第四話:清浄と絶望の隔離

美咲が連れてこられた神社は、街外れの山奥にあった。そこは、千年間、水龍の臣下が代々守り続けてきた結界に守られた聖域だ。


「ここが、我々の拠点となる『水守のみずもりのみや』です」


みそぎは美咲に、簡素ながらも清浄な空気に満ちた一室を与えた。美咲の窓からは、黒く濁り始めた池が見える。あれは、禍津まがつによる精神攻撃の痕跡であり、美咲の心そのものの映し鏡だった。


「…帰りたい」


美咲は、布団の上で膝を抱え、ただそれだけを繰り返した。


「龍神様」


じんが、いつもの熱血漢らしい厳しさで切り出した。「嘆いている暇はありません。叢雲むらくもの勢力は、あなたが感情の揺れで力を暴走させるのを待っている。我々には、あなたが戦えるようになるまで、強制的に訓練する義務がある」


「訓練なんて、いらない」


「いります!」じんは珍しく声を荒げた。「今のあなたは、その力を制御できず、自分の命だけでなく、世界そのものを危機に晒す災厄となりうる。我々はそれを阻止せねばならない!」


その言葉に、美咲は顔を上げた。「災厄……そうだよ。母さんにも、近所の人にも『化け物』だって言われたんだ。もう、私には居場所なんてない」


みそぎが静かに口を開いた。「あなたは、龍神の使命を果たす必要はないかもしれません。しかし、生きるためには、力が必要です。龍を断罪することを使命とするくのかいノ会の禁呪法使いが、あなたの命を狙っていることは理解しているでしょう?」


その日から、美咲の強制的な訓練が始まった。


じんは美咲を連れて、神社の裏にある清らかな滝壺へと向かった。


「訓練の第一段階は、『水写すいしゃ』だ。意識を集中し、あなたの心を水に映し、その水に触れる感覚を記憶する」


美咲は水に手を浸し、目を閉じた。集中しようと努めるが、頭の中には母からのメッセージ、一葉いちようの冷たい横顔、そして日常を失った絶望が渦巻く。


(憎悪?絶望?…そんなもの、あなたたちが私から全部奪ったくせに!)


その感情の乱れが、美咲の手を浸した滝壺の水を、激しい水圧で美咲に向かって噴き出させた。


「ぐっ!」


水圧は美咲を叩きつけ、岩にぶつけた。じんはあえて助けず、その様子を観察した。


「駄目だ、龍神様!感情に支配されすぎている!水は、清浄な力を宿すものです。あなたの心に憎悪や絶望がある限り、その力はあなた自身を傷つける!」


美咲の心は、訓練への抵抗と、自分を『保護』と称して隔離する臣下への激しい怒りに満ちていた。訓練は一向に進まず、美咲の肉体には水圧による小さな内出血の跡が増えていった。


その夜。


美咲は、自分が持ってきたボロボロの学生鞄を開けた。中には、参考書、使い慣れたペンケース、そしてクラスメイトとの集合写真。


(もう、私の居場所はここじゃない。でも、まだ…まだ、学校に行けば、全部元に戻るんじゃないか?)


美咲の理性は「無理だ」と叫んでいるが、心は日常という幻影に強く囚われていた。


美咲は立ち上がった。窓の外の池は、禍津まがつの精神攻撃により、さらに黒く深く澱んでいたが、美咲はそれに気づかないふりをした。


「龍神様、どちらへ?」


静かに見張っていたみそぎが、美咲の前に立ち塞がった。


「…少し、散歩に」


「ご無用です。この場所は結界で守られている。外に出れば、あなたはすぐにくのかいノ会、あるいは叢雲むらくもの幹部に見つかる」


「関係ない。私、まだテストの範囲、貰ってないから…学校に、行きたい」


美咲の目は、切実な日常への最後の執着を湛えていた。


みそぎは静かに美咲を見つめた後、ため息をついた。


「…あなたの日常は、すでに家族との縁が絶たれた、あの夜に終わっています。ですが、その執着を断ち切らねば、訓練も進まないでしょう」


みそぎは、神社の門の方へ美咲を促した。


「行ってもいい。ですが、じんは同行します。もし、学校でくのかいノ会と接触し、戦闘になった場合、その時のあなたの判断こそが、あなたの運命を決めます」


美咲は頷いた。鞄を固く握りしめ、美咲は神社を後にした。彼女が向かう先は、初恋の相手が待ち構える、日常が崩壊した後の学校だった。

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