第3話「神戸・A5ランクの嘘」
## プロローグ
神戸の夜は、光で溢れていた。
御厨凛は、三宮駅に降り立った瞬間、この街の「匂い」を嗅いだ。
港の潮風、異国の香辛料、そして――肉を焼く匂い。
神戸牛。この街の誇り。
凛は三秒間、目を閉じた。
味覚を研ぎ澄ませる。この街の「記憶」を読み取る。
――この街は、西洋と東洋が混ざり合っている。
ハイカラと伝統。新しさと古さ。すべてが共存している。
目を開けると、タクシーが待っていた。
「北野の異人館街まで」
凛は短く告げた。
車は坂道を登り、やがて洋風建築が立ち並ぶエリアに入った。
異人館。明治時代、外国人居留地として栄えたこの場所は、今も当時の面影を残している。
タクシーは、一軒のレストランの前で停まった。
「鉄板焼き 神戸屋」
看板には、そう書かれていた。
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## 第一章 SNSの女王
店の前には、すでに兵庫県警の車両が停まっていた。
凛は店内に入った。
鉄板焼きカウンター。八席。すべて高級な椅子。窓からは神戸港の夜景が見える。
「御厨さん」
声をかけてきたのは、兵庫県警の刑事、村田秀樹。五十代前半。鋭い目つきをしている。
「お待ちしておりました」
「村田さん、状況を教えてください」
凛は周囲を見渡した。
鉄板の上には、まだ焼き跡が残っている。
「被害者は、桐谷美咲。二十九歳。グルメインフルエンサーです」
村田は写真を差し出した。
華やかな笑顔の若い女性。スマートフォンを持ち、料理を撮影している。
「フォロワーは五十万人。彼女の投稿一つで、店の売上が大きく変わる」
「それで?」
「昨夜、彼女はこの店で神戸牛のステーキを撮影していました。そして、一口食べた直後――」
村田は言葉を切った。
「アナフィラキシーショックで倒れ、そのまま亡くなりました」
凛は鉄板に近づいた。
「アナフィラキシー? アレルギーですか?」
「はい。検死の結果、牛肉アレルギーの可能性が高いとのことです」
「牛肉アレルギー?」
凛は眉をひそめた。
「グルメインフルエンサーが、牛肉アレルギー?」
「実は、彼女は軽度のアレルギーを持っていたようです。普段は薬でコントロールしていた。しかし昨夜は――」
「薬を飲んでいなかった」
凛は頷いた。
「それで、店主は?」
「取調室で待機しています。田所敬介。四十五歳。この店のオーナーシェフです」
凛は村田を見た。
「彼に会わせてください」
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## 第二章 追い詰められた男
取調室には、一人の男が座っていた。
田所敬介。痩せた体つき。目の下に深いクマ。手は微かに震えている。
凛は彼を見た。
瞬間、すべてが見えた。
――この男は、追い詰められている。
肌の質感、目の下のクマ、手の震え。すべてが、ストレスを物語っている。
そして、口の中に"嘘の味"が残っている。
彼は何か、隠している。
「田所さん、初めまして。御厨凛と申します」
凛は椅子に座った。
「食の鑑定をしています」
田所は顔を上げた。
「……鑑定?」
「はい。今回の事件について、いくつか質問させてください」
凛は静かに始めた。
「昨夜、桐谷さんに提供した神戸牛は、本物ですか?」
田所の顔が強張った。
「……当然です。A5ランクの神戸牛です」
「証明書は?」
「あります」
田所は資料を取り出した。
神戸牛の証明書。個体識別番号、生産者、格付け。すべて記載されている。
凛はそれを手に取り、じっくりと見た。
「……この証明書、本物ですか?」
田所の手が止まった。
「何を言っているんですか?」
「答えてください」
凛は彼の目を見た。
田所は俯いた。
長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「……偽物です」
村田が驚いた表情を見せた。
「偽物? どういうことだ?」
田所は顔を上げた。
「私は――神戸牛を仕入れることができなくなったんです」
「なぜ?」
「桐谷さんのせいです」
田所の声が震えた。
「半年前、彼女は私の店を酷評しました。"神戸牛なのに感動がない"と」
彼は拳を握りしめた。
「その投稿のせいで、予約が激減した。売上が半分以下になった。従業員を解雇せざるを得なくなった」
「それで?」
「仕入れ先が、取引を断ってきたんです。"評判の悪い店には売れない"と」
田所は俯いた。
「私は――どうすればいいのかわからなくなった」
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## 第三章 ブランドという呪縛
凛は厨房に入った。
冷蔵庫を開ける。
中には、真空パックされた牛肉が並んでいる。
凛はそのうちの一つを手に取った。
パックを開け、肉を指で触れる。
温度、質感、脂の分布。
そして――匂い。
彼女は目を閉じた。
味覚と嗅覚が、同時に情報を送ってくる。
――この肉は、神戸牛ではない。
しかし――
品質は、極めて高い。
凛は目を開けた。
「村田さん」
「はい」
「この肉、鑑定に回してください。産地を特定してください」
村田は頷いた。
凛は厨房を出て、再び取調室に戻った。
「田所さん、昨夜桐谷さんに提供した肉――」
凛は静かに言った。
「鹿児島産ですね」
田所は何も言わなかった。
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## 第四章 最高級の偽装
翌日、鑑定結果が出た。
「鹿児島県産の黒毛和牛です。それも――」
鑑識員が報告した。
「最高級のA5ランクです」
村田が眉をひそめた。
「A5ランク? では、品質的には神戸牛と同等ということか?」
「その通りです。むしろ――」
鑑識員は続けた。
「このサシの入り方、肉質を見る限り、極めて優れた個体です」
凛は頷いた。
「田所さん」
彼女は田所を見た。
「あなたが使った鹿児島牛は、最高級の黒毛和牛だった」
「……はい」
「では、なぜ神戸牛と偽ったのですか?」
田所は長い沈黙の後、口を開いた。
「……客が、神戸牛を求めていたからです」
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## 第五章 脂の真実
凛は、村田と共に再び厨房に入った。
鉄板の前に立つ。
「村田さん、神戸牛と鹿児島牛の違いをご存知ですか?」
「いや、詳しくは」
「では、説明します」
凛は冷蔵庫から肉を取り出した。
「神戸牛の脂は、融点が約25度。人肌で溶けるため、口の中でとろける食感が特徴です」
凛は指で脂を触れた。
「一方、鹿児島の黒毛和牛は、融点がやや高い。約28度から30度」
「それは――劣っているということですか?」
「いいえ」
凛は首を振った。
「優劣ではありません。特性が違うだけです」
凛は続けた。
「融点が高い鹿児島牛は、肉の旨味と食感がしっかり残ります。赤身の味わいも強い」
「融点が低い神戸牛は、脂の甘みが際立ち、とろける食感が楽しめる」
凛は肉を見つめた。
「どちらが優れているか――それは、好みの問題です」
「どちらも、日本を代表する最高級の牛肉です」
村田は頷いた。
「では、なぜ田所さんは偽装を?」
「それは――」
凛は田所を見た。
「客が、"神戸牛"というブランドを求めていたからです」
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## 第六章 ブランド信仰の罪
凛は、田所と向き合った。
「田所さん、もう一度聞きます。なぜ、神戸牛と偽ったのですか?」
田所は俯いた。
長い沈黙の後、彼は口を開いた。
「……神戸牛の仕入れ先が取引を断った時、私は絶望しました」
田所の声が震えた。
「でも、客は神戸牛を期待している。予約も入っている」
「それで?」
「それで――信頼できる鹿児島の生産者に連絡しました」
田所は続けた。
「彼は、最高級の黒毛和牛を送ってくれました。A5ランク。血統も、飼育方法も、すべて一級品」
「私は、その肉を焼きました」
田所の目に、涙が浮かんだ。
「味は――神戸牛に決して劣らなかった」
「いや、ある意味では上回っていた」
彼は顔を上げた。
「でも、客は満足しなかったんです」
「なぜ?」
「"神戸牛"じゃなかったからです」
田所は拳を握りしめた。
「ある客が言いました。"この肉、本当に神戸牛? 味が違う気がする"と」
「私は――その時、気づいたんです」
田所は続けた。
「客は、味を楽しんでいるんじゃない。"神戸牛を食べている"という満足感を楽しんでいる」
「だから――」
「だから、嘘をつきました」
田所は涙を流した。
「鹿児島の最高級牛肉を、神戸牛として売りました」
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## 第七章 アレルギーの真相
凛は静かに言った。
「田所さん、あなたは桐谷さんが牛肉アレルギーを持っていることを知っていましたね」
田所の顔が青ざめた。
「……はい」
「そして、意図的に――」
「いいえ!」
田所が叫んだ。
「私は、彼女を殺すつもりはありませんでした!」
「では?」
「彼女のアレルギーは、軽度でした。神戸牛なら、問題なく食べられるはずだった」
田所は続けた。
「でも――鹿児島牛には、神戸牛とは異なるタンパク質が含まれています」
凛は頷いた。
「飼料と血統の違いから、微妙にタンパク質の構成が異なる」
「はい。そして――」
田所は俯いた。
「そのタンパク質が、彼女のアレルギーを引き起こした」
村田が立ち上がった。
「田所敬介、あなたを業務上過失致死の容疑で逮捕します」
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## 第八章 本物とは何か
事件から二日後。
凛は、神戸港の夜景を見ていた。
港に停泊する船。煌めく光。
彼女は、一人でベンチに座っていた。
手には、神戸牛のステーキサンドがある。
凛は三秒間、目を閉じた。
そして、一口食べた。
肉の旨味が、舌に広がる。
脂の甘み、肉の柔らかさ。
――これが、本物の神戸牛。
凛は目を開けた。
田所の言葉が、頭の中で繰り返される。
――客は、味を楽しんでいるんじゃない。"神戸牛を食べている"という満足感を楽しんでいる。
凛は空を見上げた。
「本物と偽物」
彼女は呟いた。
「鹿児島牛は、偽物ではない」
「ただ、"神戸牛"ではなかった」
凛は続けた。
「でも、人は"名前"に騙される」
「神戸牛という名前があれば、満足する」
「鹿児島牛という名前では、物足りなく感じる」
凛は目を閉じた。
「それは――誰の罪なのだろう」
消費者の罪か。
メディアの罪か。
それとも――
ブランドという、幻想の罪か。
凛は目を開けた。
答えは、まだ見えない。
しかし、彼女は気づき始めていた。
――本物とは、名前ではない。
本物とは――
作り手の誇りと、食べる者の心が、出会う瞬間にある。
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## エピローグ
ホテルに戻ると、スマホに新しいメールが届いていた。
差出人不明。
件名は「高山の山奥で、守られてきた"掟"が破られようとしています」。
凛は画面を見つめた。
そして、三秒間目を閉じた。
――また、誰かが秘密を守ろうとしている。
彼女は目を開け、予約サイトを開いた。
次の目的地は――岐阜、高山。
山の中の、秘境。
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翌朝、凛は神戸を発つ前に、もう一度「鉄板焼き 神戸屋」の前を訪れた。
店は閉まっていた。
窓に、「閉店のお知らせ」が貼られている。
凛はそれを見つめた。
――この店は、もう開くことはないだろう。
田所は逮捕され、店は失われた。
そして、桐谷美咲も、もういない。
凛は振り返った。
神戸の街は、今日も光に溢れている。
しかし、その光の中で――
誰かが、嘘をついている。
誰かが、ブランドを信じている。
そして、誰かが――
壊れていく。
凛は歩き出した。
次の街へ。次の事件へ。
――本物を探す旅は、まだ終わらない。
---
【第三話 完】
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