第5話 空腹
それから数日が経った。
人生初の寺での生活。かといってなにか特別なことをするわけでもなかった。朝はまだ薄暗い頃から無駄に早く、本堂で読経に付き合わさせれたあと、境内の掃除と堂内の掃除にこき使われた。逆に午後になるとすることがなく、時間を持て余した。
携帯はむろん無い。ネット環境は、一応母屋にいつの時代のものかわからないくらい古風なディスクトップパソコンが置いてあったが、一度目を盗んで電源を入れてみるも動かなかった。
服装は作務衣を着せられた。
さらに”頭を丸めろ”と尾尚文に再三言われたが、祐一はそれは頑なに拒否した。
「チャラチャラしおって」
チャラチャラ?別にいたって普通の髪形のはずである。金髪や茶髪にしていたわけでもないし、長髪なわけでもない。何度か言い合いになったが、そのうち、さすがに諦めたのか言ってこなくなった。
しかし、祐一を最も苦しめたのは空腹であった。
食事は朝と昼の2回だけ。しかも朝は粥と梅干、昼は謎の草と汁だけである。
こんなので足るはずがない。とにかく腹がへった。
ある日朦朧としながら、朝の読経タイムを尾尚文の後ろで聴いていた祐一は、あの文殊菩薩立像が納められた厨子の左右に、白い饅頭が供えられているのを見つけた。
まさに見つけた秘宝。砂漠にオアシス。豚に真珠。花より団子。
今なら、どんな美女より、自分はこの饅頭を選ぶだろうと思った。
あの饅頭を喰いたい!
ふと祐一の脳内に、懐かしい記憶が蘇った。そうだ、昔こんなゲームがあった。
子供頃、実家から一番近いスーパーに親に連れられ行ったとき、小さなゲームコーナーがあり、そこに、たしか「つるりんくん」といった筐体のゲーム機が置いてあった。
まさに今、自分がおかれている状況と同じように、つるりんという小坊主が、読経する和尚さんの目を盗んで、饅頭を盗んで喰うというゲームである。
コントローラーのスティックを左右に操作して、ただ饅頭の前でタイミングよくボタンを押すだけという単純なゲームであったが、なかなかスリルがあった。
失敗すると、和尚さんに木魚を叩いている棒で頭を叩かれて、何度か失敗してゲームオーバーになると、和尚さんから「愚か者!」と言われてゲームオーバーになった。当時、祐一は景品も欲しさか熱中してやった記憶がある。
今、まさに、その時の鍛錬が役立つ時がくるとは!!!
”人生なにが役に立つかわからないものである”
祐一は精神統一するため深呼吸し、尾尚文の隙を捉えて饅頭を食べようと試みた。
「ぶっせつ まか はんにゃ はらみた しんぎょうかんじざいぼさつ ぎょうじんはんにゃはらみたじ しょうけんごうんかいくう…」
読経と一定のリズムを刻む木魚の音。途中からそのリズムがズレ始めた。
人間、歳を取ると一定に腕を振り続けることも難しくなるのだろう。読経と木魚のリズムが“ポリリズム”になっていた。
祐一は体を左にずらし、タイミングを見計らい饅頭に手を伸ばした。
やった!取れた!
祐一は饅頭を頬張った。
旨い!
その時だった、
「ゴン!」
と、木魚の音が、祐一の頭蓋骨のにぶい音に変わった。
「痛っ!」
祐一は頭を押さえて倒れこむ。
そして、「愚か者!」と尾尚文の怒声が轟いた。
*
……というのはさすがに祐一の妄想であった。
そんなバカなことはいくらなんでもしなかった。よく見ると尾尚文の左右に饅頭もなかった。自分がとうとう壊れてしまったのかと悲しくなった。
昼になると、客もこないのに、境内入口の参拝受付に座らされた。
くそ暇であった。ただ肘を突き、ぼけーっと景色を眺めているしかない。すると門の入口に人影が見えた。祐一は姿勢を正した。
門をくぐり入ってきたのは野口さんだった。
祐一は軽く会釈する。
「お久しぶりです松岡さん。さまになってますね」
笑顔で爽やかに言う野口さん。
「いえいえ…」
「どうです。お客さんはきますか?」
「いえ、誰も」
やってくるといえば、たまに地元のおばちゃんやおじいさんらしき人がやってきて本堂を拝んで帰ることがあるくらいである。
「住職さんにこんな立派な息子がいたんやねぇ」
と言うおばちゃんもいたが、「いえ違います」と祐一はきっぱりと否定した。
中には、なぜか祐一のことを拝んで帰るじいさんもいた。
観光客は皆無である。
一体この寺はどうやって生計を立てているのかと、さすがの祐一も気にはなったが、自分の知ったことではなかった。まさか自分以上にこの寺が借金を抱えていたら笑い話であると思ったが、いや、それは笑えない。
野口さんは境内を見渡して言った。
「あっ、綺麗になっている」
「おれが掃除しました。おれ一人で」
「やっぱり、金玉寺は良いところだと思うんですがねぇ」
「まぁ、住職があれじゃ誰もこないでしょ」
「…松岡さんもお厳しい。実は住職さんといえば、今日は先日お話していたウォーキングツアーの件の資料を持ってきたんですが、尾尚文さんはおられますか」
「あぁ。たぶん本堂の方に」
「わかりました」
野口さんは行きかけて、すぐ、あっと気付いて後退してきた。
「そういえば、松岡さん。あの、”秘仏の件”どうなりました?」
「あっ…」
祐一はガチで失念していた。
「すみません。まだです…」
「そうですか…。わかりました」
野口さんは残念そうな顔をしたが、すぐ笑顔に戻り、本堂の方に向かって行った。
