第2話 帰郷

 張り詰めた空気と痛いほどの沈黙は何より雄弁に私達の関係を語っていた。敵対しているのではない。むしろその逆だ。私達は同じ痛みを抱えていた。だからこそ、会いたくなかった。彼と顔を合わせると、否が応でもあの子のことを思い出してしまうから。きっと一実くんもそうなのだろう。


 お互い探り合うように目線を交わすけれど、黙ったままでは埒が明かない。思い切って、私から話しかけた。業務中に知人と話すのはご法度だが、彼に限っては事情が事情なのでやむを得ない。


「一実くんは、学校帰り?」


平日のこの時間に図書館に来ているということは、二限が終わって帰ってきたのだろうと推測したのだ。だが、私の予想は外れた。


「いえ、まだ夏休みなんで……」

「えっ、そうだっけ」

本人が言うのだから間違いないのに、つい聞き返してしまう。

「九月の終わりまで休みなんです」

彼は嫌な顔一つせず答えてくれた。

「へぇ、そうなんだ。あと一ヶ月もお休みなんて、羨ましい」

口を衝いた感想はどこか薄っぺらい。気の利いた言葉を返せない自分にもどかしさが募るものの、彼の表情は心做しか和らいだように見える。

「バイト三昧なんで、大学があるときよりも忙しい感じがします」

「バイトは何やってるの?」

「塾講です。今日もこれから出勤するんです」

通りでフォーマルな装いなわけだ。長身で、肩や腕に程よく筋肉がついていて、ぱっと見ではそこらのサラリーマンと見分けがつかないレベルに仕上がっている。大人っぽい、と言いかけて慌てて言葉を飲み込む。彼はもう大人だった。


「えらいね。バイトもそうだけど、お休みなのに勉強もしてるなんて」

本に目をやると、彼は気恥ずかしいのかさっと背中に隠して照れくさそうに笑った。

「これはその趣味、というか、ただ興味があるだけで」

そんな興味だけで太い専門書を読めるなんて、感心してしまう。うちの息子だったら絶対そんな……。


 そこまで言いかけて、口をつぐむ。この話題には触れるべきじゃない。そう分かっていながらも彼に聞きたくて仕方がなかった。


 あなたは、あの子のいない日々をどう生きてる?

 もう、慣れてしまった? 

 あの子のことを忘れてしまった?


「一実くんはさ――」 

視線を逸らす。


――夏休み、楽しんでる?


彼のカバンについた、見覚えのある青いマスコットがゆらゆら揺れていた。


 言ってしまって後悔した。二回りも年下の青年に、なんて意地悪な質問をするんだろう。案の定彼は困ったように笑う。その悲しげな微笑みが総てを物語っていて、満たされると同時に酷い罪悪感に駆られる。


「ごめんね、嫌なこと聞いちゃったかも」

いいよ、答えなくて――慌ててそう言葉を重ねる。自分の愚かさが恥ずかしくて、今すぐにでも逃げ出したかった。

「私、そろそろ行かなくちゃ。まだ仕事が残ってるんだ」

ワゴンに手を伸ばして、一実くんから離れようとした、そのとき。


「あの、百合子さん」


彼が、後ろから私の名前を呼んだ。


「また、会いませんか」

彼はそう言った。


 私は振り返らない。彼が何を思って、何を期待してそんなことを言ったのか、分からなかった。まとまらない思考を無理やり振り切るように、私は彼に答える。

「うん、またね」

分かっている。「また」なんて二度と訪れない。そんなことくらい――。



 私の息子、飛鷹ひだかが事故で死んで、もうすぐ一年になる。

 誰もが飛鷹の死を惜しんでいたのに、今ではその名前を聞くこともない。飛鷹のいない世界は、あの子のいた過去を風化させながら残酷に進んだ。彼もきっと、いつか忘れてしまう。次に会った時、彼は私のことを覚えているだろうか。


 ……自分はあの子の死から目を逸らしておきながら、他人には飛鷹のことを忘れないでほしいと願うなんて、都合がいい。結局は我が身可愛さなのだ。私は傷つくことを恐れて過去から逃げた、最低な母親だ。


 

 *

 早番だったので、図書館を五時過ぎに出ることができた。外気に身体をさらすと風が思いのほか冷たい。辺りはすっかり薄暗くなっていて、茜色から藍色へと移ろう空がゆるやかなグラデーションを描いていた。


 ふと思い立って、ある場所に向かうことにした。今日なら大丈夫、そんな根拠のない自信があった。おそらく、一実くんと会ったからだ。すでに一度傷口に触れたせいか、躊躇いは薄れていた。


 昔、飛鷹と二人で住んでいたマンションの近くに行きつけのカフェがあった。キッズスペースもある子連れに優しいカフェで、幼い飛鷹を連れてよくモーニングを食べに行ったものだ。そこのマスターと親しくなって、時折飛鷹をお店に預けたりもしていた。勿論、最初から厚意に甘えたわけではない。何度か丁寧に断ったけれど、マスターはたまにはひとりで休みなさい、と面倒を見てくれた。シングルマザーで両親が既に死んでいた私にとって、彼の言葉ほどありがたいものはなかった。


