君が愛した神楽奏は、プロローグで死んでいる

すまげんちゃんねる

第1章 エピローグから始めよう

第1話 肉人形(マリオネット)の英雄

 サーバーの低い駆動音だけが、コンクリート打ちっぱなしの壁に反響していた。


 埃と硝煙、鉄錆と消毒液、そして微かに残る誰かの血の匂い。

 それらが混じり合って淀むこの拠点が、神々とかいうふざけた連中に与えられた、俺たちの仮初めの日常だった。


 モニターの群れが放つ青白い光だけが、部屋の唯一の光源だ。

 そこに明滅する無数の文字列と幾何学模様だけが、この世界の真実であり、俺が信じるに足る唯一のものだった。


 俺はゆっくりと瞬きをする。角膜の乾燥を防ぐための、反射運動。

 ただそれだけの、生命維持に必要なだけの、純粋な機械的動作だった。


「奏くん! お願いだからズボンを履いて! 人としての尊厳の問題!」


 甲高い、しかし芯の通った声が、無機質な静寂を切り裂いた。


 声の主は歌枕うたまくら詩織しおり。腰まで伸びた濡れ羽色の髪をポニーテールに揺らし、凛とした表情を羞恥に染めている。

 その視線は、モニターを見つめる俺の顔と、下半身に纏ったボクサーパンツとの間を、非難するように行き来していた。


 彼女の懇願にも、俺はモニターから視線を外さない。

 そもそも、彼女が何を言っているのか、その意図が本質的に理解できない。尊厳。数値化できないパラメーターに、どれほどの価値があるというのか。


 俺はただ、合理的ではない、と判断しただけだ。

 ボクサーパンツ一枚。この拠点の温度と湿度、そして次に起こるであろう戦闘への移行速度を考慮した上で、最も快適で、動きを阻害しない最適解。

 そこに、彼女が言う“尊厳”などという不確定な要素が入り込む余地はなかった。


 その時、ふわりと背後から甘い香水の匂いがした。闇に溶けるような、蠱惑的な香り。

 華奢な指先が、俺の背中に刻まれた古傷の跡を、まるで聖遺物に触れるかのように、愛おしむようにゆっくりとなぞっていく。


「フフ…詩織、無粋なことを言うでない。我が主のこの肉体こそ、我らが生きた証。血と鋼で綴られた、至高の芸術品であろう?」


 漆黒のゴスロリドレスに身を包んだ少女、音無おとなしよみが、俺の肩口に顎を乗せて囁く。その吐息が、耳朶をくすぐった。

 彼女の指は傷跡から、俺の右肩へと滑る。そこは皮膚がケロイド状に盛り上がり、鈍い金属光沢を放つ不自然な痕跡が残っていた。かつて腕を失い、ハーモニーの緊急蘇生術で強引に接合した名残だ。


「この無機質な肌の感触…お前の魂の在り処のようだ。なあ、奏」

「…っ! 詠、奏くんから離れなさい!」


 詩織が声を荒らげる。その声には、羞恥だけでなく、詠に対する明確な嫉妬の色が混じっていた。


「その変態行為をやめろ、詠!」


 カシャン、と硬質な音を立てて、銀色の鎧に身を包む騎士、クレシダ・リリックが立ち上がった。異世界から召喚されたという彼女は、その蒼い瞳に怒りの炎を宿し、詠の細い腕を掴んで俺から引きはがした。


「ああ、邪魔をするな、鉄の女。私は今、奏と一つに…」

「黙れ! 貴様の歪んだ愛情表現は、見ていて気分が悪い! 隊長への敬意というものがないのか!」

「おやおや、羨ましいのか? お前もこの美しい傷を、間近で愛でたいのだろう?」

「なっ!?」


 クレシダの言葉が、怒りとなって凍りつく。

 睨み合う二人の間に、険悪な沈黙が落ちる。クレシダの騎士としての矜持と、詠の倒錯的な独占欲。二つの感情が、言葉にならない火花となって散っていた。

 その沈黙を破ったのは、詩織の悲鳴にも似た仲裁だった。「もう、二人ともやめて! もう慣れたけど、慣れたくないの!」

 これが、俺たちの日常という名の、奇妙に安定したシステムだった。


「マスターとチームメンバーの交感神経優位状態を確認。心拍数の上昇、アドレナリン分泌量の増加、共に許容範囲内。これは一種のウォーミングアップと判断します」


 淡々とした声が、彼女たちの喧噪に割り込んだ。俺の背後のコンソールを操作していたアンドロイドの少女、ハーモニーだ。

 俺の心拍数は終始、毎分六十を維持していた。対して、彼女たちの心拍数は百二十を超えている。

 この差こそが、俺と彼女たちを隔てる決定的な壁だった。


 ウーーーーッ! ウーーーーッ!


