クラウドナイン4th No biggie
みなかみもと
プロローグ
プロローグ
ステッキの先が、勢いよく左瞼に当たった。
瞬間、赤い物がパっと飛び散り、少しして思い出したように激痛が襲い掛かる。
「お前は何故、おれの言う事を聞かない?」
目の前にいる男は、殴ったステッキで己の手を叩きながらこちらを見降ろす。男の背後では、母親が不安気に男の方を見つめていた。息子ではなく、男の方を。
綺麗な人だ。
母親だが、それでも分かる。
本当に綺麗な
だから、皆、彼女に群がり、彼女を求めるのだ。
その母親と、昔の男との間に出来た自分は、義父からしたら目障りでしかないのだろう。何かの拍子に昔の男を思い出させる義理の息子なんぞ、いらないのだろうと分かりながらも、これまで耐えて、耐えて、耐えてきたのは、母親の為だ。
だが、もう、無理だ。
自分に嘘が吐けなくなった。
「ここを出て行く」
聞かれたことには、答えず、意志だけをハッキリと伝えた。
その言葉に、義父の額に青筋が浮かぶ。
「お前は……これまで育ててやった恩も忘れて……!」
再度ステッキを振り上げてくる相手に、体が瞬間強張った。
これまでずっとそうだった。
何かあれば、男はすぐに手を挙げ、拳を上げ、脚が悪くなるとステッキを振り上げた。
それを無言で受けてきた。受けるのが当たり前だと思っていた。
少しでも痛みを少なくするために、体を固くして衝撃をやり過ごすことだけ覚えた。
でも、それはどうやら間違っていたらしい。
異国の友人が、つたない共通語でずっとずっと、伝え続けてきた。
ぼくは、きみがきずついているのは、いやだ
手紙の最後に、そうとだけ書いてあった。
その言葉は、呪いのようであって、救いのようだ。
何も知らない癖にと腹立たしく思うと同時に、そうか、自分が傷つくのを嫌だと言ってくれる人がこの世界にいるのか、と気付かされたのだ。
空が青い事を知るように。
水が冷たい事を知るように。
伸ばした手に当たる陽の光が温かなことを知るように。
「俺は、でていくっ!」
恐怖を振り払うには大声を出せ。
変えたければ走り出せ。
叫ぶと同時に、駆け出した体は、義父の巨体に激しくぶつかった。
その拍子に、振り上げたステッキの重心の乱れ、自分よりも背が高くなった義理の息子の体重で、男は大きくバランスを崩して、背中から地面に倒れこんだ。
巨体が倒れる大きな音と、痛みに呻く声が響く。その拍子に、扉の向こうから、弟と妹が不安気にこちらを覗いたのが分かった。
不安そうに、悲しそうに。
特に、妹の方は賢いから、これが永遠の別れになることを察していたのだろう。
「おにいちゃん!」
悲鳴のような声をあげた妹の方に、すぐさま起き上がって駆け寄り
「ごめん。俺は行く。風邪をひくなよ」
と頭を撫で、信じられないという面持ちでこちらを見上げる弟に
「すまない。母さんをよろしく頼む」
と伝えて、肩を抱いた。
だがゆっくりはしていられない。男がステッキを支えに立ち上がろうとしている。その顔は怒りに震え、口には泡を浮かべていた。
ふと見ると、彼の傍で、母がひざまずき、その背を支えていた。
分かっていた。
母は、間違いなく義父を助けることを。
だから、いっそ清々しい気分だ。
こんな時に、少しでも未練を残すような動きをされては、困る。
彼は、そんな母を真っすぐ見据えると、頭を下げた。
「不出来な息子で、すみませんでした」
「……タジャ」
一度だけ、母が自分の名前を呼んだ。
ここの家に来てから、ずっと呼ぶなと言われていた、生まれた時につけられた名前だ。
その名を呼ばれた瞬間、胸に一瞬後悔が浮かぶ。
このまま自分が出て行ったら、母はどうなるのだろうか。
だが、もう心も、体も止まらなかった。
「さよなら、母さん」
そうとだけ言うと、タジャは出口に向かって駆けだした。
靴は、取られた。母屋に入室する際に、逃げられないようにと。
手紙は、燃やされた。馬鹿な異国の者に、惑わされやがってと。
だが、それならそれでいい。
