第18話 新しい経験に慣れていく









"クヨ、携帯、持ってないよね。ほら、これ。似たようなものなんだけど、知ってる?"






オトモリ先輩が俺を下の名前で呼ぶのは、まだ妙に感じられた。そうするのは、限られた場面だけだと思っていた。気にしないようにして、今やっていることに意識を向けた。




"いや…"




訳も分からないまま、オトモリ先輩の流れに合わせて動き、渡されてきたそれとイヤホンを受け取った。




"MP4だよ。動画や写真も見られるけど、一番大事なのは、邪魔されずに音楽を聴けること。中に何百曲も入ってるし、きっと役に立つと思う"




そのMP4を受け取ったが、彼女がそう言うまで、全部聴き終わるまで預けるつもりで渡してきたのだとは分からなかった。それは正直、かなり予想外だった。見た目からして高そうな物を、あそこまであっさり渡してくるとは思っていなかったからだ。彼女は金に余裕のある家の子なのだろうか。持っているギターも高そうに見えるし、実際そうなのかもしれない。




"い、いや……こんなの受け取れない。もし壊したらどうするんだ。払えないし、中に入ってる曲も全部なくなるだろ"




俺は機械に強くないし、扱いも雑なほうだ。こんなに壊れやすそうで、気を遣いそうな物は、簡単に壊してしまいそうだった。どれだけ役に立つとしても、どうしても受け取る気にはなれなかった。




"ぷっ、バカ。貸してるんじゃないよ。あげてるの。あと、これ、思ってるほど高くないから。気にしなくていいよ"




オトモリ先輩の視線には、どこか妙なものがあった。俺の反応を面白がっているみたいに振る舞い、話し方も普段どおりだったが、その目の奥には、何かをためらっているようなものが見えた。気にしていることを隠そうとしている、そんな感じだった。




普段なら、ああいうものに気づけるはずがない。でも、知り合ってからずっと彼女の顔をよく見てきたせいか、視線のわずかな変化も簡単に分かった気がした。もっとも、こういうことが分かる性分じゃない俺にできたのは、そこまでだった。




MP4を見つめたまま、どう反応すればいいのか分からなかった。こういう時は何をすればいいのか、見当もつかない。そもそも、人生で誰かに何かをもらったことなんてなかった。だから、そこにあったのは、ただの戸惑いだけだった。




"……本当にいいのか?"




そう呟いた。それが、もう一度そのMP4を見た時に思いついた唯一の言葉だった。何度そう言われても、俺には高そうな物にしか見えなかった。金を取られるかどうかは関係ない。高い物なら、壊してしまうのは気が進かなかった。




"……あ、そうだ。満充電だけど、充電器は今持ってないの。月曜に学校で渡すね。心配しなくていいよ、電池は結構もつから。画面を消して音楽だけ聴くなら、ちゃんと持つと思う"




彼女は一瞬ためらい、何を言うべきか考えているようだったが、思い直したみたいに、さっきと同じ気の抜けた表情に戻して、充電器の話をした。様子は少し変だったが、たぶん俺のせいだろうと思い、それ以上は突っ込まずに、MP4を受け取った。




"ほら、座ろ。使い方、教えるから"




少し遅い時間だったし、こうしてのんびり座っていていいのかが気になった。彼女がどれくらい遠くに住んでいるのかも分からなかったからだ。でも、オトモリ先輩は、そんなことはまったく気にしていないようだった。




彼女の頭は、別のことでいっぱいだった。視線や、何か言い終わるたびに見せる考え込んだような仕草を見れば、それは分かった。言いたいことを、無理やり心の奥に押し込めているように見えた。




その手の表情には、見覚えがあった。俺のことを何か知っていながら、知らないふりをしようとする連中がよく浮かべる顔だ。ああいうのは、昔から好きじゃなかった。でも、彼女に関しては、少し違って感じた。そんなことをさせているのが、俺なんじゃないかと思えて、妙に後ろめたさが残った。




