第19話 幕間~雅な楽の音

 うららかな初夏の風が気持ちよい。春の黄砂混じりの強風もおさまり、夏も蒸し暑さの前は良き季節である。晋公しんこうきょは楽人に安らぎの音を奏でさせながら、政堂の玉座に座っていた。六卿りくけいでおらず、かしこまる必要も無い。脇息きょうそくにのんびりと肘をあずけていた。

 コーン

 ゴーン

 リーン

 春秋時代の代表的な楽器、青銅器・編鐘へんしょうで作った打楽器である。太鼓というよりグロッケン(鉄琴)のような旋律打楽器に近い。大きさの違う編鐘へんしょうが音階順に並び、二人の楽人が木製のバチで叩き、透明度の高い神秘的な音楽が奏でられてく。儀礼の曲でなく、楽しむためだけのアンサンブルだった。

はこういったものを好まぬ。儀礼に外れよろしくないなどうるさい。周都しゅうとさえこの雅を楽しむというのに。なあ?」

 拠が近侍きんじたちに声をかけると、その通りでございます、と挨拶するものがほとんどだった。頷かず静かに黙っている近侍はじじいども――六卿に志しを同じくしているものであろう。それに頓着するほど、拠は心の狭い君主ではない。

 そこへ、一人の近侍が蒼白な顔をして政堂に駆け込んできた。彼は息を荒げており、歩かねばならぬ宮中を非礼にも走ってきたことになる。

「恐れながら申し上げます! 我が国がに、大敗したと……!」

 政堂は、一瞬静かとなった。その後、ざわめきはじめる。三軍さんぐん全てが出征して大敗。文公以降、三軍で負けたのは十八年前の対しん以来であるが、それも『士会しかいという晋人しんひとが亡命していたから』という言い訳ができた。しかし、今回は楚という南蛮に負けたのである。晋人としてこれ以上無い屈辱と、信じられないという驚きが政堂を包んでいた。

 が。

「それは我が軍からの報告か」

 拠は冷静であった。

「い、いえ……周王しゅうおうさまからの早駆けでございます」

 当時、えきという情報等を伝えていくための拠点がある。周はそれを最大限に駆使して、最も早く各国に知らせたのだ。しん敗績はいせきせり、と。

 拠は肩をふるわせたあと、笑い出した。近侍たちは晋公の精神に変調が起きた――つまり狂った――と思い、さらに動揺した。しかし、拠は狂ったわけでも動転したわけでもなかった。

「あれほどの偉容で進みながら、余の軍を大敗させ、しかも伝令も遅い! やはり林父りんぽげんが悪い。共に行かぬでよかったというもの」

 それはあまりにも冷たすぎる君主の言葉であった。近侍たちも戸惑わざるを得ない。だが、一部の近侍は察した。我が君は六卿を疎んでいるのだ、と。

「そのようであれば帰国も遅かろうよ。いや、人数が少なくなる分早いか? しかしまつりごとをいつまでも止めておくことはできぬ。日々のどうでもよいことばかりをしておけと言っておったが、そうもいかん」

 歌うように言うと、寺人じじん(事務などをする宮奴隷)に指図する。元々用意していたのであろう。この君主はこれが無駄にならなくてすんだとほくそ笑んだ。三軍が見事に勝ってこれば意味が無くなっていたのだから。

 寺人は木簡を広げて読み上げる。

屠岸賈とがんか膳宰ぜんさいのお役目から司寇しこうとする」

 近侍たちは屠岸賈という壮年に目を移した。屠岸賈は一瞬息を飲んだ後、震える声で

「私には責大きく務まりませぬ。どうか、ご経験ある長老の方々へ」

 と返す。拠は気を悪くした様子もなく

なんじは若くして霊公れいこうに見いだされ、代が替わっても十年近く膳宰をつつがなく務めてきた。膳宰は宴席の差配だけではなく生け贄の差配まで、細かな配慮が肝要。その汝だ、司寇となり、我が国へさらに尽くし務めよ」

 と言った。屠岸賈はさらに二度断ったが、拠は気にしない。これは、一種の様式美なのだ。一度で受けぬのがこの国の美徳とされている。

 屠岸賈は四度目に頷いた。こうなると出来レースのようであった。少なくとも拠はそう思っていたであろう。

 しかし、屠岸賈は仕方なく頷いたのだ。四度目に断れば本当の拒絶となる。そうして、君主の不興を買えば膳宰からも下ろされる。それは霊公の時代、趙宣子ちょうせんしなんとか掴んだものを手放すことになるのだ。

 司寇というのは、一言で言うと法に照らし合わせ罪人を捕まえ刑に処す役人である。法務大臣と警察庁長官、最高裁判所長官に刑務所長が複合し単純化したものと言って良い。膳宰は祭祀として重要な宴席や贄を用意する役人で、政治的な職能ではない。そうなれば屠岸賈は大抜擢といえる。

 しかし、屠岸賈は有能であるが安定を望む男であり、君主権を奪われた霊公や成公せいこうの宴席を滞りなく差配し、天への祭祀の贄を管理してきた。それでよい。良いはずなのだ。

屠氏としといえば、荀氏じゅんし先氏せんしと並びてきに対する三行さんこうを率いた右行うこうしょうだ。汝の丁寧な仕事ぶりには、この教えもあったろう。岸賈がんかの働き、期待しておる」

 拠の言葉は屠岸賈の奥底にある暗い炎を思い出させるに十分であった。中行軍ちゅうこうぐんを率いた荀林父じゅんりんぽは今や正卿せいけいである。左行軍さこうぐんを率いたのは先氏の傍系であり、先氏のおさ先縠せんこく中軍ちゅうぐん。どちらも六卿として国を動かし大きな富を抱える中、屠氏は細々と古い祭祀職を続けている。屠岸賈自身の恨みではない。である。

「かしこまりてございます。謹んで務めて参ります」

 屠岸賈は、少し重みのある声音で返し拝礼した。

 さて、拠はさらに寺人に読み上げさせる。

「正卿以外の六卿を謹慎に処す。いつまでかは追って沙汰する」

 この大敗で六卿は謹慎を申し出るであろう。それに拠は拝謁を許さねばならぬ。そうなれば、おらぬ間の指図をしてくるに違いない。拠は先手をうってそれを封じたのだ。

「岸賈よ。汝は己の格、身分など忘れ、職務に励め」

 最後、拠はそう言って朝政を終わらせた。屠岸賈はもちろん、近侍たちはみなわかったのだ。拠が六卿を粛正しようとしていることを。

 君主は六卿の人事権を持たない。

 君主は六卿に選ばれようやく玉座にあがれる。

 封建国家である晋の歪みである。

 晋公として、六卿のお情けで君主となった父を持つ息子として、彼はこの国を変えようとしていた。――表に立たず、裏から近侍たちを操って。

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