第8話 原点
翌日、一実くんはフルフェイスのヘルメットでマンションに現れた。インターホンに出たときはギョッとしたが、彼がヘルメットを脱いでいたずらっ子のような笑みを見せてくれると一気に緊張がほどけた。ぴったりとしたメッシュジャケットにライディングパンツという細身のシルエットはスタイリッシュだ。
「準備はできてますか」
「うん、多分」
と返事はしたものの、彼の格好を見ると心配になる。万が一のこともあるので肌の露出がない長袖長ズボンで、と彼に言われて服を選んだものの、こんな格好でいいのかしら、と自信がなくなる。今日のためにクローゼットから引っ張り出してきたレザージャケット。着るのは何年ぶりだろう。久しぶりに袖を通すと、なんだか硬くって着心地が悪かった。
彼の後について階段を降りてゆくと、駐車場に見慣れないバイクがあった。クラシカルなデザインで、黒に限りなく近いネイビー。クロームが朝の光を弾き、空の色を映し出している。
「これが、一実くんの?」
と一応聞いてみると、彼はそうですよ、と何ら大したことじゃなさそうにさらりと答えた。
「大学生にしては、随分高い買い物だったんじゃないの」
野暮なことを聞いてしまったが、
「ローンで買ったんです。もう払い終えてますよ」
彼は嫌な顔一つしないでそう言ってのける。さすが一実くんだと感心してしまう。
彼は再びヘルメットを被り、私の方を向いた。
「それはそうと、ヘルメット、飛鷹のもので大丈夫そうですか」
「うん、ちょうどぴったりだった」
両手で抱え込んでいた飛鷹のヘルメットに目を落とす。あの子が使っていたヘルメットは、部屋に遺品として置いたままにしていた。まさかこんなところで役に立つとは思わなかった。
ヘルメットを慎重に被ると、中には香水のような甘い匂いと、それから少しだけ汗臭い匂いが残っていて、胸が苦しくなった。ゴーグルから見える景色は、あの子の見ていた世界と同じなんじゃないか、そんな気がした。
一実くんがバイクに跨り、暫くして軽く顎を引いて私に合図した。
私は恐る恐る彼の背後にまたがる。腰を下ろした瞬間、思ったよりも地面が遠く感じて驚いた。
「僕の背中と腰に身体をしっかり密着させてくださいね。腰を掴んでもいいですよ」
彼の声はエンジンの低い唸りにかき消されそうになる。分かった、と声を張り上げて彼に伝えると、彼は振り向かない代わりに親指を立てて反応した。
腰に回した手のひらを介して、一実くんの体温と呼吸のリズムが伝わってくる。彼の穏やかさに反して、私の緊張は尋常ではなかった。さっきから胸の奥で心臓の爆音が鳴り続けている。
次の瞬間、エンジンが唸りを上げ、世界が一気に流れ出した。
バイクが走り出した――私達を乗せて、原点とも言える場所へ向かって。
*
道中は気が気じゃなかった。風を切って進む爽快さ――そんなものを感じる余裕はなかった。ヘルメットの中で息がこもり、鼓動の音がやけに大きく響く。風圧が容赦なく身体を押され、体勢を崩しそうになるたびに、反射的に彼の腰を掴む手に力を込めた。
バイクはしなやかに傾きながらカーブを抜けていく。そのたびに彼の肩や背中がわずかに動き、私もそれに合わせて身体を動かす。でも、自分の重心が彼とうまく噛み合わない。これじゃあ、ただの荷物だ。
「もっとリラックスしてください」
前方から風とともに彼の声が届く。リラックスしようにも、とてもじゃないけど心が落ち着かない。気を緩めればバイクから振り落とされそうな気がする。
「大丈夫ですか」という問いには「大丈夫!」と威勢よく答えたけれど、自分でも笑ってしまうほど裏返ってしまった。全然大丈夫じゃない。心臓は今にも破けそうなほど早く脈を打っている。
視界の端を家や木々が矢のように過ぎてゆく。アスファルトの上を滑るように進む感覚は恐ろしくもどういうわけかひどく懐かしいようにも思えた。
彼が声を張って私に言う。
「よく飛鷹とツーリングしました。海に行ったり、山道を走ったり」
風の音が遠のいてゆく――あの子も、こんな風に一実くんの背中を見ていたのだろうか。自分ではどうにもできない速度のなかで、ただ彼の背中にすがり、総てを委ねていた――そんな姿が、ありありと浮かぶ。
