忘却探偵―証言者は憶えていない―

ソコニ

第1話「葬儀に三回出た男」


## 1


雨の音が、私の意識を現実に引き戻した。


目覚めると、枕元のノートに昨日の私が書いた文字が並んでいる。私はこのノートを「記憶の代理人」と呼んでいる。24時間で記憶がリセットされる私にとって、このノートだけが過去と現在を繋ぐ唯一の橋だ。


```

6月16日(月)

天気:雨

今日の予定:桐生隆・葬儀関連調査の継続

重要:証言者3名の記憶が矛盾。要検証。

```


私は柊忘(ひいらぎ・わすれ)。38歳。職業は記憶鑑定士。


前向性健忘症という厄介な病気のせいで、私の記憶は24時間しか保たない。明日の朝にはまた、今日のすべてを忘れている。だから私は記録する。ノートに、レコーダーに、カメラに。記憶の代わりに、記録を残す。


皮肉なことに、この障害が私を「記憶の専門家」にした。人の記憶がいかに曖昧で、矛盾に満ちているか。私は自分の体で理解している。だから私は、他人の記憶の嘘を見抜くことができる。


スマートフォンのアラームが鳴った。午前9時。ノートに書かれた住所へ向かう時間だ。


傘を持って事務所を出る。空は鉛色で、雨はまだ降り続けている。


---


## 2


桐生隆。享年56歳。IT企業「サイバーテック」の創業社長。6月15日、自宅で心不全により急死。葬儀は同日夕方に執り行われた——はずだった。


しかし、参列者の証言は不可解なほどに食い違っている。


「記憶鑑定士の柊さん、ですね」


応接室で私を待っていたのは、30代半ばの女性だった。黒いスーツに身を包み、目元には疲労の色が濃い。


「桐生麻美と申します。故・桐生隆の妻です」


「お悔やみ申し上げます」


私は彼女の向かいに座った。テーブルの上には、葬儀の写真が数枚並べられている。


「警察の方が言うには、夫の死は自然死だと。でも、私には納得できないことがあるんです」


「それは?」


麻美は写真を指差した。


「葬儀に参列した人たちの証言が、あまりにもバラバラなんです。まるで、別々の葬儀に出席したみたいに」


私はノートを開いた。昨日の私が残したメモには、三人の証言者の名前が記されている。


**証言者A:秘書・水谷早苗**

**証言者B:顧問弁護士・森崎雄一郎**

**証言者C:取引先社長・田村誠**


「具体的にどう違うのか、教えていただけますか」


麻美は深く息を吸った。


「まず、秘書の水谷さんは『6月15日の雨の日に葬儀があった』と言っています。喪主は私だったと」


私は窓の外を見た。確かに今日も雨だ。天気予報では昨日も雨だったという。


「でも、弁護士の森崎さんは『6月22日の快晴の日に葬儀があった』と証言しているんです。しかも喪主は、夫の愛人だった女性——天野理沙だと」


「愛人?」


「ええ。夫には数年前から付き合っている女性がいました。私も知っていました」


麻美の声には、悲しみよりも諦めが滲んでいた。


「そして田村さんは『7月3日の夜に葬儀があった』と言うんです。喪主は夫の娘——前妻との間の子、桐生結衣だと」


私はペンを走らせた。


```

6月15日・雨・喪主:妻(麻美)——秘書証言

6月22日・晴・喪主:愛人(理沙)——弁護士証言

7月3日・夜・喪主:娘(結衣)——取引先証言

```


「三つの葬儀。三人の喪主」


「おかしいですよね。葬儀は一回しか行われていないのに」


私は写真を手に取った。祭壇に飾られた桐生隆の遺影。穏やかな笑顔だった。


「防犯カメラの記録は確認されましたか?」


「はい。葬儀会館の防犯カメラには、6月15日の雨の日に葬儀が行われた記録が残っています。参列者も確認できました。水谷さんの証言が正しいんです」


「では、他の二人は嘘をついている?」


「でも、なぜ? しかも、森崎さんは夫の顧問弁護士として長年付き合いがあった人です。わざわざ嘘をつく理由がわからないんです」


私はノートに書き込んだ。


```

疑問:なぜ複数の葬儀記憶が存在するのか?

仮説1:記憶の混同

仮説2:意図的な虚偽証言

仮説3:?