しばらくして、本堂から野口さんが出てきて祐一のところにやってきた。
「やっぱりダメでした。秘仏はそう簡単に見せれないと断られちゃいました」
「頑固だなぁ。なにも減るもんじゃないのに…」
「まぁ、仕方ないですよ。仏像ってあくまで信仰の対象物ですし、そのへんはお寺さんを尊重するのがわたしたちの基本です」
「信仰の対象もなにも、誰も来ないのに」
すると、本堂から尾尚文が出てきて、礼をすると母屋の方に歩いて行った。
「それはそうと、尾尚文さんまた痩せていません?前より調子が悪くなったように見えて心配になったんですが…」
「そうですかねぇ。いつもと変わらないように見えますが…」
毎日あんな質素な飯ばかり食べていたら、そら調子も悪くなるだろう。と祐一も意識が朦朧としかけた。
「そうだったらいいのですが…。ではわたしは今日のところはこれで。松岡さんまたよろしくお願いいたします」
「はい。こちらこそ」
野口さんが手を振って帰っていった。
祐一も力なく手を振った。
*
それから数日後、そのソムリエの会の主催するウォーキングツアーの団体が金玉寺にやってきた。
祐一が境内で迎えた。
先頭で小さな旗を持って階段を上がってきた野口さんが、
「こんにちは!」
と、挨拶した。
そのあとから、20人くらいのいかにもなハイキングな格好の、帽子とリュックを背負った、おばちゃんやおじさんたちが境内にあがってきた。
「金玉寺の松岡さんです」
野口さんが紹介すると、おばちゃんたちが、
「まぁ、イケメン!」
と、沸きだった。
祐一は、照れ臭く頭を掻いた。
ただ、“金玉寺の松岡さん”と紹介されたのにちょっとショックをうけた。たしかにそうなのだろうが…。
「まぁ、景色が綺麗!」
おばちゃんたちが歓喜の声をあげている。
おじさんたちも、「なかなかいいですな」と互いにうなづきあっている。
「あのー、皆さんこちらのお寺はですねー」
野口さんが皆を集め、大きな声で言った。
「聖武天皇勅願の寺と伝えられ、遣唐使船で伝えられたというインドの金の宝玉が納められたので金玉寺と名付けられました」
おばちゃんたちがうんうんと頷き、「ええとこにお寺つくりやったんやねぇ」と囁き、境内を見渡した。たしかにこの寺は景色だけが取り柄である。
「現在の本堂は鎌倉時代の再建で、興正菩薩・叡尊上人によって再興されたので今も真言律宗のお寺として守られています。御本尊は慶派の印慶仏師作によるものですが、秘仏で今日は見ることはできません」
野口さんが言うと、「残念やわ」とおばちゃんらが言った。
ほれみ。と祐一は内心でつぶやいた。
「年に何度かある法要では公開されるので、ぜひ機会があれば見に来てみてください」
すると、本堂から尾尚文が姿を現した。
「あっ、ご紹介します。金玉寺の住職の尾尚文さんです」
尾尚文は本堂の階段から地面に下りると、
「皆さん。今日はお忙しい中よくおいでくださいました。なにもない寺ですが、ゆっくりしていってください」
と、頭をさげた。すると、野口さんをはじめ、ウォーキングメンバーも頭をさげた。
「今日は、金玉寺さんの御好意で、境内で休憩させてもらえるようになっております。20分後に出発しますので、本堂前にお集まりください」
野口さんがアナウンスすると、面々は散らばり、各自座って休む人、境内を見学する人に別れた。野口さんと尾尚文はなにやら談笑をし、その輪に加わっている面々もいた。
祐一は、ボケーっとその光景を見ながら突っ立っていると、
「すみません」
と、おばちゃんが声をかけてきた。
うしろには娘だろうか、若い女も立っていた。深く帽子をかぶり地味な格好をしていたが、妙な色気を感じて祐一は凝視してしまった。
よくフェミニストなんてのが、胸を強調したり肌の露出が多い恰好するのは、男を喜ばせるためだけの”性的搾取”だと言っていたと思うが、あれは男のことを知らないからそんな思想に辿りつくのだろう。男の性欲を甘く見てはいけない。なにも強調せず露出を最大限に抑えるということが、最もエロイということもありうるのである。
「ご朱印はいただけますか?」
「えっ?」
妄想の世界に旅立ちかけていた祐一は、素っ頓狂な声を出して訊きかえした。
「朱印です」
「……」
しゅういんってなんだ?
”手淫”なら知っているが。
祐一は、「すみません」と断り尾尚文と野口さんの元に走り、しゅういんのことを訊いた。尾尚文は一言「ない」と言った。
祐一は、その親子のもとに戻り、「すみません。ないみたいです」というと、「そうですか…」とおばちゃんと娘は残念そうに祐一から離れていった。
だんだん腹がたってきた。サービスするつもりがないのなら、中途半端に寺を開けるなよと、祐一は尾尚文を睨もうとしたが、もうその姿はなかった。なんちゅう愛想のない住職だ。
20分の休憩後、ソムリエの会のウォーキングツアーの面々は、金玉寺をあとにした。
去り際に、おばちゃんたちは祐一に名残惜しそうに声をかけた。
「兄ちゃんも一緒にくる~?」
「ぎゃははは」
「兄ちゃんが住職やったらよかったのに~」
「ぎゃははは」
祐一は苦笑するしかなかった。
面々が去ると、金玉寺の境内はまるで祭りのあとのようにむなしく、しーんと静まりかえった。そして、風がぴゅ~うと境内を吹き抜けた。
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