二十二.謀

「その伊吹の男の話を少し――」

 老翁はやや重く口を開いた。


「あくまで人伝ひとづて、記録の話です。私が見た訳でも何でもありまへん」

 老翁は、徐に無表情で話し始める。

「元は伊吹山麓の柏原荘の出自やと伝わってます」


 老翁は言葉を繋ぐ――。


 柏原荘園荘官に嫡男が産まれた。

 赤子の肌が赤いのは当たり前だが、この子の背中には血そのもののように赤く丸い痣があったという。


 赤子が不幸だったのは、その身体的な特徴ではない。

 父親である荘官はなかなかに粗暴な男であり、領内を暴力と恐怖で治めていた。

 領民から懇願された妻と義父が結託して、強かに酔った荘官を縛り上げた。領民から暴行を加えられ、さてその生命も終わりかというところで、涙ながらに生命乞いした。

「この者の生命獲るのは容易いが、それをすれば近い将来この荘によくないことが起こるだろう」

 偶々居合わせたという修験者の助言もあり、生命を奪るまでもないだろうという領民の温情も相俟って、荘園から追放される形で、荘官は生命拾いをした。

 童は不幸にも、この時父親と共に里を追われることになった。産まれ持った痣が気味悪がられたせいもあった。幼子を抱えた状況であれば、荘官も身軽に動き回ることはできぬだろうという、荘官に対する足枷の意味もあった。

 こうして父子は里を追われ、伊吹山に棲み着くことになった。


 伊吹に棲み着いた元荘官が大人しくなることはなかった。寧ろたがが外れたように、日常的に悪事を働くようになった。

 通行人を襲い、金品や衣服、食糧を強奪する暮らし。物心ついた頃からそれを日常として育った童もまた、幼い頃から父の生業を手助けした。

 童が初めて人を殺したのはまだ六歳にもならない頃であった。強奪の中で刃向かおうとする者を容赦なく斬り殺す父を見て育った童は、必然人を殺すことに何ら躊躇いはなかった。


 父の死後、この童は自らを「朱点」と名乗った。十五歳になるやならぬやの頃だった。その頃から彼の凶暴振りが露わになった。

 父子を追放した柏原荘をひとりで襲い、村人十数人を惨殺したのを手始めに、次々と近隣の里を襲撃した。

 麓の村々を襲撃するだけでなく、東国に赴任する役人や、都に向かう者を襲うことも度々。身包みを剥ぐどころか、女であればその躯を散々弄び、気に入れば根城に囲う。気に入らない女や男は生きたまま内臓を抜き、食肉にしたという。


 流石にこの噂は都にも届き、調伏の命が下され、藤原保昌の父致忠が、伊吹に遣わされた。

 致忠率いる討伐隊はこの鬼畜の男をもう少しで捕らえるところまで追い詰めたが、伊吹山を庭のようにして生きてきた男故、これを取り逃がしてしまった。

 男の棲処からは、逃げられないように片脚をもがれた女が三人と、その子らが八人見つかった。傍らには人骨が山のように積まれていたともいう。


 男は東に逃げたと見えた。致忠は直ぐに人を集め、揖斐川を東に渡ろうとする者の顔検かおあらためを行ったが、それらしい者は見つからない。東から伊吹に向かって山狩りを行っても、怪しい人物も屍も骸も見つからなかった。

 討伐隊は、元荘官の倅は獣に喰われたか、揖斐川上流辺りで脚を滑らせ、そのまま流されたのであろうと結論づけ、捜索を終わらせた――。




 綱も公時も極悪人とされる輩の逸話は相当に耳にしてきている。鬼畜とされるような者も何人かはいた。実際にそういう輩と対峙したことも何度もある。

 然し、そういう連中について語られるはなしは、滅多矢鱈と尾鰭ばかりがくっついた虚言とも言える話になっているのが常だった。

 話半分――。としても、老翁が語った伊吹の朱点という男は、ふたりの知る中でも相当に鬼畜の部類と見えた。


 伊吹の朱点が、事情は兎も角生き延びて都に流れ着き、大枝を根城として野盗紛いのことを繰り返した、というのが筋書きだろうが、にしては実際に大枝の隠れ里で対峙したあの男とは印象が違いすぎた。


