SIREN×NOISE~ヴァルハラの子供たち

宵宮祀花

壱章◆エインヘリヤル選別試験

崩れ去る日常

 いつもと同じ朝。

 いつもと同じように授業を受けた。

 先生に指されて教科書を読んだり、わけのわからない数式を解いたり。黒板の上にかかってる時計を見ながら、お昼までのカウントダウンを頭の中でしてみたり。

 昼休みのチャイムが鳴った瞬間、わたしだけじゃなく教室中の空気が緩んだ。皆の顔を見て、先生が苦笑する。いつも通りの日常。

 こんな当たり前の日々が崩れるなんて、いったい誰が想像出来ただろう。


 これは、わたしが体験した、最初の悪夢の物語。

 そして、わたしが決別する、最後の日常の物語。


 * * *


 昼休みを告げる鐘の音が学校中に鳴り響き、各教室からガタガタと椅子を引く音が教室内に届けられる。生徒たちの期待の眼差しを受けた授業担当教師が、苦笑しつつチョークを置いて「今日は此処まで」と言うと、クラス委員が号令をした。

 卯佐美月愛うさみるなは教師の退室と同時に背後を振り返り、那佐美月なさみつきに話しかけた。


「ねえ、今日は購買パン屋さん来る日だよね?」

「うん。なんかついでに買ってこようか?」

「やった! クリームメロンパン残ってたらほしい! なかったら何か甘いの適当に一個お願いします!」

「任せて! 行ってくるねー!」


 左手に持った財布を高らかに掲げ、美月は一階の購買へ走って行った。

 毎週火曜と木曜は、高校の近所にある個人経営のパン屋が購買の一角に店を開く。焼きたてのパンが直売されるとあって混雑するのだが、バーゲンセールような芋洗い会場を、歴戦の店員は物の見事に捌いていく。

 授業終了時刻の差で多少出遅れた美月も、月愛に頼まれたクリームメロンパンと、自分用の焼きそばパンとチョコクロワッサンを無事購入することが出来た。購買横の自動販売機で缶の紅茶を買って、階段を上っていく。四階と一階の往復は億劫だが、これから摂取するカロリーを思えば何のことはない。


「ただいまー! 買えたよ!」

「お帰りメロンパン!」

「ちょっとぉ!」


 笑いながら席に着き、美月が月愛の前にクリームメロンパンを置いた。その手に、月愛が流れるように二百円を載せる。実店舗で買うと二百三十円のそれは、学生割も兼ねた『余分なおつりを出さない割』が適用されている。そのこともまた人気を加速させているのだ。


「毎度ありっ」


 受け取った小銭を財布にしまい、アルコールティッシュで手を拭いてから、美月はまず焼きそばパンの袋を開けた。ソースの香りがふわりと解放され、みぞおち辺りが早くそれを寄越せと急き立てる。思い切り齧り付けば想像通りの味が口に広がって、思わず口元がほころんだ。


「やっぱ圓月堂さんのパン美味しい」

「お店に買いに行くと三千円くらい一瞬でとけるよね」

「わかるぅー」


 惣菜パンに菓子パン、食パンにバゲット、マドレーヌや甘食など。種類も豊富で、見ているだけで胸が躍る。店仕舞いが早いため、学校帰りに寄るには部活のない日でなければならず、そういった意味でも滅多に行けないパン屋である。


「今日は先生部活に来ないといいなぁ……一生自主練していたいわ」

「あー……あの人マジおかしいよね。指導のためとか言うけど普通に暴力じゃん? 訴えたら勝てるんじゃない?」

「ほんとそれ」


 憂鬱そうに言いながら、月愛はクリームメロンパンを囓る。

 月愛と美月は吹奏楽部に所属しており、現在は地区大会を目指して練習中である。音楽大学出身の顧問を筆頭に日々研鑽を積んでいたが、その顧問が交通事故に遭って入院してしまい、代わりに最上もがみという教師が新たな顧問となった。

 それからというもの、楽しかった部活は地獄へと変貌した。

 新たな顧問は意味も無く生徒たちを罵倒し、手に持った楽譜や楽器で頭や顔を殴るなどの体罰まで行う始末。音楽に携わる者として、あり得ない行動だ。

 月愛と美月はまだその対象になったことはないが、やたらと執拗に責められている生徒が何人か居り、そのうちの一人は友人に部活を辞めたいと相談していた。

 更にこれらの体罰は部活内だけに留まらず、選択授業の音楽でも行われているとの噂があった。月愛も美月も選択授業は美術を選んでいるため、此方はあくまで音楽を選んだ生徒からの又聞きではあるが、私怨から大袈裟に吹聴している生徒もいくらかいるにせよ、恐らく大半が事実なのだろうと思う。


