第八話:穢れの誘惑と、水鏡の訓練

水守みずもりのみやの宮での訓練は、美咲にとって肉体的にも精神的にも過酷なものだった。特に、滝壺で行う水の精密な制御『細糸(さいし)』の訓練は、美咲の心のわずかな揺らぎを許さなかった。


美咲が、清浄な水流を一本の糸のように細く保とうと集中するたび、どうしても怒りや絶望が混じる。そのたびに水は乱れ、霧となって美咲の全身を叩きつけた。


「感情は力だ、龍神様。だが、力は制御されてこそ意味を持つ!」じんが岩の上から厳しい声を上げる。「憎悪や悲しみを、ただの熱にするな!刃に変えろ!」


美咲は唇を噛み、再び集中した。全身に負った打ち身の痛みよりも、自分の力が制御できないことへの苛立ちの方が大きかった。


その夜。


美咲が眠りについて間もなく、自室の窓の外にある池が、美咲が宮に来て以来、まがつ津の精神攻撃によって続いていた黒い濁りをさらに深めた。


幹部・禍津まがつによる、美咲への本格的な精神攻撃が始まったのだ。


美咲は夢を見ていた。それは、彼女が高校生だった頃の、日常の幸せな記憶だった。廊下で一葉いちようが美咲に優しく笑いかけ、「松永、今日のテスト、難しかったな」と話しかける声。家族が揃った食卓で、「美咲、おかわりいるか?」と笑う母の声。


しかし、その記憶は急激に変容する。


笑いかけていた一葉いちようの顔が、第五話で見たくのかいノ会の憎悪に満ちた顔に変わり、「災厄の器。お前のせいで、僕の命は短いんだ!」と叫ぶ。楽しかったはずの食卓は、第三話で見た罵声とトマトが飛び交う光景に変わり、母が「あんたは化け物だ!」と叫び、包丁を突きつけてくる。


美咲の意識に、禍津まがつの声が直接響く。


『見てみろ、松永美咲。お前の愛した日常は、お前を拒絶している。お前は穢れだ。お前が持つ力も、お前の心も、すべてが汚い』


美咲の心臓は激しく鼓動し、冷や汗が全身を濡らした。


翌朝。


美咲は疲労困憊のまま、みそぎが担当する精神の訓練『水鏡(みずかがみ)』に向かった。滝壺に座り、水面に自分の顔を映し、心を平静に保つ訓練だ。


「昨夜、禍津まがつの精神攻撃があったようですね。池の濁りが深くなっている」みそぎは穏やかに言った。「禍津まがつはあなたの心の穢れ(けがれ)を餌にする。心が乱れれば乱れるほど、彼の力は増大します」


「穢れ…」美咲は水面に映った自分の顔を見た。その顔は、昨日よりもさらに憔悴している。


みそぎは続けた。「その穢れとは、あなたの中にある『憎悪』です。日常を奪ったくのかいノ会への憎しみ、力を制御できない自分への苛立ち、そして、あなたを拒絶した家族への諦め。それが水に映り、力を濁らせる」


美咲は、水面に集中した。そして、意を決したように、水面に触れることなく、水面に映る自分の顔を歪ませた。彼女の表情は、一瞬、泣き出しそうになりながらも、すぐに強い意志で固定された。


美咲が水面から手を離すと、水面に映る彼女の顔は一瞬だけ微笑んでいるように見えたが、すぐに元の静かな水面に戻った。


みそぎは目を見開いた。「…これは!」


「細糸(さいし)はまだできない」美咲は立ち上がった。「でも、心で水を動かす感覚が、一瞬だけ分かった気がする」


それは、美咲が『絶望』や『憎悪』とは別の、ポジティブな感情(あるいは、強い意志)によって、初めて力をコントロールできた瞬間だった。


「…素晴らしい。龍神様。その感覚こそが、穢れを清める力の片鱗です」


美咲は、清浄な水の入った竹筒を飲み干した。彼女の新しい装束が、朝の光を受けて微かに輝いた。


訓練はまだ始まったばかり。だが、美咲は確かに、叢雲むらくもが送り込んだ精神攻撃に対し、初めて明確な抵抗を示したのだった。

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