彼の大きな背中に身体を寄せる。ジャケット越しに伝わる熱と汗。その背中に触れているうちに、不思議と恐怖は薄れていく。あぁ――飛鷹もきっと、こんな気持ちだったのだろうか。
不安と安寧のあわいで、私は飛鷹と、同じ景色を見ている気がした。
*
片道三十分で、目的の場所へとたどり着いた。バイクを降りてヘルメットを脱ぐと、潮の香りが一気に濃くなった。心做しか風はひやりとしている。ジャケットは暑いだろうかと思っていたけれど、この格好で正解だった。
海沿いの道路に隣接した小さな休憩所。木製の机やベンチがいくつか並んでいて、どこか寂れた雰囲気を纏っている。切り立った崖の上に位置するこの場所から、飛鷹は転落した。
崖を囲むように転落防止のガードレールがつけられているが、腰の高さほどしかなく、少し勢いをつければ簡単に越えられてしまう。その下を覗き込む勇気はなかった。そこには今も飛鷹の亡骸が横たわっているような気がして、土色の皮膚の感触まで呼び覚まされそうになった。
崖までの道は、道幅は広いのに車通りが少なかった。近所の人がぽつぽつ散歩しているくらいだ。飛鷹が二、三日発見されなかったのも無理はない。
昼過ぎだというのに、鉛色の空のせいで辺りは薄暗い。海の色もまた、空を映して深く濁っている。紺碧の海はいつにもまして深く、暗い色をしていて、まるで底の見えない闇のようだった。きっと晴れた日なら海が綺麗な絶景スポットに違いないのだけど。
「なんだか、嫌な色だね」
思わず呟いてしまう。不安を誘う暗黒。黒い海を見ていると、まるで、飛鷹の内側を覗き込んでいるような感覚に陥る。隠しきれないものを抱えながら、うわべだけは理想的な青を取り繕って生きてきた。けれど、ほころびはいつか滲み出して取り返しのつかない色になる。かつて理想を夢見て『幸せ』に囚われていた私。知らず知らずのうち私は飛鷹に生き方を押し付けていたのかもしれない。まるでそれこそが絶対的に正しいかのような顔をして。それが、飛鷹を苦しめていたのだとしたら?その結果がこれなのだとしたら――その先は、もう考えたくなかった。今日の海は、罪の色をしている。
私の内省を断ち切るように、飄々とした声で彼は言った。
「そうですかね。むしろ、ただ青いより誠実に見えます」
「誠実?」
「なんていうんでしょう、真っ青な海ってあれはあれで綺麗ですけど、どこか嘘っぽい気がして。こういう日に見る素の海の方が、ずっと本当の姿に見えるんです」
「そうかな」
言いたいことは分からなくもない。でも、本当の姿なんていいものであるはずがない。それなら虚飾にまみれていても綺麗な方がいいんじゃないか。――飛鷹の本当の姿を知りたいなどと言いながら、私はいまだにそう考えてしまう。彼は何でもないふうに笑って、けれど遠くを見るような目をして言った。
「飛鷹なら、多分俺の気持ちも分かってくれると思います」
あいつは、海が好きだったから――。そう言って彼は悲しげに微笑む。その目は海を見ていて、この瞬間だけは彼と飛鷹から切り離されたみたいだった。総てを理解できないままでいる私は、まるで部外者のように透明な壁の向こう側に立ち尽くすしかなかった。
波の音は私達の静寂を呑み込むように響き渡っている。潮風は頬を裂くように吹きつけた。ベンチに腰をおろして私はそっと目を閉じる。
――飛鷹は、どうしてこんな場所に来たのだろう。
ずっと抱いていた疑問について、思索する。
家からも大学からも遠く離れたこの辺鄙な土地に、飛鷹を導いたものは何だったのか。
私の知る限り、この近くに飛鷹と縁のある場所はない。駅もなければ、バスも通っていない。ここから最寄り駅まで歩けば、三十分はかかるだろう。車もバイクも持たないあの子が、どうやってここまで来たのか。
考えれば考えるほど、答えは遠のいていく。
目を開けて、暗い海を見つめる。
あの日飛鷹が見たであろう海の色を、確かめるすべはない。
ただ、この海だけが知っている。あの日、ここで何があったのかを。
【続】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます