトーンから察するに彼はあまり乗り気はないようだ。

「どうしても、会いたくて」

ほら、今日はあの子の命日でしょ、と彼に言うと、そうだったんですか、と彼は今しがた知ったかのような白々しい反応を見せる。分かってる。これは彼の演技だ。飛鷹の死にあんなに執着していた彼が、こんな大切な日を忘れるわけがない。


「今から、私の家に来てほしいんだ」

そう告げると、彼は暫く考え込んだ後にいいですよ、と言った。

「僕も、最後に百合子さんに会いたいと思ってたんです」

その返答にホッとした。おそらく一実くんはまだ、何もしていない。しかし、だからといって気が抜ける状況ではなかった。彼の、「最後」という言葉が私に深く突き刺さっている。一実くんは今夜、何か行動するつもりだ。それも、きっと取り返しのつかないことを――。


「じゃあ、待ってるね」

私のその呼びかけに彼は応えなかった。でもきっと彼は来る、それだけは確信していた。


 私が、一実くんを止めなきゃいけない。そんな使命が湧き上がってきた。

 これは、一実くんのためでもあり、飛鷹のためでもある。


 私が、止める。

 固くそう誓う。そうして私は彼を迎える準備に取り掛かった。


 *

 秋の日は暮れるのが早い。すっかり暗くなってしまった窓の外をぼんやり眺めていると、バイクの音がした。一実くんだ。私は慌てて立ち上がって、彼を出迎えた。彼はバイクに乗せてくれたときと同じ服装、真っ黒なライダージャケットを着ていた。その目には、いつか見た昏い光が宿っている。


「これから用事があるので、お線香だけあげさせてください」

彼の口調はいつも通り、穏やかだった。そうやって平穏を装うことで、私に悟られまいとしているのはバレバレだった。

「ごめんね、無理を言って来てもらって」

あの子も一実くんに会いたいだろうと思って――そんな嘘が自分の口からするすると出てくる。人間、一世一代の大舞台ではなんだってできるのだろう。でも、それはきっと彼だって同じだ。

 彼がリビングの小さな仏壇に線香を上げている間にコーヒーの準備を始めた。

「コーヒーだけでも飲んでいってよ」

そう言うと彼は一瞬顔をしかめたが、それならお言葉に甘えて、とその場に座り込んだ、

 

 ドリップを待っている時間がじれったかった。一実くんをこのまま帰すわけには行かない。彼の様子を伺いながら抽出が終わるのを待った。

 コーヒーをカップに注ぎ入れ、一実くんの方に持ってゆく。彼の前にカップをひとつ置いて、私は正面に座った。

「一実くん、少し、私とお話しよっか」

彼が本気なら、私も本気だ。一実くんがコーヒーをぐいっと飲んだのを見て、私は切り出す。


「この際はっきりさせておきたいことがあるの」

一実くんに問う。

「最初から、復讐のためだったの?」

彼は、何のことかととぼけるような顔をしたが、そうはさせない。

「君と初めて会った時、小野寺先生の本を探してたよね」

あのとき、彼が見ていた本棚の本のタイトルを思い出す。

『少年少女のこころ』『被害者たちの沈黙』『皆で子どもを守る方法』

「あそこに並んでいたのは、どれも子どもの性被害に関係する本だった。私と出会った時点で君は、飛鷹が誰かから性被害を受けていたことを疑ってたんじゃないかな。そして、私に探りを入れるために近づいた。母親なら、飛鷹の交友関係を知っていると思ったんでしょう」

総ては、飛鷹を苦しめていた犯人をあぶり出すためだったんだね――。

私は彼に聞くが、彼は黙ったまま答えない。しかし、その瞳に宿る昏い光が、総てを物語っていた。

「君は『アトランティス』で飛鷹と類くんの写真を見ている。その後、類くんの近況を知って、君は確信したんだ。マスターこそが、飛鷹を苦しめていたトラウマの元凶だって」

どうかな、と問うと、彼はようやく重たい口を開いた。

「あいつは――飛鷹は、僕が体に触れるのを時々過剰なまでに嫌がりました。不快に思っているというより、怖がっているみたいでした。だから俺に会う前に何かあったんじゃないかってずっと疑ってたんです」


確か城崎さんもそんなことを言っていた。私が触ると怯えた目をする――。身体に触られることで、過去にされたことがフラッシュバックして反射的にそんな態度をとってしまったのだろう。



「でも、それを知る前に、あいつは死んでしまった。性被害を受けていたんじゃないかって疑念を抱き始めたのは、あいつが死んで半年ほど経ってからです。心理学の本を読んでいた時、たまたま似たような事例を見つけて、調べていくうちに疑いは確信に変わりました」

一実くんは堰を切ったように話した。

「飛鷹は『秘密』を抱えたまま誰にも言えず、死んでいった。あいつは、無念だったと思うんです。そんなトラウマを植え付けたやつを許せなかった。だから、百合子さんに近づきました」


復讐する相手を、探すために――。


「ごめんなさい、百合子さん」

彼はのろのろと頭を下げる。

「僕は、貴方を利用するために近づきました。貴方が行動を起こさなければ、僕の方から家に押しかけるつもりでした」

提案を拒絶されたのは想定外でしたが、と彼は力なく笑う。

「でも、貴方ならきっと乗ってくれるだろうと思ってました」

一実くんの言葉は予想していたよりもずっと、私の心に響いた。彼が私に見せた何もかも、総て彼の計画のうちで、打算的な行動だった。ある程度の覚悟はしていたものの、本人に直接言われると堪えるものがある。でも、このぐらいのショックで泣くわけにはいかなかった。

 私は彼に問う。

「どうしてすぐに君の目的を教えてくれなかったの」

もっと早く教えてくれていたら――。そう言いかけて私は口をつぐむ。私は――飛鷹に向き合えていただろうか。

 ここまで紆余曲折あってなんとかやってきた。一実くんの力なしじゃ、私はあの子の死を見つめ直すことさえできなかった。総ては、私に飛鷹と向き合わせるためだったとしたら。

「私の、ため……だったの?」


でも、一実くんはその問いに悲しげな微笑を浮かべて、首を横に振った。

「僕はそんなにいい奴じゃないですよ」

百合子さんが傷つくかもしれないと思った、彼はそう言った。

「僕の言葉で、貴方を傷つけるのが怖かったんです。だから、勝手に傷ついてしまえばいいと思いました。僕が伝えなくても、百合子さんが自分自身で飛鷹の『秘密』に至ればいいじゃないかって。そのために僕は百合子さんを誘導していました」

卑怯でしょ、と彼は自嘲する。

「卑怯で、臆病で、利己的で――だからあいつを守れなかったんです。僕は、最低な人間だ」

そんなことないよ、なんて簡単な慰めは言わないし、軽蔑する言葉だって出てこなかった。一実くんは一実くんなりに真実を見つけて飛鷹を愛そうとしていた、それだけで、私にとっては充分だったから。

 

 そんな君に、私は問う。

「一実くんは、もう飛鷹の死の真相も分かっているんだよね」

予想通り彼は頷いて、そして告げた。


「飛鷹はやっぱり、殺されたんです」



【続】





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