第六話:水の穢れと、覚悟の欠片

夜明けと共に、美咲とじんは「みずもりのみや守の宮」へと戻ってきた。美咲は、割れた窓から逃げた際に擦りむいた腕を抱え、荒い息をついていた。


「龍神様、ご無事ですか」


門で待っていたみそぎは、美咲の無事を確認すると、安堵の表情を見せた。美咲は何も答えず、そのまま自室へと向かい、布団に倒れ込んだ。


じんみそぎに報告する。「禁呪法使いと接触しました。龍神様は、バケツの汚水で水圧(すいあつ)を使おうとしましたが、予想通り力は機能しなかった」


「そうでしょう」みそぎは静かに頷いた。「彼らは、千年間、龍を封印し続けてきたくのかいノ会の末裔。龍の力を最も恐れ、同時にその弱点を最もよく理解している。彼らの目的は、貴方を殺害し、叢雲むらくももろともこの世界から龍の因縁を断ち切ることです」


じんは悔しそうに拳を握りしめた。「だが、あのままでは、龍神様は自分の力を呪うばかりだ」


美咲が自室でうずくまっていると、みそぎが清浄な水が入った竹筒を持って現れた。


「これを飲んでください。龍神の力は清浄な水と共鳴します。心身を整える必要があります」


美咲は竹筒を受け取るが、すぐに吐き出すように顔を背けた。


「水なんて、いらない」美咲は憎しみを込めた声で言った。「私の力は、私を助けてくれなかった。彼(一葉いちよう)から逃げ出すことすらできなかった。あの汚い水と同じで、私の力は無力だったんだ」


みそぎは、美咲の言葉を一言も遮らず、静かに話した。


「龍神様、あなたの力は無力ではありません。ただ、この世界が穢れているだけです」


彼は美咲を連れ、窓の外の、禍津まがつの精神攻撃により黒く濁った池を見せた。


「水龍の力は、清浄(せいじょう)を極めた力。ですが、千年前に叢雲むらくもと戦い、その力を大地に散らしてしまった結果、この世界の水脈は、彼の穢れと、くのかいノ会の祖先が使った禁呪の代償によって、わずかながらも汚染されています」


みそぎは竹筒の清浄な水を池に注いだ。すると、注がれた一点だけが、瞬時に透明な光を放ち、周囲の黒い濁水を弾き出した。


「あなたが学校で使った水は、生活の穢れを溜め込んだ水。穢れは力を減衰させる。これは、叢雲むらくもの勢力が仕掛けた巧妙な罠の一つです。清浄な水を扱う者、その心が穢れれば、力は濁る」


美咲は、自分の感情(絶望、憎悪)が、そのまま自分の力を蝕んでいることを悟った。自分の心と、世界そのものが、自分自身を拒絶している。


「…じゃあ、私は、どうすればいいの」


「あなたの心を清め、力を磨くことです。そして、この世界を覆う穢れを、一つ一つ清浄に変えていく。それが、水龍に課された使命です」


その夜、美咲は眠れなかった。


もう、一葉いちようとの思い出も、碧斗あおととの友情も、そして家族の暖かさも、すべてが過去の残骸となってしまった。学校に行ったことで、その現実を突きつけられたのだ。


(もう、帰る場所はない)


美咲は、窓の外の、濁った池に映る自分自身を見つめた。その瞳には、まだ涙がにじんでいるが、微かに強い光が灯り始めていた。


「…わかった。訓練する」


美咲は小さな声で、しかしはっきりと呟いた。


「普通の高校生に戻る、という望みはもう叶わない。なら、私はもう、松永美咲じゃない」


絶望の底で、美咲は初めて、龍神としての使命ではなく、自分の生き残りのために、力を受け入れる覚悟の欠片を見出した。彼女の無意識の力は、ここから、『感情の暴走』から『力の制御』へと、新たな段階へ進み始める。

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