2.妖精と苺のケーキと黒い魔物の子

 産声をあげなかったと報じられた黒髪黒目の子は、三歳になった。

 金の髪の優しい父王の慈悲によって斬首を逃れた―――といった心温まる話では勿論なく、小さな魔法使いの国のどんな処刑人が刃を振り下ろしても、その赤子の身に傷のひとつもつけることができなかっただけの話である。

 以降、『それ』とか『あれ』とか呼ばれている子供は、王宮の敷地の外れの、放棄されて久しい半分崩れた離宮に放逐されていた。

 乳飲み子の間の世話は罪人に連座させられた女の中から一人が選ばれ、王宮魔術師が月に一度だけ遠くから様子を確認した。

 侍女もおらず、従僕もおらず、調理人や庭師といった者もつけられなかったので、乳母替わりとなった女がすべて自分でこなしていた。平民にとっては造作もないことだったので、むしろ彼女は、連座して首を刎ねられることなく日々穏やかに暮らしていられる今の暮らしを大層気に入っていた。

 また、平民の中には暗い栗色の髪や、焦げたアンバーのような、暗い色の髪を持つ者は別段珍しくない。

 これ程真っ黒な髪と目を見るのは初めてだったが、夜泣きもせず、さしてぐずりもせず、時折何もない虚空に向かって笑いかけているご機嫌な赤子の世話は楽だった。多少、不思議に思うこともあったが、誰に言われた訳でもなく、この赤子がおそらく高貴などなたかの血を引いているのは確かなのだから、平民とは違っていて当たり前なのだと思っていた。昔から貴族の誰かが侍女や町娘に手を出す話は事欠かない。

 それがまさか王妃の子だとは思いもよらなかった女は、あのお優しい王様がどこかの貴族と平民の間に産まれた子を助けてやったのだろう、くらいに考えていたのだ。

 最近はあちこちと歩き回る様になり、どこからか手に入れてきた本などを裏手の大木の木陰で読むようになった子を眺め、女はふうと息を吐いた。井戸から水を汲み洗いあげたシーツを干し終え、さすがに肩が凝ったのだ。今日は天気も穏やかだからと地面に座り、建物壁を背もたれにした。

 春の陽気が心地よく、女はすぐにうとうとと微睡み始める。

 そんな女の様子を大木の根元から、黒い魔物の子がじぃと見た。

「眠ったようですよ」

 ふいに傍らからそんな声がする。

「そうね。きっと疲れたのね」

 さして感情の乗らないあっさりした口調でそれに答えて、子供はまた静かに本を読み始める。

 それは三歳の子供が手にするには分厚すぎる重厚なもので、しかも星屑を集めたようなキラキラとした不思議な光がいくつも周りを飛び回るものだった。

「気に入りましたか?」

 熱心に読み進める子供に、傍らの男は優しい声で尋ねた。

 執事のような黒い三つ揃えに、細い銀鎖のついた銀縁眼鏡、胸ポケットには艶やかなシルクのハンカチーフが飾られている。金の髪の王の傍に控えていてもおかしくない立派な従者姿だが、それはあり得なかった。男の背中には透ける氷のような、あるいは宝石を薄く削りだしたような六枚の羽が畳まれているからだ。

 そのうちの一番外側の大きな羽を『外羽』または『飾り羽』と言い、閉じた時に最も背中側の羽を『内羽』または『秘羽』というのだと教えてもらったのは、いつのことだっただろうか。

 陽光を受けてキラキラと輝く妖精の羽を見つめ、それから、本を大事そうに抱えて「ありがとう」と礼を言った。

 執事姿の妖精はにこにこと嬉しそうにしている。

「お礼ならばわたくしよりも、こちらの方に」

 そう言って示したのは、執事姿の妖精よりも少し若く見える男だった。

 腰まで届く長い髪は子供と同じように真っ黒だ。闇を煮詰めたように艶やかな髪を後ろで一つに束ねている。子供が本を読んでいる間に、勝手に出したガーデンテーブルと椅子に腰かけ、テーブルには好きに紅茶や茶菓子を出した男は、暗闇の中でもよく光りそうな金色の目をこちらに向けて優雅に紅茶を飲んでいた。

