第25話 再構成される肉体
痛みを感じない。
骨が剥き出しになり、肉が溶けているにもかかわらず、そこには恐ろしいほどの静寂があった。
僕が放った「意外と、熱くなかったな」という一言は、安堵の言葉ではなく、人間性の喪失を告げる死亡宣告のように、その場を支配した。
詩織が、佐藤が、瀕死のクレシダが、信じられないものを見る目で僕を見つめている。
その凍りついた時間を破ったのは、聞き慣れた、しかし場違いなほど冷静な機械音声だった。
「――スキャン完了。中枢神経系統の過負荷による遮断を確認。これ以上の活動はリソースの全損を招きます。強制シャットダウンを推奨します」
不意に、僕の崩れかけた身体が強く抱きとめられた。
瓦礫の山を越え、今の今まで姿を見せていなかった彼女――ハーモニーだ。
「だ、誰……?」
腰を抜かしていた詩織が、震える声で問いかける。
泥にまみれたドレスを一切気にせず、僕の血と膿をその白い肢体で受け止める美少女。その献身は感動的というより、どこか狂気じみていた。
ハーモニーは詩織を一瞥もしない。
彼女はアトリウム全体に響く声量で、事務的に、しかし絶対者として宣言した。
「自己紹介します、プレイヤー各位。個体名コード、ハーモニー。このエリアのシステム管理および、神楽奏の専属管理オペレーターです」
オペレーター。
その言葉は、単なるサポート役という意味を超え、所有権の主張のように響いた。
彼女はボロボロになった僕を、まるで自分の所有物であるかのように強く抱き寄せる。
「管理者権限により通告します。マスターの使用権、および身体機能のメンテナンス権限は、全て私が有しています。現在、彼は深刻な損壊状態にあるため、これより回収します。……邪魔です、下がってください」
それは明確なマウントだった。
幼馴染である詩織や、共に戦った騎士クレシダを「部外者」として切り捨て、自分こそが彼を一番理解し、管理し、独占できる立場なのだという冷酷な通告。
「ま、待って! 奏くんは怪我を……治療しないと!」
詩織が泣き叫びながら手を伸ばそうとする。
ハーモニーは、路傍の石を見るような目で彼女を一瞥した。
「治療? 貴女方の貧弱な装備と知識で、この状態が修復できるとでも? 彼の損壊率は70%を超えています。今の彼は、触れば崩れる砂の城です。素人が気安く触れないでください」
「ッ……」
ハーモニーの指摘に、詩織が言葉を詰まらせる。
確かに、皮膚が溶け落ち、内側の組織が露わになっている僕を前に、彼女たちは無力だ。触れることさえ、躊躇われるほどの異形。
「行くぞ、ハーモニー。……少し、眠い」
僕は議論を遮った。
意識の端が、泥水に沈むように黒く塗りつぶされ始めていた。
ハーモニーは「了解」と短く頷き、細い腕からは想像もつかない怪力で、僕の身体を軽々と抱え上げた。
血まみれの怪物を抱く、無機質な美少女。その光景は、神々しいほどに背徳的だった。
ハーモニーは迷いなく歩き出す。アトリウムの床下、一般プレイヤーには視認できないメンテナンスハッチへ向かって。
地上に残された詩織たちの、呆然とした、そして置いていかれる子供のような視線を背中に感じながら、僕の意識は闇へと落ちた。
◇◆
再び目が覚めた時、僕は緑色の液体の中に浮遊していた。
ボス部屋のさらに地下深くに隠されていた栽培プラント。
巨大な円筒状の
鼻を突くのは、強烈なホルマリン臭と、鉄が錆びたような血の匂い、そして腐った植物を煮詰めたような甘ったるい芳香。
口元には呼吸用のマスクが吸い付き、全身の血管という血管に、輸血用のチューブが針山のように突き刺さっている。
(……僕は、生きているのか?)