 甲高いサイレンが鳴り響き、拠点全体が赤色の非常灯で明滅を始めた。

 さっきまでの茶番劇が嘘のように霧散し、肌を刺すような緊張が場を支配する。


 モニターに、新たなミッションが表示された。


【緊急ミッション:旧第一中央病院に巣食う寄生型生命体「リッパー」の駆除、および生存者の救出】


 リッパー。

 その名前に、ヒロインたちの顔が強張る。

 人間に寄生し、宿主の四肢を刃物のように変質させ、他の人間を切り刻むことを至上の喜びとする、悪趣味な怪物。


「また、あの化け物か…」

 クレシダが、忌々しげに呟く。前回遭遇した際、彼女の自慢の盾には、今も消えない深い傷が刻まれている。

 詩織は、ゴクリと息をのんだ。彼女の脳裏には、壁一面に飛び散った血の赤色が、フラッシュバックしているのかもしれない。


 だが、俺の心は凪いでいた。

 ただ、無数のデータが頭の中を駆け巡り、最適な解を導き出していく。


「作戦プランを伝える」


 俺は振り返り、パンツ一枚のまま、彼女たちを見据えた。

 壁に立てかけてあった戦闘ジャケットを羽織り、タクティカルベルトを腰に巻く。その体に刻まれた無数の傷跡や変質の跡が、非常灯の赤い光に照らされて、生々しく浮かび上がった。


「リッパーは、獲物の恐怖心を嗅ぎつけて集まる習性がある。その性質を利用する」


 俺は、ヒロインたち一人一人を、まるで手持ちの駒の性能を確認するかのように、ゆっくりと見回した。

 詠は、面白そうに笑っている。恐怖すら、彼女にとっては最高のエンターテインメントだ。

 クレシダは、屈辱に耐えるように唇を噛んでいる。騎士としての誇りが、恐怖に打ち勝っている。

 ハーモニーは、感情なくこちらを見つめている。アンドロイドである彼女に、恐怖という概念はない。

 そして、詩織は…。

 その瞳が、恐怖に怯え、僅かに潤んでいるのを、俺は見逃さなかった。彼女は、必死に気丈に振る舞おうとしている。だが、その指先が小刻みに震えている。

 完璧だ。これ以上の素材はない。


「陽動役として、最も効率的なデコイが必要だ」


 俺は詩織の前まで歩くと、彼女の震える顎に指をかけた。無理やり顔を上げさせる。


「生存していると思い込んでいる人間の、純粋で、穢れのない恐怖心ほど、奴らを惹きつけるものはない」


「ひっ…」


 詩織が、小さな悲鳴を上げた。抵抗しようとする彼女の身体を、俺は力でねじ伏せる。


「いや…やめて、奏くん…」

「命令に逆らうのか?」

 俺が冷たく問い詰めると、彼女の瞳から大粒の涙が零れ落ちた。

 パラメータ「恐怖」、最大値。

 これで、この駒の性能は最大限に引き出された。ミッション遂行における、有効な変数だ。


 詩織は、震える唇で、何かを言おうとしていた。


 【対象:歌枕詩織 / 行動パターン分析】

 モデルA (87.4%):パニックに起因する無意味な音声信号の発信。

 モデルB (11.9%):俺に対する懇願、あるいは抵抗の表明。

 モデルC (0.7%):自我崩壊、あるいは自己への物理的加害行為。


 俺の脳内リソースが、無数の思考シミュレーションを展開する。

 その時、対象の口から、定義済みのどのモデルにも該当しない音声信号が発せられた。


「…わかったわ」


 観測された、新しいパターン。

 【モデルD】として、これをデータベースに仮登録する。


 対象は自らの手で涙液を乱暴に拭うと、その網膜で、俺の光受容体を正確に捉えてきた。


「いいわ、奏くん。私が餌になる」

「…それが最も合理的な判断だ」


「違う」


 対象は、否定の意を示す頸部の運動を行った。


「これは、


 選択。

 定義が曖昧な、非論理的な単語だ。


 対象は、クレシダ、詠、それぞれの個体に向かって、協力を要請する旨の音声信号を発信し始めた。

「詠さん、私の恐怖が最大限に増幅されるように…」

「クレシダさん。私が時間を稼いでいる間に…私たち全員を、必ず守ってくださいね」


 なるほど。

 対象は、自らの役割をデコイと再定義し、他個体との連携による生存確率の最適化を図ろうとしている。

 極度の精神的負荷が、対象の思考ルーチンに、これまで観測されなかった新たな論理構造を発生させたらしい。

 興味深い現象だ。


 俺の心は、動かなかった。

 もとより、そんなものは存在しない。


 ただ、この【モデルD】の行動パターンは、ミッションの成功確率を、当初の予測より0.2%引き上げた。

 それだけの、事実だった。

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