背後から怒声が聞こえたが、タジャは止まらず母屋の玄関を目指す。途中、女中のアマハレが「坊ちゃん!」と泣き声を上げたが、それも聞こえなかったことにする。
左目が痛い。
血が流れて、良く見えない。
それでも、大きな大理石で出来た玄関を飛び出し、広大な庭を通り、白い門をくぐり抜けた時、タジャの心には後悔の念と、どうしようもない解放感で充ち溢れていた。
裸足に、路面の石が刺さる。痛い。
走ることで乱れる呼吸は、そのまま心臓を動かすための動力のように思えた。
空が高い。
月は白い。
夜道は何も見えないはずなのに、月光が彼の行く先を照らしてくれる。
タジャは走った。
どこまでも、どこまでも、走った。
もう自分に家族はいない。
知っている者もいない。
本当の、天涯孤独になってしまった。
でも、でも。
思いながら、彼は走る。
孤独は、自由だ。
「タジャさん」
呼ばれて、ふっとタジャは目を覚ます。
いつの間にか眠っていたらしい。
自分の膝の上では、魔導盤が開いたままになっていたが、自動的に動力が落ちていた。列車の揺れに、よく落とさなかったものだと思いながらも、呼ばれた方を見ると、そこには東部人の少女が、心配そうにこちらを見上げていた。
居眠りなんて、久しぶりだ。数日続いた疲労が、まだとれていなかったらしい。
その時、ヒヤリと心地よい手が横から伸びて、己の額にかかった。
驚いて振り返る。
少女が――セイが、心配そうにこちらを見上げていた。
「嫌な夢?」
その手に触れられると、夢の残りだった痛みが消えていく。夢でも痛みを感じることはある。記憶の夢は、そのまま過去の痛みを引き連れてくるのだ。
「顔が、怖くなってました」
そう言って、その手をゆっくり額から頬にあててくる。滑らかな手の感覚が心地いい。
「……今、どのあたりだ?」
いつもならば撥ね除ける手をそのままに、タジャはどうにかそれだけ呟いた。
言って、自分の声が随分と低くなっていることに気が付く。当たり前だ。
夢の自分は十三歳。今の自分は二十三歳だ。声も低くなる。
「今は、セルテスを越したところです。さっきまで段々畑が見えてました」
小さくそう呟いて、セイが顔から手を離す。
もう少しの間、その手に触れてほしかったと思う心に気が付いて、タジャは眉をしかめた。セイに対する「気持ち」を確信してから、自分の思考回路は少し、いや、かなりおかしい。
今でも気を抜くと、その手を握りしめたくなる。
「乗り換えまであと一時間はありますから……寝ててください」
心配そうな口調に、思わず頷きかけたが、そうもいかない。
魔術師のエキスパートである少年神父から取り出したデータを、イースティン到着までにはまとめておきたい。上司である経営者二人が、今頃ミットレンでは魔術制御装置の基盤を作り始めている頃だろう。
予定では彼らがイースティンに到着するのは五日後。
到着と同時に、出来上がった基盤に制御データを打ち込めば、ひとまず簡易ではあるが魔術制御装置は出来上がる。
「……それはなんですか?」
こちらの申し出を無視して、無言で入力を進める青年の様子に、セイは横から魔導盤を覗き込む。だが、打ち込まれている記号や文字列の意味合いがさっぱり分からない上に、説明もしてくれないので、仕方なく己の席に座り込んで窓からの景色を眺めた。
少し不貞腐れた様子の彼女の横顔を見て、タジャは魔導盤を操作する手を止める。
「……お前こそ、寝てなくていいのか?」
そう訊ねると、セイは少し驚いたようにこちらを見たが、すぐさま景色の方に視線を戻す。
「いいんです。結構、楽しいから。それに今しか見れないものもありますし」
「……ここ最近で、四回は同じ景色を見ているんじゃないのか?」
一度目は検査のため、二度目はタジャの体調不良を心配して、セイはこのひと月の間に往復で四回は同じ線路を通っている。それほど変化があるようには思えないが。
「……景色は同じですけど」
そう言って、セイが再びチラリとこちらを見た。
その口ぶりが何か隠しているようで、気になる。いったい何を見たというんだ?