酸の海に飛び込み、自爆特攻を仕掛けた。普通なら、細胞の一片すら残らず消し炭になっているはずだ。
身じろぎすると、ゴボリ、と口元から大きな気泡が漏れた。
指先が動く。だが、その感触はどこか遠く、まるで自分のものではない、冷たい機械かゴムの義手を動かしているような鈍さがあった。
「脳波安定。覚醒を確認しました。……おはようございます、マスター」
分厚い強化ガラスの向こうから、冷徹な声が響く。
白衣のような無菌布を纏ったハーモニーが、ホログラムの操作盤を叩いているのが見えた。
低い駆動音と共に排水弁が開き、培養液の水位が下がっていく。肌にまとわりつく粘液が滑り落ち、ひやりとした地下の大気に、剥き出しの皮膚が触れた。
「運営から支給された緊急医療キットと、現地調達した
再構築。
治療ではない。修理ですらない。
その不穏な響きに、僕はマスクをむしり取りながら、恐る恐る自分の身体を見下ろした。
そして、喉の奥で息を呑んだ。
恐怖からではない。あまりの、合理的な醜悪さに圧倒されたからだ。
「……はは。なんだ、これ」
そこにあったのは、辛うじて人間の形を保ってはいるものの、正視に耐えないほど痛々しいパッチワークの身体だった。
特に酷いのは右腕だ。
手首から肩にかけて、本来あるはずの滑らかな皮膚は失われている。
酸で溶け落ちた筋肉と皮膚の隙間を埋めるように、ドス黒く脈打つ植物繊維の筋束が複雑に絡みつき、砕けた骨格を補強するための金属片が肉に直接埋め込まれている。
焼け爛れた自身の皮膚と、移植された黒い樹脂のような人工皮膚。その境界線は、医療用の巨大なステープラー(ホチキス)で、荒っぽくバチン、バチンと皮膚ごと縫合されていた。
まるで、壊れた陶磁器を泥と接着剤で無理やり修復したような、歪な『人体』。
縫い目からはまだ透明な体液と血が滲み出し、動くたびに肉と異物が擦れる音がしそうだ。
右足も同様だ。
露出した
「人間の生体パーツだけでは修復が間に合いませんでした。ゆえに、適合率の高かったボスの有機細胞と、現地の無機物を合成し、欠損部位に充填しました」
ハーモニーは事も無げに言う。
人間の尊厳や美観など考慮しない、ただ「機能させること」のみを目的とした狂気的な修理。
「
ハーモニーの指示に従い、僕は異形と化した右手に意識を向けた。
ギチ、リ……。
湿った植物と錆びた金属が軋むような、耳障りな重低音。
だが、その黒ずんだ拳は、僕の意思に呼応して力強く、あまりにも力強く握り込まれた。
植物繊維のポンプが人工血液を送り出し、右腕全体が熱を持って膨張する。
自分の手とは思えない、岩をも砕きそうな圧倒的な剛力の実感。
「……動くな。すごいな、これ」
僕は自分の腕を見つめ、乾いた笑いを漏らした。
本来なら、自分の体が異物に侵食されている事実に発狂してもおかしくない。他人の臓器、いや、怪物の肉が自分の一部になっている生理的なおぞましさ。
だが、僕の心は驚くほど凪いでいた。
むしろ、この強力な「武器」を手に入れたことへの、歪んだ喜びすらある。
ああ、そうか。
僕が捨てたのは痛みだけじゃない。
『自分の身体が人間でなくなっていく』ことへの
プシュウ、と圧縮空気が抜け、培養槽のハッチが開く。
「……ッ、う……」
入り口の方で、息を飲む音がした。
詩織だった。
地下の戦いが終わった後、どうにか僕の無事を確かめようと、このプラントまで降りてきたのだろう。彼女の服も泥だらけだ。
だが、カプセルから出てきた全裸の――ツギハギだらけの幼馴染を見て、彼女の表情は凍りついていた。
「奏、くん……?」
「よう、詩織。無事だったか」
僕は培養槽の縁に手をかけ、ひらりと床に降り立った。
着地した右足が、ドスッと鈍い音を立て、埋め込まれた金属パーツがコンクリートを削る。