「あの、ありがとう…ございます」

 子供はおずおずと礼を述べたが、キラキラとした星屑が滴る不思議な布で織られた三つ揃えを着た男は、子供の礼に対して面倒そうに片手を振った。

「魔導書のひとつやふたつ、礼には及ばんぞ」

「ご安心を。これは照れ隠しでございますよ」

 横合いから執事姿の妖精が茶々を入れ、男は小さく「おい」と牽制した。

「お話した通りでございましょう?」

「まあな。まさかこれ程とは思わなかった。よくもまあ、これだけタラシこんだものだ」

 何やらそんなことを言い合って、執事姿の妖精が上機嫌にニコニコしている。

 ざあっと風が吹いて大木の葉を揺らす。

 まとわりつくような風に男は小さく舌打ちをして「わかった、わかった」と煩そうに風を手で払った。

「春風の妖精たちが、我が君の暴言に腹を立てているのですよ」

 にっこりと上品な笑顔を浮かべて、執事姿の妖精が解説してくれる。

「暴言?」

「ええ。たらしこんだ、などと下品な言い方をするから、機嫌が悪くなってしまったのでしょう」

 説明してから、彼は「少し難しかったですかね」と付け足した。

 おそらくは真面目な、そして大人寄りの話だったに違いないのだが、なぜ春風の妖精たちが怒っているのか理解するよりも先に、子供は自分でも思ってもみなかったような大きさでぐううううっと盛大にお腹を鳴らした。否、鳴らしたというのは語弊がある。静かにしていたくても、空腹になれば腹は鳴るのだ。

「なんだお前、腹が減っているのか」

 そう言って呆れたような顔をしたのは『我が君』と呼ばれた男だ。

「おいチビ、お前いくつになった」

「三歳だと、お城から来る魔法使いが言っていました」

「なあヴェイン。人間の三歳ってこんな大きさか?」

「平均的に目にするよりはお小さいかと思いますよ。春風の妖精たちが水に花蜜にと世話を焼いていましたし、暖炉の精も随分と気にかけて寒さを払っていましたが、妖精たちではヒトの食べるものは用意できなかったのでしょう」

「ふむ…」

 男はひとつ唸って、顎を指先でさすった。

「お前の世話をしている人間は、あそこで眠っている女だけか?」

 あそこで、と指をさした先には壁にもたれて眠り込んでいる罪人の女が居る。

 子供がこくりと頷くと、男は首を傾げた。

「ヴェイン。こいつは王家の娘じゃないのか?」

「正真正銘、あの人間の王と王妃の子ですよ。あれらは魔物の子だと思っているようですが」

「魔物、ね」

 含みのある言い方をして男は薄く笑った。その笑みはどこか自嘲気味でもある。

「おいチビすけ」

 ぶっきらぼうに呼びかけつつ、男は優しそうな微笑を浮かべている。

「お前、この城を出たいか?」

 それはとても唐突な質問だった。

 城とは言っても、子供が出入りできるのは半分崩れた建物だけだ。いつの間にかできた小さな川と、枯れていたはずなのに再び水をたたえるようになった井戸と、世話役の女が整えた小さな畑が、子供にとって世界のすべてだった。

 金の王様とその家族が住むお城は遥か遠くの丘の上にあり、どんなにすぐそこに見えていたとしても一切関わることのないその場所は、子供にとって窓枠にはめこまれた絵画と同じだった。