「確かに、その伊吹の朱点と我々が大枝の里で逢うた朱点とはまるで別人のようです。大枝の男は確かに眼光鋭く、己の信ずるもの為には人の道を外すことも厭わないような印象でした。会話も知的で、彼なりの信念が見えた。朝廷にとっては極悪人だったのでしょうが、過去に相見えた悪人と呼ばれる者達とは為人ひととなりが異なるように思えました」

 綱は静々と言った。

「ほう。興味深い」

 老翁は眼を開いて綱の言葉を追う。

「一方で、今し方伺った伊吹の男は、私の知る悪人の中でも際だって鬼畜の度合い甚だしい。恐らく膂力も強く、豪腕にして凶悪な男だったのでしょう。然し、その行動は獣そのもの。己の欲望と本能で周囲を陵辱し破壊する質の者のように見えます」

「知性は感じられませんか?」

「相当に狡猾だとは思いますが、知的ではない印象です。生き残る為の勘が鋭い……というところでしょうか」

「ふむ。印象が違い過ぎる、と?」

 老翁はにやりと笑った。

「はい。但し根拠があることではございません。単に私が受け取った印象の話……でございます」

「ふむ。それはそれで興味深い」

 老翁は顎を撫でた。


「公時はんはどうですか?」

「私は大枝の朱点と膝詰めて話した訳ではありませんから、綱殿程ではありませぬが、確かに今伺った朱点と大枝の朱点が同一の人物であるようには思えませんでした」

「ほう、公時はんもそう思いましたか?」

「事実は如何なのでしょうか? 伊吹の朱点が都に逃れ大枝を根城にした、という単純な話ではないように思いますが……」

 公時はじっと老翁の眼の奥を覗き込んだ。

「どうですやろな」



「そろそろ、私も襤褸ぼろが出そうな雰囲気になってきたんで、ぼちぼちおいとまさせてもらいますわ」

 老翁がゆっくりと立ち上がった。

「公時はんはまあ、ゆっくりしていってください」

「忝い」

 公時は小さく辞儀をした。

 老翁は音も立てずにすっと入り口まで進む。

 小さく頭を下げ、そのまま辞すかと思った刹那、くるりと振り返った。

「ああ、公時はん。いっこ忘れてました」

 思えば、老翁は公時に話したいことがあるとは言っていた。今までの話がその話したいこととは思いにくい。

「公時はん、いて損取るが出てますよってに、ちょっと用心したほうがよろしいよ。それを言おうと思うてたのに忘れてました。ほな」




 晴明が蔵を出るのを見届け、綱も公時も深く溜息をついた。余程集中していたのか。頭の先から爪先にまで痺れたような感覚がある。手足が言うことを聞かない。

「翁の話、どう思われた?」

 公時がほぐすように首を回しながら口を開いた。

「話と言っても、どの部分だろうか?」

 綱もまた肩をぐりぐりと回して己を取り戻そうとする。

「まあ、こちらが追いつかないぐらいに、いろいろ話されていかれたなあ……」

 公時が少し笑った。呆れ笑いか。

「最期の言葉の意味もよく判らぬ。私のことを占ってでもおられていたのだろうか?」

「まあ、気に病むほどのことでもあるまい」

「端から気になどはしておらぬわ」

 公時は声にして笑う。


「然し、どれをとっても嘘なのか真なのか。どこまで話を造っているのか。よく判らないのが翁の特徴なのだろう」

「兎に角はぐらかされる……」

 綱は天を仰いだ。

「然し、『襤褸が出る』とも言っておられた。ということは、翁が諸々謀り事を巡らせていたということだろうか?」

「どうだろうか? 翁の話はどうにも霞の中を歩くようで要領を得ない」

 綱は首を振った。

「違いないな」

 公時は笑う。



「して、綱殿はどうされる?」

 公時は屹と綱を凝視みつめて問うた。

「どう、とは?」

「安倍晴明という人物が信用に足るかどうかという話だ」

 公時は声を顰める。

 綱は少し考え込む様子を見せながら、公時の表情を読む。公時は明らか、安倍晴明という人物を信用していないと見える。

「信用に足るかどうかということで言えば、否だ」

 その表情に僅か安堵を覚えながら、きっぱりと言う。

「うむ。私も同じだ」

 公時は、秘事を明かすかのように言った。公時のその言い様に、綱はくすりと笑う。

「何が可笑しい?」

 公時は怪訝な顔を見せた。

「いや、公時は既に顔で『あの男は信用ならぬ』と言うておったもんでな」

「真面目な話で笑うか?」

 公時は不貞腐れる。

「すまぬな」

 猶も綱の破顔は止まらない。

「まあよいわ」

 公時も笑う。


「いずれにせよ……」

 綱は襟を正すように言う。

「大枝の件、晴明殿が大きく関わっているとして、翁なりのなにがしかの狙いと信念があってのことだとは思うが、天下太平を脅かす極めて危うい行動を取っていると考えざるを得ないのは事実」