```


「三人の証言者に直接会って話を聞きたいのですが」


「もちろんです。すでに連絡を取ってあります」


麻美はスマートフォンを取り出した。


「まず、水谷さんから会っていただけますか? 彼女が一番協力的なので」


「わかりました」


私は立ち上がった。窓の外では、雨が強くなり始めていた。


---


## 3


秘書の水谷早苗は、40代前半の落ち着いた雰囲気の女性だった。桐生の会社で15年以上働いているという。


「柊さん、ですね。麻美さんから伺っています」


「葬儀の日のことを教えていただけますか」


私たちはカフェの隅のテーブルに座った。水谷はコーヒーカップを両手で包み込むようにして持っている。


「6月15日でした。雨が降っていて、私は傘を忘れて濡れてしまったのを覚えています」


「葬儀の様子は?」


「麻美さんが喪主でした。社長の急死でしたから、みんな動揺していました。でも麻美さんは気丈に振る舞っていらして…」


水谷の目が潤んだ。


「献花の順番も覚えていますか?」


「ええ。まず私が献花して、それから森崎弁護士、田村社長の順でした」


私はメモを取った。


「森崎弁護士と田村社長も、その日の葬儀に参列していた?」


「はい、確かに」


「でも彼らは別の日に葬儀があったと証言しています」


水谷は首を傾げた。


「別の日? それはおかしいです。確かに6月15日でした。防犯カメラにも映っているはずです」


「映っています。あなたの証言通りに」


「では、なぜ森崎さんたちは…」


私は彼女の目を見た。動揺しているが、嘘をついている様子はない。記憶が混乱している兆候もない。彼女は本当に、6月15日の雨の葬儀を覚えているのだ。


「もう一つ聞きたいことがあります。桐生社長の遺言書について、何か知っていますか?」


水谷は一瞬、目を伏せた。


「遺言書…ですか」


「ええ」


「社長は遺言書を作成していたと聞いています。でも、葬儀の後、それが見つからないと麻美さんが仰っていました」


「誰が管理していたんですか?」


「確か、森崎弁護士が保管していたはずです」


私の中で、何かが引っかかった。


森崎弁護士。彼だけが「別の日の葬儀」を証言している。そして、遺言書を管理していた。


「ありがとうございました。大変参考になりました」


私は席を立った。次は森崎弁護士に会う番だ。


---


## 4


森崎雄一郎の法律事務所は、高層ビルの20階にあった。受付を通されて応接室に入ると、50代の男性が立ち上がった。


「柊さん、ようこそ。麻美さんからお話は伺っています」


森崎は笑顔で握手を求めてきた。しかしその笑顔は、どこか作り物めいている。


「早速ですが、桐生さんの葬儀について伺いたいのですが」


「ああ、葬儀ね」


森崎は窓の外を見た。雨は止んでいた。


「6月22日でした。快晴の日でしたよ。まるで桐生君を祝福しているような、素晴らしい天気でした」


「喪主は?」


「天野理沙さん。桐生君の…まあ、パートナーと言うべきでしょうか」


「しかし防犯カメラには、6月15日の雨の日に葬儀が行われた記録があります。あなたもその映像に映っています」


森崎は肩をすくめた。


「カメラの記録日時が間違っているのでは? よくあることでしょう」


「献花の順番を覚えていますか?」


「ええと…確か、私が最初に献花して、それから水谷さん、田村さんの順だったかな」


私はペンを止めた。


水谷は「私が最初、それから森崎弁護士、田村社長」と証言した。


森崎は「私が最初、それから水谷さん、田村さん」と証言している。


献花の順番が違う。


しかし——


「森崎さん、もう一度確認させてください。献花の順番は、あなたが最初だったと?」


「ええ、そうです。私は桐生君の古い友人でしたから、遺族の方から最初に、と頼まれました」


私はノートに書き込んだ。


```

水谷証言:水谷→森崎→田村

森崎証言:森崎→水谷→田村

矛盾:献花の順番

```