 分厚い魔導書を大事そうに両手で抱えた子供が「むぅ」と考え込んだのを見て、男は片眉をわずかに引き上げる。

「三歳じゃわからんか。すまなかった、まだ難しかったな」

 そう言って男は立ち上がり、数歩進んで子供の前にしゃがみ、その大きな手で黒い髪をした頭を撫でた。

「お前がそれを選べるようになるまで、俺からも少しだけ加護をやろう」

 男はひょいと子供を抱き上げ、例の勝手に出したテーブルに椅子を一つ追加し、そこに子供をぽいと座らせる。

 どこからともなくテーブルに新しい紅茶とケーキが現れ、くるくると雲を巻き取ったような綿砂糖が紅茶にぽとりと落ちて、小さな銀のスプーンがカラカラとそれをかき混ぜる。その隣ではほっそりした長いジェノワーズナイフが持ち手に巻いたチェック柄のリボンを揺らしながら大きなホールケーキを切り分けていた。

 すっかり準備が整ってしまうと、それらはくるりと向きをかえ、子供の前に綺麗に整列する。

 子供はこの不可思議な、夢のような光景にすっかり見入ってしまった。

「これは魔法ですか?」

「魔法ではないな。もう少し大きくなったら、お前にも見えるかもな」

「菓子の精や春茶会の精たちが給仕をしているのですよ。さあ、温かいうちに紅茶を飲んでおしまいなさい」

 執事姿の妖精に促され、子供は可愛らしいチューリップの花のようなティーカップに注がれた紅茶に口をつけた。

 熱すぎず、ほっこりと甘い紅茶はとても美味しかった。

「それを食べて、紅茶を飲んだら、今日のことは忘れてしまうんだぞ」

 頬杖をついて面白そうに子供を眺めつつ、男はそんなことを言った。

 子供は真っ白なクリームにたくさんのイチゴが乗ったケーキを頬張りながらこくりと頷く。こういう時はどうして? と聞いてはいけないのだ、といつか執事姿の妖精が言っていた。

「食い物は逃げないぞ。もっとゆっくりよく噛んで食え」

 空腹からふたつめのケーキに手を付けた子供を、男は呆れながらも優しい目で見守っている。

 そうしてすっかり食べ終わってしまうまで気長に眺めて、子供がこくりこくりと微睡み始めると、春風の妖精たちに命じて子供を部屋のベッドへと戻させた。

 心配性の暖炉の精がついて行ったのを、男は苦笑交じりに見送る。

 ぱちりと指を鳴らしてテーブルの上を片付けてしまい、春風が離れたせいで少し風が肌寒くなったのか、柔らかな膝掛けを取り出し膝に乗せる。

「ヴェイン、人間の王の城へ久しぶりに誰か使いをやってくれ。ひとつ手紙を預けよう」

「文面は何としましょうか」

 ヴェインと呼ばれた執事姿の妖精が問えば、彼のすぐ傍に美しい便箋と羽ペンが登場する。

「十六になった夜に、黒薔薇と黒曜石の娘をもらい受ける。それまで精々大切に世話をするよう厳重に書いておけ」

 男の指示に羽ペンがサラサラと動いて、文字自体に魔力と呪術が込められた魔導文字が記されていく。そのインクは真夜中の夜空に虹色の星屑を練り込んだような不思議な輝きを帯び、滑らかで美しい筆記体で最後まで記された後に、ふわりと炎が走って魔法陣が描かれた。

「ご署名を」

 ヴェインに促されて、男はガーデンテーブルの上で羽ペンを走らせた。

 最後にトンっとペンを弾くと、羽ペンはそのふさふさとした羽飾りをぶわりと震わせて、くるりと回って深緑色の艶のある絹のリボンに変わる。便箋はするりと筒状に丸まって、リボンがそこに巻き付いた。

「そういえば、あのチビの名前は?」

「人間達はあれとかそれとか呼んでいるのだと、春風が立腹しておりましたよ」

「それはまた。当分ここらは春が厳しいだろうな」

 ちらりと丘の上の大きな宮殿を見遣った男に合わせるように、いつでも渡せるように準備万端となった大切なはぽすっと良い音を立ててヴェインの手に収まった。

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