「大枝の件、晴明殿が関わっていたという前提。あくまでも推察の話ではあるが……」

 公時が言葉を添える。

「うむ。あくまで推察ではあるが……」

 綱は鸚鵡返しに呟く。推察とは言え、状況から言えば大枝の件に晴明が関わっていたことを否定する材料はない。

「いずれにせよ、信用足る存在であると言い切ることができぬのが事実」

 綱は厳しい眼で髭切丸と木箱を見遣った。

「お館様や道長公は大枝の件、どこまで理解されておるのだろう?」

 公時が思い出したかのように疑問を口にした。

「そこも判らぬところよ」

 綱は主頼光の柔和な笑顔を思い浮かべながら、蔵の天井を見上げた。

「判らぬ」と言いながら、綱は頼光は勿論のこと、道長も晴明に踊らされただけと推察する。

 大枝に棲む朱点討伐が勅命として下された以上、天子や朝廷は大枝に棲む者は朱点であると見做したということ。

 それが謀りであることを知った上で道長は勅命を求めた、そんなことがあり得るだろうか。

 道長の性質はよく知らぬが、天子に対する忠義は強いと聞く。その天子に余程の得があるような状況でなければ、嘘を知りながら天子を謀るなどということはあるまい。


 頼光については、予てより晴明と付き合いがあった様子はない。

 人の佳い頼光のことだ。晴明に切に懇願されでもすれば、協力するのはやぶさかではないだろう。

 然し、道長や天子を謀るようなことになると知ったとしても猶堂々と策を遂行できる程不忠義でもなければ、そこまで肝が据わっている訳でもない。


「此度の件も、晴明殿が関わっておられる様子だった」

「うむ」

 公時の言葉に綱は大きく頷いた。

「関わっておられた、と言うよりも、私は端から晴明殿が仕組んだ策に、綱殿が嵌め込まれたというように思えるのだが……」

「晴明殿に嵌められている、と?」

 綱は怪訝な顔をした。

「いや、あくまでも私の推測でしかないが、先程も申した通り、戻橋の女が端から綱殿を狙って誑かしてきたと考えると筋が通るのではないか」

 公時が頭を掻きながら言う。

「先程も言うたが、綱殿ほどの蟒蛇うわばみを簡単に酔い潰すことのできるおなごなどそうはおらぬ」

「むう」

 綱は唸った。


 女は、名乗ってもおらぬのに綱の名を知っていた。初対面である。少なくとも綱は過去に逢った記憶はない。

 その綱の帰途を待ち構えるかのように女は一条戻橋にいた。程なくここを通る武人は綱である、ということを誰かに知らされていた可能性も否定できない。

 目が覚めたときに女の腕が転がっていたことで、女を斬ったと思ったが、果たして本当の腕だったのか。

 今になって思えば、あれは「鬼の腕」同様、晴明が造らせたものだったのかも知れぬ。

 己に都合のよい推察ではあるが、否定はできぬ。然し、綱を謀ろうとする理由はまったく推察できぬ。

 綱は奥歯を噛んだ

「成る程、私は嵌められたのか……」

 綱はそう思う。いや、そう思いたかった。


「五年前の大枝の件と此度の件、どちらも裏で晴明殿が絡んでいるとして、果たしてそのふたつの間に何か関係があるのか、それともまったく関係のない話なのか」

