第10話:眠る光

 伊織の新生活が落ちつき始めた六月。

 ふたりは結人に会いに東海道新幹線に乗っていた。


 いま彼は、独りで暮らしているという。

 伊織の就職を機に、元々暮らしていた奈良市内の家から出て、生駒の山の裏手の平屋に越した。

 父と母と、ふたりで話してそう決めたのだという。


「仲、良いんですよ?たまにふたりで遊びに行ったりしてるみたいだし」


 伊織は駅弁をつつく合間に、そう言った。

 

 何かあった時は、互いに駆けつける。

 そんな約束だけを交わして、ふたりそれぞれの生を再び歩み始めている。

 

 京都で降り、近鉄特急で大和西大寺まで行ってから、生駒線に乗り換える。

 梅雨の晴れ間、若菜はガラス窓の向こうを流れていく景色を眺めながら、雲に透けた初夏の陽射しに浮かぶ街並みや田畑の緑を捉えていた。

 

 古都の匂いがする、と思った。

 どこか沈んで、古い桐箪笥の引き出しの奥のような。

 これが伊織を育んだ景色の匂いなのだと。

 そしてそんな空気は、山のトンネルを抜けるたび、すこしずつ水を含んでいくように感じられた。


 向かい合う伊織を見ると、疲れたのか、眠そうな表情で膝の上に置いたトートバッグの端を指で弄んでいた。

 そうすると、落ち着くのだというように。

 若菜は静かに息を吐く。


 登山口で降り、山麓の涼しく湿った空気の中で、若菜は一度大きく伸びをした。

 それで、準備は整った。


 ケーブル線に乗り、拾ったタクシーの中で、伊織が口を開く。


「最初は、私から話してもいいですか?」


 伊織は結人にはただ、会って欲しい人がいる、とだけ伝えていた。

 女性で、大切な人で、きっと知っている人だと。

 彼は電話口で、有名人かな?と笑った後、わかった、とにかく会うよと、楽しげに返事をした。

 

 伊織の言葉に、若菜が手を重ねる。

 ひやりとしていた。


 タクシーから降りた後、傾斜のかかった細い山道を登る。

 水を吸った土は重く、ふたりの足跡を記憶するように沈んだ。

 濡れた苔が光り、紫陽花がむらさきを孕んでいた。


 登りきると、路が少し開ける。

 碧い木立の向こうに、小さな平屋の灰色の屋根が見えた。

 白いモルタルの外壁はところどころに細い亀裂が走り、ツタが這っている。


 伊織は一度だけ、ここに来たことがあった。

 彼が越してすぐの頃、話せるうち話したいのだと、彼が招いた。

 なにか大きな病でも見つかったのかと、当時の伊織は不安を覚えた。

 ただ彼は微笑みながら、いつ何が起こるか分からないから、と。


 門は開いていて、庭には石畳が続いている。

 白い壁に反射した光を受けて、花壇に咲いた透き通るような澄んだ白が揺れた。

 トルコ桔梗だった。

 薄い花びらが、露を纏って透けている。

 

 伊織がしゃがみ込み、指先で花弁に触れる。

 若菜はその横顔を見つめながら、胸の奥に痛みを覚えた。

 

 この花は、結人が植えたのだろう。

 きっと、誰かを想って。


 庭の奥の軒先には、ガラスの風鈴。

 風が吹くたび、消え入りそうな音が鳴り、山の静けさの一部となって溶けていく。

 ベンチの上には、雨ざらしになった古いノート。

 ページの隅が波打っていて、何かの走り書きが覗いていた。


 似ている、と若菜は思った。

 具体的にどこがどうというわけではない。

 一見して全く別物なのに、文乃の庭を髣髴とさせた。

 

 伊織はゆっくりと玄関に手を伸ばすと一度若菜と目を合わせる。

 ふたりして、微笑む。

 そして、小さくノックをした。


 風鈴が音を立てる。

 トルコ桔梗の花が、風に揺れる。

 

 それから、扉の向こうで、足音がした。


 


 *



 

『どうしても、あの人の子どもが欲しかってん』


 それは、母の言葉。

 

『そろそろ、子どもが欲しい』


 それは、妻の言葉。


 役割としての子ども。役割としての夫。

 彼女らに悪意などないことは、彼にも分かっていた。

 妻に関しては、当然の権利だとも、思った。

 ただ、それは彼にとっての〝再演〟だった。


 元愛人の母にとっての自分。

 それは、母の妻としての正当性を証明するもの。そのことを、彼は肌で感じていた。

 たくさんの愛情を注がれ、申し分ない環境を与えられ、前妻の子より優れていなければならなかった子。

 幸福であることが、課された子。


 同時にそれは、母の過去の不幸を証明するためでもある。

 彼女は不幸で、だからこそいまの幸福と愛に浴する権利があるのだと。

 彼の悩みも苦しみもすべては些末なことでなければならない。

 それは母が子への嫉妬かもしれなかった。

 