しかし、もし防犯カメラの映像を確認すれば、どちらが正しいかはすぐにわかる。


「遺言書について伺いたいのですが」


森崎の表情が一瞬、強張った。


「遺言書?」


「あなたが保管していたと聞きました」


「ああ、そうでしたね。でも残念ながら、見つからないんですよ」


「見つからない?」


「ええ。私の事務所で保管していたはずなのですが、どこを探しても見当たらない。盗まれたのかもしれません」


森崎は困ったような顔をしたが、その目は笑っていなかった。


私は立ち上がった。


「お時間をいただき、ありがとうございました」


「いえいえ。何かお役に立てましたか?」


「ええ、大変」


私はドアに向かいながら、最後に一言付け加えた。


「ところで、防犯カメラの映像を再度確認させていただくことになると思います。特に、献花の順番をはっきりと確認できるアングルのものを」


森崎の顔から、血の気が引いた。


---


## 5


葬儀会館に戻った私は、支配人の協力を得て防犯カメラの映像を詳細に確認した。


6月15日、午後3時から5時までの映像。雨の日の葬儀。


参列者が献花する場面。


一人目:水谷早苗

二人目:森崎雄一郎

三人目:田村誠


水谷の証言が正しかった。森崎は二番目に献花している。


「なぜ森崎は献花の順番について嘘をついたのか?」


私はノートに書き込んだ。


```

仮説:森崎は「最初に献花した」と主張することで、何かを隠そうとしている

では何を?

```


私は映像を巻き戻した。葬儀が始まる前の時間帯。


午後2時。参列者が続々と到着する。


午後2時15分。森崎が到着。しかし彼は式場に入らず、別の方向へ歩いていく。


「あれは…」


私は支配人に尋ねた。


「あの廊下の先は何がありますか?」


「遺体安置室です。でも葬儀の前は関係者以外立ち入り禁止のはずですが」


映像を進める。


午後2時28分。森崎が戻ってくる。何かポケットに入れている。


午後2時30分。葬儀開始。


「遺体安置室で何をしていたんだ?」


私はさらに映像を確認した。式の最中、森崎の様子を追う。


献花の順番が来る。二番目。水谷の次。


森崎は祭壇に近づき、花を供える。その時——


私は映像を一時停止した。


森崎が祭壇の花の中に、何かを隠している。小さな封筒のようなもの。


「これは…」


私は支配人に頼んだ。


「葬儀の後、祭壇の花はどう処理されましたか?」


「通常は遺族に持ち帰っていただくか、処分します」


「この時の花は?」


「確か、麻美様がご自宅に持ち帰られたと思います」


私はすぐに麻美に電話をかけた。


---


## 6


麻美の自宅で、私たちは葬儀の花を保管していた箱を開けた。枯れかけた花の中から、私は小さな封筒を見つけた。


「これは…」


封筒の中には、折りたたまれた紙が一枚。


遺言書だった。


```

遺言書


私、桐生隆は、以下の通り遺言する。


私の全財産は、妻・桐生麻美に相続させる。

会社の株式および経営権も、すべて麻美に譲渡する。


なお、顧問弁護士・森崎雄一郎には、これまでの功績に感謝し、

退職金として1000万円を支払うものとする。


令和〇年4月15日

桐生隆 印

```


「これが本物の遺言書…」


麻美は震える手で遺言書を受け取った。


「でも、なぜ森崎さんが花の中に隠したんですか?」


私は推理を組み立てた。


「森崎弁護士は、遺言書を改竄しようとしていたんです。あるいは、全く別の遺言書とすり替えるつもりだった」


「別の遺言書?」


「おそらく、彼に有利な内容の偽造遺言書です。しかし、葬儀の直前に何らかの理由で、それができなくなった。だから、本物の遺言書を一時的に隠す必要があった」


「葬儀の前に遺体安置室に入ったのは?」


「遺言書は、桐生さんの遺体のポケットに入っていたんでしょう。森崎はそれを盗み出した。そして、葬儀の間に処分するつもりだった。でも処分する機会がなく、とっさに花の中に隠した」