「はぁ……マジでダルい」

「ちょっと前までは楽しかったのにな……」

「あたしはアイツとほぼ同時期に来たから前の顧問って知らないんだよね。その人はまともだったんだ?」

「うん。厳しいけどがんばったら褒めてくれるし、いい先生だったよ」

「マジかぁ……」


 机の上に溶けたままの格好で、美月がぼやく。

 市内の他校と比べて校則が緩めなこの天都東高校でも珍しい、薄水色のメッシュを入れた綺麗な白髪が、はらりと顔にかかった。やわらかなサイドバングを月愛が指で梳いて耳にかけてやれば、美月は擽ったそうに肩を震わせる。


「美月、折角のお団子崩れちゃうよ」

「そしたら月愛が結ってくれるでしょ?」

「もー」


 言っている傍からハーフアップに結ったお団子を解き、髪ゴムを月愛に手渡した。月愛は「仕方ないなあ」と言いながらもうれしそうに、親友だけに許された髪結いの特権を両手で享受する。

 月愛はこの時間が好きだった。美月は人懐っこく見えて案外パーソナルスペースが広い。他者とのコミュニケーションは積極的に取るが、体には決して触れさせない。

 一ヶ月前に転入してきてからというもの、美月は持ち前の明るさであっという間にクラスに馴染んだ。けれど髪に触れることが出来るという特権は、いまのところ月愛ただ一人にのみ与えられている。


「次移動だっけー?」

「科学実習室じゃん、ダルすぎ」

「そっち次体育じゃなかった? まだ食ってていいの?」

「やっべ、忘れてた! しかも第二グラウンドとか遠すぎ」

「五時間目くらい教室で寝ていたいんだけどー」


 昼休みも残り僅かとなった頃。クラスメイトたちの話題は自然と次の授業内容へと移り始める。何とかしてサボれないか画策する者や、既に眠気を覚え始めている者、教科書類を纏めて早めに移動しようと席を立つ者などがいる。

 月愛もそろそろ食べ終えたゴミを纏めて、次の授業へと備えることにした。

 間もなく予鈴が鳴る。

 時計の針が一つ進む。


 カチリと、微かな機械音がした。


『これより、エインヘリヤル選別を行う』


 耳障りなノイズと共に、放送のスイッチが入るブツリという音が聞こえて。

 顧問の声だ、と思ったそのとき、錆び付いた鐘のような割れた音がスピーカーから爆音で流れた。


「え、な、なに?」

「うわ、うるさ!」

「ねえ、さっきなんて言ってた!?」

「何なの!? ちょっと、放送部!」

「あたしもこんなの知らない! 聞いてないよ!」


 困惑が教室内を満たす。

 ひび割れた鐘の音は幾重にも重なり合うように鳴り続け、徐々に音量を、音圧を、聞くに堪えないレベルにまで上げていく。生徒たちは頭を抑えて蹲り、誰かが震える声で「止めて……」と零した。籠もった呻き声が複数人から漏れる。誰かがガタンと激しい音を立てて、椅子から転げ落ちた。

 暫し立ち尽くしたまま呆然としていた美月だったが、ふと我に返り自分のすぐ前にいるはずの友人を見た。


「月愛っ!」


 月愛も皆と同様に頭を抱え、涙を零しながら蹲っていた。そしてその手が、徐々に異形のそれへと変化しているのを見て、美月は漸く音の正体を理解した。

 だが、全てが遅かった。


「きゃあああああ!?」


 教室の外から悲鳴が上がる。

 カマキリのような腕を持った男子生徒が大鎌と化した腕を振り回しながら、廊下を駆け抜けていくのが見えた。カマキリ男子に四肢を切られて倒れた生徒の流れる血に触れた別の生徒が、突然喉を押さえてのたうち回った。恐慌状態に陥っている生徒の周囲が、なにかに押し潰されたように凹んでいる。その場にいた生徒も机と椅子も、なにもかも巻き込んで。焦げ臭い臭いがしたかと思えば全身燃え上がっている生徒がパニックになって暴れたために、他の生徒にも燃え移って地獄の様相と化していた。

 せめて月愛だけでも守ろうと、美月が手を伸ばす。だがその手は、パニック状態で泣きながら振り回された彼女の手によって弾かれてしまう。


「っ……!」


 痛みで一瞬怯んだその隙に、ヤマアラシのように全身を鋭い棘で覆った男子生徒が月愛に襲いかかった。


「いやああっ!!」


 泣き叫ぶ月愛の腕が、獣の爪を纏う。

 大きく振り払われた鋭い爪が、男子生徒の首を切り裂く。

 吹き出す血が、まるでカーテンのように目の前を覆って――――月愛は目を見開き赤く染まる教室を瞳に焼き付けながら、フッと意識を失った。

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