これ以上、彼女を煩わせないようにして、提案を受け入れ、川のそばの草の上に座った。そこは、前にも何度か見たことがある場所で、悪くない所だった。夜の静けさが、そこに少し穏やかな雰囲気を与えていた。




オトモリ先輩は、MP4の使い方を説明し始めた。まずは基本的なところからで、それぞれの押しボタンが何のためのものか、どうやって音楽を探して再生するのか、画面に出てくるいくつかの記号が何を意味しているのか、そういうことを一通り教えてくれた。




正直なところ、できるだけ集中して全部覚えようとした。というのも、俺の人生で一番それっぽいことと言えば、テレビ受像機をつけて局を切り替えるのを覚えたくらいで、こういう機械に触るのは、少しでも技術に慣れるための機会として逃したくなかったからだ。




正直なところ、できるだけ集中して全部覚えようとした。というのも、俺の人生で一番それっぽいことと言えば、テレビ受像機をつけて局を切り替えるのを覚えたくらいで、こういう機械に触るのは、少しでも技術に慣れるための機会として逃したくなかったからだ。




でも、正直、完全には集中できなかった。オトモリ先輩は教えることに意識を向けすぎていて、自分がどれだけ近くにいるかに気づいていなかった。視線は何度もぶつかったが、彼女は気にした様子もなく、話し続けていた。いや、実際は、そう見えただけだった。もう少し彼女の顔をよく見ると、近くにいることに気づいていないふりをしているわりに、頬が少し赤くなっているのが分かった。




何をすればいいのか分からず、結局、何もしないことにした。これ以上、俺の余計な言動で、また空気を壊したくなかったからだ。自分の過去については何も考えないようにして、体にもそうさせないようにした。少なくとも、オトモリ先輩の前では、それができた気がした。




"な、何か分からないところ、ある?"




落ち着いているふりをしていたが、視線が合った瞬間、彼女は少し緊張したのが分かった。それでも、俺から目を逸らそうとはしなかった。じっと、俺を見つめていた。




誰かに、敵意もなくあそこまでじっと見られるのは、正直、妙な感じだった。こういう状況でどう反応すればいいのか分からなかったし、今感じている感情も、俺にはどれも馴染みのないものだった。




理解できそうな気はした。でも、今はそれを無視して、目の前の状況に意識を向けたほうがいいと、心のどこかで思っていた。




"いや、特に……"




一瞬、もう十分だから、家に帰ったほうがいいんじゃないかと口にしそうになった。でも、言えなかった。それを言ったあと、ただ黙って彼女を見ているしかなかった。




"そっか……"




彼女は、そのまま俺を見つめていた。二人の間に、短い沈黙が落ちた。夜の光の中で、彼女の青い目は深くはっきりした色で輝いていた。白い肌は川の冷たい光を反射し、髪は、草を揺らす柔らかな風に合わせて静かに揺れていた。




夜の静けさが、二人に黙ったまま見つめ合う余裕を与えていた。何かが割り込んでくるのか、それとも、どちらかがただ見ている以外の行動に出るのか、そんなことを待っているような時間だった。でも、結局、何も起こらなかった。




黙ったまま、夜の田舎らしい音だけを背に受けながら、どれくらいの時間だったのかも分からないまま、俺たちは互いを見つめ続けていた。




オトモリ先輩の表情は、ほとんど無表情だったが、その目は、わずかに興味を示していた。たぶん、俺も同じような顔をしていたと思う。相手を見ていることに対する、芽生え始めた興味以外、何も映っていない表情だった。




これは、どれだけ長く生きようと、いつか経験するとは思っていなかった、誰かとの特別なつながりだった。起きていること自体は、かなり幸運だと感じていた。でも、心の奥では、俺にはこれを受け入れることはできないと思っていた。