「でも、なぜ献花の順番について嘘をついたんですか?」


私はノートを開いた。


「彼は『自分が最初に献花した』と主張しました。つまり、献花の前の時間帯——遺体安置室に入っていた時間を、証言から消したかったんです」


「アリバイの偽装…」


「ええ。もし彼が二番目に献花したと認めれば、その前の時間に何をしていたのか追及される。だから、献花の順番を偽った」


麻美は俯いた。


「では、森崎さんが…」


「遺言書を盗もうとした。それだけではありません」


私は別の書類を取り出した。昨日の私が調べた、桐生隆の死因に関する資料。


「桐生さんの死因は心不全とされていますが、実は数日前から体調不良を訴えていたそうですね」


「ええ。めまいや動悸があると」


「森崎弁護士は、月に一度、桐生さんと会食をしていたそうです。そして、桐生さんが体調を崩し始めたのは、最後の会食の直後からだった」


麻美は息を呑んだ。


「まさか、毒を…」


「利尿剤の過剰投与です。徐々に体内のカリウムが失われ、心臓に負担がかかる。高齢者なら、自然死と判断されやすい」


「でも、なぜ?」


私は最後のページを開いた。そこには、森崎の銀行口座の履歴があった。


「森崎弁護士は、多額の借金を抱えていました。そして、桐生さんの会社の財務にも不正の形跡がある。おそらく、森崎は横領していたんでしょう」


「それがバレそうになって…」


「桐生さんを殺し、遺言書を改竄することで、会社の支配権を手に入れようとした。あるいは、自分に有利な遺言書に差し替えて、金を手にしようとした」


私は立ち上がった。


「警察に連絡します。森崎弁護士を逮捕してもらいましょう」


---


## 7


三日後。森崎雄一郎は逮捕された。


容疑は遺言書窃盗、業務上横領、そして殺人。


取調室で、森崎はようやく口を開いた。


「どうしてバレたんだ? 献花の順番なんて、誰も覚えていないと思ったのに」


刑事が答えた。


「記憶鑑定士の柊忘という女性がいてね。彼女は人の記憶の矛盾を見抜くのが専門だ」


森崎は笑った。自嘲的な笑いだった。


「記憶か。俺も記憶に縛られていたのかもしれない」


「どういう意味だ?」


森崎は窓の外を見た。


「実は…桐生は、俺の父親だったんだ」


刑事は驚いた。


「父親?」


「母が若い頃、桐生と付き合っていた。でも桐生は母を捨てた。俺が生まれることも知らずに」


森崎の目に、涙が浮かんだ。


「俺は弁護士になって、桐生の顧問弁護士になった。父親に認められたかったんだ。でも桐生は、最後まで俺が息子だと気づかなかった」


「それで殺したのか?」


「違う。最初はただ、金が欲しかっただけだ。でも桐生の葬儀に参列した時、気づいたんだ」


「何に?」


「俺は、父親の葬儀に『息子』として参列できなかった。喪主は妻で、娘がいて、愛人までいた。でも俺は、ただの『顧問弁護士』だった」


森崎は顔を覆った。


「だから、俺は葬儀の記憶を変えようとしたんだ。別の日に、別の喪主で、別の葬儀があったと。そうすれば、どこかの葬儀で、俺は息子として扱われたかもしれないと思った」


刑事は黙って聞いていた。


「葬儀が何度もあれば、そのどれかで父は僕を見つけてくれたかもしれない」


森崎は泣いていた。


「でも、葬儀は一回しかなかった。俺は最後まで、ただの弁護士だった」


---


## 8


私はカフェで、この事件の記録をノートにまとめていた。


森崎雄一郎は、父親に認められなかった息子だった。


彼は遺言書を盗み、父の死を利用しようとした。しかしそれ以上に、彼は「父の葬儀」という記憶そのものを、受け入れられなかったのだ。


だから彼は、別の日付の葬儀を作り出そうとした。異なる記憶を流布することで、現実を上書きしようとした。


人は時に、耐えられない現実から逃れるために、記憶を改変する。


私は自分の病気を思った。私の記憶は24時間しか保たない。でも、もしかしたらそれは呪いではなく、恩恵なのかもしれない。


忘れられるということは、苦しみからも解放されるということだ。


ノートの最後のページに、私は書いた。


```

事件解決。

森崎雄一郎逮捕。

動機:認められなかった息子の絶望。


記憶は、時に人を救い、時に人を苦しめる。

私は明日、この事件を忘れる。

でも、記録は残る。


明日の私へ:

次の事件が待っている。

```


私はノートを閉じた。


窓の外では、雨が上がり、夕日が差し込んでいた。


明日にはまた、新しい一日が始まる。


私は何も覚えていない。


でも、記録は残る。


それで十分だ。


---


【第1話・完】


---


## エピローグ


その夜、私は自宅に戻り、ノートの冒頭ページを読んだ。


そこには、3ページ分だけ破り取られたページがあった。


私はいつも気になっている。そこには何が書いてあったのだろう。


でも、昨日の私は、それを明かさなかった。


きっと、忘れるべきことだったのだろう。


私は新しいページを開き、明日の自分へのメッセージを書いた。


```

明日の私へ:


あなたは今日のことを覚えていない。

でもそれでいい。

記録があれば、あなたは進める。


次の事件:「消えた同窓会」

詳細は別ファイル参照。


忘れないで:

あなたは一人じゃない。

昨日のあなたが、いつも道を示している。

```


私はノートを閉じ、眠りについた。


明日の朝、また新しい私が目覚める。


記憶のない私が。


でも、記録のある私が。


【第1話・了】

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