雪に埋もれた真実

奈良まさや

第1話

🔳第1章 山小屋の夜


雪は、止む気配を見せなかった。


稜線は闇と白の境を失い、世界の輪郭そのものが溶けていく。風の唸りだけが、時間を刻む音になっていた。


薪ストーブが、パチ、と弾けた。


炎の赤が、部屋の隅に映る二人の影を揺らす。湯気を上げるマグカップが、テーブルに二つ。その片方を見つめながら、斉藤香織が言った。


「ねぇ、武さん。もし、私がいなくなったら——どうする?」


山際武は、苦笑を作った。笑うことで恐怖をごまかす癖があるのを、自分でよく知っていた。そんな彼の癖を、香織は最初に見抜いた人だった。


「何を言ってるんだよ、こんな時に」


「こんな時だから、だよ」


香織は微かに肩をすくめた。外の吹雪が、まるで扉を叩くように響く。その音に紛れて、彼女の声はいつになく穏やかだった。


ここへ来る途中、吐く息がもう白くならなかった。体温調節がうまくいかないのは、最近ずっとだ。医師からは「星細胞腫が再燃している」と告げられていた。進みは緩やかでも、治癒の見込みはない。ただ、静かに削られていく時間。


だから、今日が終わりの日だと決めていた。


「あなた、帰ったら、奥さんにちゃんと話してね」


「……なんの話だ?」


「“終わった”ってこと。私たちは、今日でおしまい」


武の胸が微かに波打った。香織は、終わりを正確に区切る人だった。その潔癖さに、何度も救われ、何度も怯えた。


「あなた、優しいけど、ずるい人ね」


香織の声は静かだった。刺すようでいて、慰めのようでもあった。武は反射的に否定しかけたが、その言葉を飲み込んだ。


「全部、自分が悪者にならないように、立ち回ってる。……そうでしょ?」


図星だった。武は、どんな場面でも”正しい側”に立とうとしてきた。妻に対しても、香織に対しても。だがそれは、誰かを守るためではなく、自分が傷つかないための「正しさ」だった。


「でもね、そんなあなたが好きだった」


その言葉には、静かな決別があった。


香織の心の中で、二つの感情が渦巻いていた。愛している。だからこそ——終わらせなければならない。このまま一緒にいたら、自分は彼を赦してしまう。赦したら、透が本当にいなくなってしまうから。


透。香織が愛した、もう一人の男性。一年前、雨の夜に黒い車に轢かれて亡くなった恋人。そして香織は、その車の持ち主が目の前の武だと信じていた。


香織はマグカップを唇に運んだ。ひと口、ふた口。まるで祈るように。


コーヒーの香りに、微かな異臭が混じった気がして、武は眉を寄せた。しかし、彼は口をつけなかった。立ち上がり、香織のカップに顔を近づけて匂いだけを確かめる。薬品めいた鋭い匂い。


——そこで、武は理解した。何かが入っている。


「香織——」


呼びかけは遅かった。


香織の体が、音もなく崩れ落ちる。白い息が、細く途切れた。


「香織!  おい、香織っ!」


武は叫び、彼女の頬を叩いた。反応はない。呼吸は浅く、体温が急速に失われていく。


その拍子に、ポケットから白い封筒が滑り落ちた。宛名には、丁寧な筆跡でこう書かれている。


《武さんへ》


震える手で封を切る。便箋には、一行だけ。


《あなたのせいじゃない》


武の胸の奥で、何かが反転した。助けることは、もうできない。ならば——自分を守るしかない。彼女の死を、誰にも踏ませないように。


武はバッグを開けた。薬瓶、手帳、封筒、便箋が几帳面に並んでいる。そして、ベッドの下にもう一通。『真実を知りたい方へ』。中には詳細な手記と、次の数行があった。


-----


《あの夜、雨の中で光った黒い車。

ナンバーの下二桁は56。

同じ車を、彼が持っている。

それが偶然であってほしいと、何度も思った。

けれど、どうしても信じられない。

山際武——彼が、私の恋人、透を轢いたのだと思う。

彼の優しさが、罪の意識の裏返しなら、

私はその罪を、彼に見せたい。》


-----


武の指が凍った。心臓の奥で、血が逆流するような錯覚。


——雨の夜。視界を遮るヘッドライト。何かに軽く接触した感触。ブレーキを踏まずに走り去った夜が、突然、現実に戻ってきた。


「……違う。俺は……気づかなかっただけだ。あれは、ほんの一瞬の——」


言い訳を口にした瞬間、自分の声が震えているのに気づいた。


香織の恋人。あの透という青年。彼の名を、妻の令子から一度だけ聞いたことがある。——「R&Yの販促で撮影していた若いカメラマン」。


令子は、透と業務委託契約を結び、事故の前にキーマン保険まで組んでいた。事故死の認定が確定すれば、多額の保険金が支払われる。しかし事故状況に不審な点があり、今も支払いは保留されたまま再審査にかけられている。


今思えば、あの夜からすべては始まっていたのかもしれない。


武はストーブの火を見つめ、ゆっくりと立ち上がった。机に向かい、筆記具を取る。香織の筆跡を思い出し、紙の上で呼吸を整える。


——この段階で、武はまだ何も口にしていない。手は、確かに動く。


便箋に、数行を書き足した。


《この事故に関しては、確証がない。

ただの憶測。

武の良心を信じたい。

透の死に他者の関与は見られない。》


文字を見つめながら、武は息を詰めた。“正しい側”に立つための、最後の手段だった。そうすることでしか、自分を保てなかった。


紙を元の封筒に戻し、封を閉じる。ベッドの下に滑り込ませる。


もう一通、机の上に置かれた封筒は、そのままにしておいた。《私は疲れました》——医師宛の形式を模した、香織の遺書だ。触れずにおくのが、正しいと思った。


部屋の中は、相変わらず風の唸りに包まれている。武は、窓の鍵、換気口、ストーブ周りを無言で見回した。指先で金属の冷たさを確かめる。何かを飲むことはしない。


ただ、この部屋が「二人で終わった夜」に見えるかどうかを、黙って整える。それは、香織の”設計”に自分の”構築”を重ねる、最後の仕事だった。


息が浅くなる。——緊張のせいだろう。


血の中で、彼女の意志と自分の呼吸が絡まりあうようだった。ストーブの火が一瞬、激しく燃え上がる。その炎の中に、香織の笑顔が見えた気がした。


「ありがとう、香織……」


武は微笑んだ。それは、悲しみでも愛情でもなく、受け継ぎの笑みだった。


「これで……全部、終わらせられる」


武は床に横たわり、静かに目を閉じた。雪の音が、遠くから拍手のように聞こえた。


しかし、武の予想に反して、彼の体は徐々に重くなり、意識が薄れていく。


——香織のマグカップから立ち上った蒸気。その中に混じっていた揮発性の薬物成分を、武は長時間吸い込んでいたのだ。直接飲まなくとも、密閉された山小屋の空気の中で、それは十分に効果を発揮した。


武の意識が完全に途切れる直前、彼は理解した。


香織は、彼を道連れにするつもりだったのだ。

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