近づこうとする僕に、詩織がビクリと肩を震わせて後ずさった。
まるで、
「近づかないで……!」
「あ……ごめん。驚いたよな」
僕は足を止めた。
まあ、そうなるか。
今の僕は夜道で会ったら悲鳴を上げて逃げ出すレベルの不審者、いや、化け物だ。
「ううん、違うの……! ひどい……ひどすぎるよ……!」
彼女の目から大粒の涙がボロボロとこぼれ落ちる。
詩織の視線は、僕の右腕の縫合痕に釘付けになっていた。
無理やりつなぎ止められた皮膚。肉に食い込むホチキスの針。その隙間から滲む血液と、ボスの体液由来の緑色の薬液。
「痛そう……絶対、痛いよこれ……! どうして……!」
彼女の共感性の高さが、僕の肉体から発せられる視覚的な「激痛」を想像し、自分の身が裂かれたように悲鳴を上げているのだ。
自分のこと以上に、他人の痛みに傷ついてしまう。彼女のその清らかな優しさは、この地獄においては自分自身を殺す刃でしかない。
だから僕は、いつものように『ヒーロー』として、彼女を安心させてやることにした。
嘘でもいい。笑ってみせなければ。
「平気だよ、詩織。見た目はちょっと派手だけどさ、中身は元気そのものだ」
僕は努めて明るい笑顔を作ると、再生したばかりの歪な右腕を、左手でバンバンと強く叩いてみせた。
「ほら、見ての通り。神経もあんまり繋がってないみたいで、全然痛く――」
バチンッ!
強く叩いた衝撃で、縫い止めていたステープラーの一本が圧力に耐えかねて弾け飛んだ。
肉が割れ、傷口がパックリと開き、ダラリと鮮血が滴り落ちる。
「ひッ……!?」
「おっと。まだ傷が塞がってなかったか。……はは、ドジだな」
僕は笑いながら、垂れる血を無造作に指で拭い、そのまま開いた傷口を爪でグリグリと押し込んで癒着させようとした。
血の暖かさは感じる。肉が押される感覚もある。
だが、「痛み」だけが完全に欠落している。
だからこれは、僕にとっては靴紐が解けたのを結び直す程度の、純粋に彼女への「大丈夫だよ」というメッセージのつもりだった。
だが。
僕の意図とは裏腹に、詩織の顔からは血の気が完全に引いていた。
「……なんで……?」
「え?」
「なんで……血が出てるのに……ホチキスが飛んでるのに……どうして、そんなに普通の顔で笑っていられるの……!?」
彼女の瞳に宿っていたのは、安堵でも同情でもない。
未知の生物に対する、根源的な恐怖だった。
人間にとって、「痛み」とは生の実感であり、他者と共有できる感覚の基盤だ。
痛ければ泣く。辛ければ顔をしかめる。それが人間だ。
それが欠落している存在。
自分の体が壊れてもへらへらと笑っていられる存在。
それは、彼女にとって最も理解から遠い「異生物」の姿だった。
僕が怪物になったのは、見た目のせいじゃない。
心の形が変わってしまったからだ。
「あ、いや……これは……」
「……精神汚染のおそれあり。面会時間は終了です」
僕が言葉に詰まった瞬間、ハーモニーが割って入った。
彼女は冷徹に詩織の前に立ちはだかり、遮蔽壁のように僕を隠した。
「マスターには精密な
「……っ」
詩織は、何かを言いたげに僕とハーモニーを交互に見たが、血まみれの腕で笑う僕の姿が脳裏に焼き付いて離れないのか、耐えきれなくなったように口元を押さえ、部屋から逃げ出していった。
閉まる扉の向こうで、嗚咽する声が遠ざかっていく。
取り残された僕は、ただ自分の血濡れた手を見つめた。
助けたかったのに。笑ってほしかったのに。
どうして、僕は泣かせてばかりなんだろう。
◇◆
深夜。
隔離された手術室は、昼間とは違う、濃密な湿気に満たされていた。
無影灯の白い光だけが、手術台を照らしている。