「試験勉強はいいのか?」
前日に弁理士試験対策講座を修了したばかりのはずだ。すぐさまその話題を出すのも、些か気忙しく思われるかもしれないが、セイはその言葉に少し苦笑する。
「……勉強しますよ? でも、今日はちょっとお休みします」
「なぜ?」
車の同乗中でも、常に単語カードを捲っていたセイだ。確かに講座終了した翌日くらいは休みたい気持ちも働くことだろうが、これだけ長時間乗車しているのだから、時間を無駄にする方がおかしい。
と思う、勤勉なタジャとしては。
そんな彼の気持ちを読み取ったのか、セイは肩をすくめて窓の外を見た。
「……お休みしないと、次の行動に移せない時もあるんです」
そういうものだろうか。これまでほぼ休みなく突き進んできたタジャとしては、むしろ休む事の方が恐ろしく感じる。
だが、セイは再び彼の心境を読み取ったらしく
「みんなタジャさんみたいに、ずっと倒れないで頑張れる人じゃないですよ~」
と笑った。
その笑顔に虚を突かれて、タジャはつい黙り込む。
急に静かになった青年に、セイは少し慌てた。
「あ、別に、悪口じゃないですよ? タジャさんは、ほら、超人的な所があって、逆にそれを褒めてるんですけど……」
「わかってる」
素っ気なく返して、タジャは再び魔導盤へと視線を戻した。キーボードを打ち込む操作音が再び響き出すと、セイは少し呆れたような顔になって外を眺める。
今しか見られないものは、ある。
少なくとも、その超人的青年の、居眠りしている顔なんて、他では見られない。
でも絶対に言わない。寝顔をずっと眺めていたと言ったら、きっと怒るだろうから。
経営者二人がイースティンに来るまでの五日間、二人っきりで過ごすのだろうか。
前回イースティンに行った時は「男女の営み」についての過剰な知識を取得したばかりで、変に意識して顔も見られなかったが、今セイの気持ちはとても凪いでいた。
何故だろう?
考えて、ふとセイはタジャの顔を見る。
魔導盤の方を見ているとばかり思っていたのに、タジャと目が合った。慌てて横を向く彼の事を不思議に思いながら、セイは思っていた疑問を口にする。
「タジャさん」
「……なんだ?」
「人工呼吸ってしたことあります?」
「なに?」
問われた意味が分からないのか、思わず聞き返してくる青年に対して、セイは更に聞いた。
「あと、人工呼吸は、キスにカウントしますか?」
「き……」
瞬間、絶句する青年に、セイは畳みかけるように訊ねた。
「悪魔に口を吸われるのはキスでしょうか?」
「ちょっと待て、何を聞いているんだ?」
「だからキスを」
「その単語は、もう、いい」
眼鏡の下に手を入れて瞼を抑える青年に、セイは首を傾げる。何故、そんなに照れるのか? 客観的意見を聞きたい、いや、主観的な意見を聞きたいだけなのに。
ややあって、青年が同じ姿勢のまま、絞り出すように呟いた。
「……人工呼吸も、悪魔のも、カウントしない」
「キスでは無いと?」
「だから、その単語は、もういい」
更に横を向くタジャを見て、セイは何故そんなに恥ずかしそうに彼がしているのか不思議に思いながらも、納得した。
そうか、キスではないのか。
ならば、悪魔に吸われたのも、タジャさんに私が人工呼吸したのも、カウントしない。
つまり私のファーストキスは「まだ」というわけだ。
そう考えると、ふと少しだけ残念な気持ちが胸に宿る。
悪魔のおばあさんとのがファーストキス? え? それが残念なのか?
と自分で不思議に思いながらも、そう言えばタジャさんは、私が人工呼吸したことは気づいているのだろうか? とも考えた。
だが、振り返った青年は未だに横を向いたまま目を抑えている。
ふむ。存外、ウブ。
「あの、タジャさん?」
「……なんだ?」
どうにか気を取り直したのか、手を下ろした青年に、セイは訊く。
「キスした事、ありますか?」
「だからさっきからなんなんだ!?」
苛立たし気な声で言われたので「言いたくないなら、いいです」とだけ伝えて、横を向く。「私は、したこと無いですけど」
あれをカウントしないなら、私は、まだ。
でも、きっとこれからもずっと、しない。
そう思うと、ふと胸の中の凪ぎが広がるように感じた。
そうか。自分で決めたから、気持ちが凪いでいるのか。
管理人と、従業員の関係でいることを、決めたからだ。
……楽だな。
だけど、凪はいつも、少し切ない。
そんな風に少女が考えている横で、若き魔導工学者は表情に出さないようにして、内心尋常ではない焦りを感じていた。
あのバスルームでのことを、セイは覚えていないと言っていたが、嘘だったのか?
俺が、夢だと誤解したとはいえ、キ……キスをしようとしたのを、セイは実は覚えているのではないか?
これは、もしや試しか?
策略なのか?
だとしたら、俺はどうするのが正解なんだ?
経営者二人が来るまでの五日間、二人で過ごす時間が増えるというのは、悔しいが、正直心躍る反面、無事に済むのだろうかと言う不安感が凄まじい。
特に俺だ。
なんでこんなにも焦っているのかが、分からない。
この焦りをどうにかしないことには……。
同じ方向を見ているようで、両極端な心情の若い二人を乗せた列車は、大都市イースティンへとひた走る。
向かうその先に、新たな難題が待ち受けていることなんぞ、露とも知らせないままで。
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