 公時が呟いた。

 どちらの件も裏に晴明がいるとするならば、ふたつの件、無関係ではない。どちらも鬼の仕業あっての噂が立っていることだけではない。

「此度の件、鬼として荊姫の名が使われているとのこと。関係ないと言い切るほうが無理がありそうだ」

 綱が呟いた。

 大枝の里に「荊姫」という名の者がいたことを知るからこそ、その名を持ち出しているのではないか。わざわざそこにその名を出していることが、件と件の繋がりを示唆していると読む。

「偶然と言うには出来過ぎていないか?」

 綱は顎を撫でた。

「それが偶然と言ってしまうのはお粗末が過ぎるな」

 公時は頷いた。


「確かめたいことが幾つかある」

 綱は溜息交じりに吐いた。

「まず、私が斬ったかも知れぬおなごがどうなっているかを知りたい」

「心当たりは?」

「ない。見当もつかぬ。見当もつかぬが、捜し出し、先ずはその無事を確かめたい」

「ふむ」

 公時は腕組みし、考え込んだ。

「そのおなごに腕があるかどうかを知りたい。私は本当に斬ってしまったのか、それを確かめねば……」

「おなごを見つけられなければ?」

 公時は問う。

「おなごを捜し出せないなら、鬼の腕を造った者を捜し出す。晴明殿は八瀬の奥に棲む者と申された」

「ふむ、そこには辿り着けそうだな」

「最近女の腕を造ったかどうかを知りたい。或いは、その者なら晴明殿の狙いの一端を知っておるやも知れぬ」

「なるほど」

 公時は頷いてから、眼を閉じ、暫し推し黙る。


 程なく、「矢張りそれしかないか……」と呟き、ずいと綱の耳元に近づいた。

「まずは、ここを抜け出さぬか? ここにいたままでは何も確かめることはできぬだろう?」

 声は低いが、力強い。

「私が調べてもよいが限界がある。綱殿も歯痒かろう」

「うむ……」

 綱は唸った。

「協力する故、この屋敷から抜け出さぬか?」

「然し、どうやって?」

「私が手引きする」

 公時の言葉は綱にとっては心強い。

「明日の早朝、家臣を連れてもう一度来る。家臣と入れ替わり、ここを出るというのはどうか?」

「ここを出て、何処へ行く?」

 そう問いながらも、綱には頭に浮かぶ場所があった。

「先ずは大枝だな。今は廃墟になっているだろうが、そのほうが人目にも触れず、都合よかろう」

 公時も同じことを考えていた様子。

「巧くいくだろうか?」

「すぐにれるだろうが、一旦都を離れるぐらいには時間が稼げるだろう」

「ふむ」


 不安はあった。

 晴明屋敷を抜け出してしまえば頼光に顔向けできないのではないか。そんなことも頭を過った。

「お館様には私から伝えておく。綱殿はここを出た後は、真っ直ぐ大枝へ向かわれよ。明日の日暮れには私も合流する」

 綱としては公時に身を預けるしかなかろう。

「判った」

 綱は腹を括った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る