 恵まれた環境にいるにもかかわらず、なにかに文句を言う資格は、彼にはない。

 彼は常に、悩みのない子どもである。

 そうでなければ、惨めになる。

 そんな淀みが、日々の中で、ゆっくりと澱のように沈殿していき、揺さぶられると撒きあがった。

 

 彼女は彼に、時折零した。

 どうしても、夫の子どもが欲しかったのだと。

 なぜそんなことを、繰り返し自分に言うのだろうか。

 彼にはそれが、長らく不思議だった。


 そして妻の紗季から子どもが欲しいと言われたとき、なんだかひどく、空虚な気持ちになったわけも、その時の彼にはわからなかった。

 

 子どもについては、どちらでも良いと思っていた。

 紗季が望むのであれば、叶えてあげたい。

 

 でも、本当は、自分はそんなに子どもが欲しくないのかもしれない。

 あるいは、自分と同じ気持ちをさせたくないという重責の方が、先に圧し掛かるのかもしれない。

 それでもそれは自分がずっと望んてきたはずのことだった。愛した人と、自分だけの家庭を作ること。

 そして、淡い憧れもあった。

 それが大切なパートナーに負担を強いることだと知りながらも、でもだからこそ、命を繋ぐため、ふたりで手を取り合うことの尊さ。

 

 ――だから、これでいい。

 

 紗季が子どもを欲していることは、結婚する前から分かっていたことだ。

 なら、応えるべきだ。

 紗季の時間を奪ってきた責任がある。拒めるはずもない。

 もちろん、責任感だけじゃない。

 大切な人だ。間違いなく。


(……たぶん、あの時が初めてだった)


 痛みを抱えた女性たちの激しさを一方的に受け止め続けることに疲れ、彼は落ち着いた紗季と一緒になった。

 紗季には根深い渇きがなかった。彼が求めればそれを歓びとともに受け入れることはあれど、積極的に彼を求めることもまたない。

 そんな彼女に彼は時折不満をもらした。自分ばかり求めているようで寂しいのだと。

 そういう時、彼はいくらか、かつての女性たちが抱えていた痛みが、求めが、恋しくなった。

 その度、自己嫌悪に苛まれた。

 身勝手なものだと、すぐに感情に蓋をした。


 だから、どこかで諦めていた。

 そんなものはただの自分の我儘だと。


 あるとき、妻が初めて自ら彼を夜に誘った。

 そろそろ子どもが欲しい、と。

 

 やがて子が生まれ、妻はどんどんと母になっていって、彼にはわかった。

 妻は、娘がいることで、ほぼ十全に満たされてしまうのだと。

 かつて自分が彼女から得ていたものは、やがて子に向けられる為の母性の余剰。

 子を成した時点で、自分に求められるものはもう、父としての役目だけになってしまった。


 ずっと、誰かを愛することのできる人間になろうとしてきた。

 そうして、役目ではなく、愛されたかった。

 ひとりの男として、人間として、求められたかった。

 その先で、子どもにも愛を注げるなら、それはきっと素晴らしいこと。

 ただほんのすこし、彼、月城結人と、妻の紗季とでは、求める愛のかたちが違っていたのかもしれない。

 

 誰も悪くない。

 ただ、選んだ以上、それを全うする責任がある。

 そのために人生を捧げる。

 それがというもの。

 それだけのことだった。


 ああ。きっと僕は、乗り越えたかったのかもしれない。

 母が父に求めたように、他ならぬ自分の子を請われ、そうして生まれた愛の結晶を、愛の証明という役割としての子ではなく、ただひとりの人間として愛する。

 そういうことが、したかったのかもしれない。

 

 ――あなたの子どもが欲しい。


 自分が欲しかったのは、ただのそんな一言だったのだろう。

 子どもを育てるということを、あなたとしたい。

 あるいは、そんな言葉でも、よかったのかもしれない。

 

 ――あなたと生きたい。

 

 そんな風に、そこにきちんと、他ならぬ自分の姿が映っていさえすれば。

 

 だからある時、ついに堪らなくなって尋ねた。

 君は僕の子どもが欲しかったの?と。

 さすがにそんな訊き方をすれば、それはそうでしょう、と答えそうなものだと思った。

 なんて出来レース。

 そんな風に思いながら、自嘲しながらも、問わずにはいられなかった。

 

 紗季はしばらく考えたのち、答えた。

 ただ、なんとなく、漠然と子どもが欲しかったのだと。


 彼は思った。

 普通は、そんなものかもしれないな、と。


 何も感じるな。何も考えるな。

 歯車として、普通に生きろ。

 諦めろ。



 

 ……どうして僕は、家族が欲しかったんだっけ。

 

 

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