僕はベッドに四肢をベルトで固定されていた。
これは拘束というよりは、暴走しかねない強化された肉体を制御するための安全措置だった。
僕の上には、一糸まとわぬ姿のハーモニーが跨っている。
顔が近づき、整いすぎた唇が重なる。
とろりとした感覚。
それはキスというよりも、高濃度の鎮痛剤を直接粘膜から流し込まれるような、医療行為に近い感触だった。
「
痛覚を失った脳は、ハーモニーの接触を全て快感として処理し、飢えた神経を潤していく。
淡々とした愛撫を受け入れながら、僕は思考を放棄していた。
地下生活でのルーチン。彼女は道具であり、これは治療。
だから僕は、まだ何一つ失ってはいないはずだ。
カチャリ。
その時、静寂を破るように電子ロックが解除された。
唇が離れる。
闇の中から現れたのは、漆黒のドレスの少女――音無詠だった。
「おやおや。随分と熱心な
詠は悪びれもせず、ヒールを鳴らして近づいてきた。
彼女はベッドの脇に立ち、治療中の僕たちを見下ろした。普通なら赤面して目を背ける場面だが、彼女の赤い瞳は、深夜の厨房で極上の肉を見つけたような、狂気的な輝きを放っていた。
「素晴らしい……。昼間はタオルで見えなかったが、まさかここまでとは」
彼女の視線が、拘束された僕の全裸――継ぎ接ぎだらけの肉体に釘付けになっている。
黒く変色した右腕。肉に埋まった金属片。そして赤黒く腫れ上がった手術痕。
「腐りかけた肉と機械のハイブリッド。……ああ、なんて歪で、そそる姿なんだ」
詠はニヤリと笑い、自らのドレスの肩紐に指をかけ、暗闇に白い肢体を晒した。
「侵入者、音無詠。退去を勧告します」
「待ちたまえ、
詠はハーモニーとは反対側から、強引にベッドへ上がり込んできた。
――ッ。
僕の脳内で、唐突に警報が鳴り響いた。
ハーモニーは機械だ。ノーカウントだ。
だが、詠は人間だ。生身の女性だ。
彼女を受け入れたら、言い訳は通じない。僕は決定的な何かを、この場所で取りこぼすことになる。
「待て……! お前とは、ダメだ……!」
僕は身をよじって拒絶しようとした。
だが、分厚い革ベルトが四肢を食い止める。
「ダメ? なぜダメなんだい? こんなにいい身体になっているのに」
詠が挑発的に僕の唇を奪い、その柔らかな身体を、金属の食い込んだ腕に押し付けてきた。
瞬間、頭が真っ白になった。
アンドロイドにはない生々しい体温。まとわりつくような女の匂い。嘲笑うような、けれど熱烈な舌使い。
それらの刺激が、ハーモニーの整然としたリズムとは違う、凶暴な快楽となって僕を襲う。
抵抗しなければ。
これは、僕の大事なものなんだ。こんな奴に、こんな場所で捨てたくない。
「くっ、うぅ……ぁ……!」
しかし。
リビルドによって強化され、痛覚を失った僕の身体は、詠という新しい強烈な刺激に対して、幼い理性など無視して歓喜の声を上げていた。
脳が拒めば拒むほど、飢えた神経は貪欲にその感覚を飲み込んでいく。
「……あはっ、すごいな、これ。お前、拘束されてるのにこんなに……」
詠の勝ち誇ったような、そして驚きを含んだ声が鼓膜を震わせる。
悔しい。悲しい。
けれど、気持ちいい。
機械の完璧なリズムと、人間の無軌道な情熱。
その二つに挟まれ、僕の中にあったささやかな一線は、音もなく融解した。
(……ああ、もう。どうでもいいか)
大切なはずの顔が、快楽の波に洗われて霞んでいく。
ただ繋がっているだけの、一方的な蹂躙。
その夜、僕の小さな拘りは死んだ。
後に残ったのは、大切なものを喪失した虚無感すらも、この圧倒的な気持ちよさで埋めてしまえる、浅ましく悲しい怪物だけだった。
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