長い年月にわたって、あのやつのやつれた姿を見てきたせいで、こういうものは、俺の生き残りを脅かすもののように感じられた。だから、体も心も、全力でそれを拒んでいた。




拒もうとした。生きようとする自分の意思を前に出して、その生存本能を脇に置こうとした。でも、あの女の背中、ドアを出ていく時の見下したようで無関心な視線、そして、その無関心のせいで俺の人生に降りかかったすべてのことが、無視できない警告として頭に響いた。




苦い気持ちを抱えたまま、オトモリ先輩から視線を外し、少しの間、川を見た。それから、もう一度彼女を見て、できるだけ落ち着いた声で話しかけた。




"もう遅くなってきてます。俺は近くに住んでるので問題ないです。先輩は、家まで遠くないですか."




話し始めると、空気は元に戻った。まるで、さっきまで互いを見ていた時間なんて、なかったかのようだった。でも、彼女にとっては、そうじゃなかったらしい。顔がかすかに赤くなっていて、俺が空気を変えようとしたことに気づいたのが分かった。




"と、遠いけど、大丈夫。運転手に迎えに来てもらえるから"




"..."




予感はしていたが、やっぱり彼女は金に余裕のある家の子らしい。個人の運転手がいるほどだ。それは正直、理解しづらい話だった。しかも、俺と同じ学校に通っていると思うと、なおさらだ。




"じ、実はもう迎えに来るよう頼んであって、今向かってると思う"




どうやら、俺が考えていたことが伝わったらしく、彼女は少し落ち着かなくなった。たぶん、その話題には触れたくないんだと思う。金に余裕があることが良いのか悪いのかは分からない。思いつくのは、だいたい良いことばかりだ。でも、覚えている限り、金のある連中の中には、人に囲まれていても、俺より孤立して見えるやつもいた。




どこでも同じで、人にはそれぞれ、抱えている問題がある。俺は、印象や先入観に流されないようにしている。そういうものに流されるやつは、大抵、口を閉じていれば避けられたはずの面倒に、自分から首を突っ込むからだ。




"じゃあ、来るまで一緒に待ちます"




そう言ったのは、あまり深く考えていなかったからだ。正直、俺は一晩中外にいても構わなかった。気候はちょうどいいし、空気も重くない。外にいるのは、嫌いじゃない。




"え、い、いいの?もう遅いよ"




彼女は、心配そうな声でそう言った。それが少し意外で、思わず笑いそうになった。誰かが俺の身の安全を気にする日が来るなんて、考えたこともなかったからだ。妙なくらいで、逆に可笑しく感じた。




"ぷっ。俺、身を守れないように見えるか?"




そう言うと、オトモリ先輩の頬は少し赤くなった。でも、目を見て、少し怒っているのが分かった。




"それは問題じゃない……ん?"




彼女は、少し苛立った様子でそう言った。まあ、分からなくはない。身を守れるからといって、無敵になるわけじゃない。ちょうど彼女が、何か言いかけたその時、車の灯りが俺たちを照らした。彼女はそちらを振り返り、少し残念そうな表情を見せた。




"もう来た……付き合ってくれて、ありがとう。おやすみ"




そう言って、俺が何か言う間もなく、オトモリ先輩は車のほうへ走っていった。普段はあんなに不器用そうなのに、走るときだけは驚くほど身軽で速い。




黒くて、いかにも高そうな車だった。本当に、金持ちそうな子だな。まあいい。俺も帰らないと。外に長くいる癖に戻るのは、あまりいい考えじゃない。




"……初めてだ誰かにおやすみなんて言われたの……なんか、返事くらいしたかった"




最近は、新しい経験ばかりだ。もう、脳みそが勝手に反応しすぎないようにしてるところまで来てた。新しいことが起きるのが当たり前だって、無理やり慣れようとしてるみたいに。こういうことを、脳みそが勝手にやり出すのが嫌いだ。




最初の経験くらい、もう少し普通に楽しめたらいいのにと思う。嬉しくなったり、楽しくなったり、そういう感情だ。MP4を少し眺めてからしまい、その家に向かった。

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