 マスターは自分のことをお父さんと呼んでくれて構わないと言ったけれど、彼と私は十歳ほどしか変わらない。家族の形に当てはめれば兄が妥当だろうけど、私はマスターと呼んだ。そのほうがなんとなくしっくり来たのだ。彼も悪くないね、と満足そうに笑っていた。


 そのカフェ『アトランティス』は、飛鷹が家を出るのとほぼ同じ時期に、海岸へ移転した。一人暮らしの準備に奔走する飛鷹にしみじみと思い出話を語ったのを覚えている。

「ずっと海の近くに店を開きたいと思ってたんだ」

そう言っていたマスターの横顔を、今も覚えている。


 カフェが遠くなってからも私は一人で通い続けた。――飛鷹が死ぬまでは。


 あの子が死んでしまってから、あの子との思い出の場所を、私は恐れるようになった。行けばきっと、飛鷹のことを思い出してしまうから。私はいつしか『アトランティス』を避けるようになっていた。


 車を降りると、粘っこい潮風が肌に纏わりつくのを感じた。

 ついに来てしまった。

 『アトランティス』――真っ白な壁が特徴の、スタイリッシュなカフェだ。移転前はレトロな雰囲気があったが、すっかり洗練されて今風になってしまった。でもこれはこれで悪くなかった。深呼吸して、ドアを開ける。からんころん、とベルの音がした。懐かしいコーヒーの香りに浸っていると、ものすごいスピードで子どもがこちらに走ってきた。小さい男の子はきのこみたいな髪型をしている。男の子は私のもとに来てニコッと無邪気に笑った。それから、小さな人差し指を口に当てて、しーっと息を吐く。その仕草が可愛らしくて、つい口元が緩む。


「こら、お客さんにちょっかいかけないの」

――懐かしい声。顔を上げると、マスターがキッチンから顔を出していた。パーマのかかった茶髪にもみあげまで薄っすらと生えたあごひげ。そしてトレードマークの青いニット帽。あの頃から何も変わっていない。


「百合子ちゃん」

マスターは驚いたように目を見開いている。

「お久しぶりです」

声が少し震えてしまった。誤魔化すように笑いながら

「この子、マスターの子ども?」

と私の足元にいる子を指す。

「違う違う、親戚の子だよ。三日間預かってるんだ」

マスターは手をひらひら振りながら言った。お人好しなところは相変わらずみたいだ。


「今日は何か飲むの?」

いつも通りの何気ない一言。もう半年も顔を出していなかったのに、まるで昨日も来たかのようだった。ここには私の日常があった。本当は一杯飲むつもりだったけれど、このままだと泣いてしまいそうな気がしたから首を横に振った。

「ううん、コーヒー豆だけ、買いに来た」

「あいよ。何の豆がいい?」


 マスターのカフェはコーヒー豆の販売所も兼ねていて、様々な国の豆が売られている。おすすめと書かれたポップを指さした。

「ブラジルのやつね。二百グラムでいい?」

マスターの穏やかな声はすっと私の耳に馴染んだ。手際よく豆を挽く音が私の心を満たしてゆく。

 海底をモチーフにした店内は、内装のいたるところに青が散りばめられている。店先に並べられた商品には、海の神、ポセイドンがデフォルメされたロゴが印字されている。横に置かれた手書きポップの癖のある字も懐かしかった。コーヒー色のショップカードは移転を機に変わったのだが、それでもなんだか懐かしさを感じる。カフェで出たコーヒーカスを再生紙にしたものだからエコなんだーって得意げに教えてくれたっけ。総てが懐かしくて、温かな思い出だった。


 会計の後、レシートを受け取ろうとした私の手をマスターは優しく掴んだ。

「なぁ、百合子ちゃん」

マスターは私の目を真っ直ぐ見ている。

「淋しいときは、いつでも来なよ。ここが君のもうひとつの家だと思っていいんだからな」

マスターの言葉に、胸の奥がじんと熱くなる。視界が滲んでゆく。


「こっちのお店、全然慣れないよ」

「三年も経つんだ、いい加減慣れろって」

マスターが大袈裟にリアクションする。男の子がけらけら笑い出した。私もつられて笑ってしまう。こんなに笑ったのは久しぶりな気がする。久しぶりすぎて、なんだか涙が出てきそうだった。ありがとうございます、とぺこぺこ頭を下げて、カフェを飛び出した。車を走らせると、さっきまで我慢していた嗚咽が狭い車内に零れ出す。この涙は悲しい涙じゃない。嬉し泣きだ。


 一実くんと再会したのが良かったのかは分からない。だけど、今日ここに戻ってくることができたのは彼のおかげだ。だから今はただ、きっかけをつくってくれた彼に感謝する。



【続】






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