第25話 広がる波紋


パリからの帰国後、五人の日常は一変した。メディアの取材依頼、企業からの協業オファー、教育機関からの問い合わせ——彼らのもとには連日、世界中から関心が寄せられていた。


「これは…想像以上だ」藤原が机の上に積まれた書類の山を見つめて呟く。


赤城はテレビ局のインタビューに応じながら、少し疲れた表情を浮かべていた。


「同じ質問を何度も繰り返されるんだよな。『どうしてこのプロジェクトを始めたんですか』って」


森川のカメラは、今や世界中の子どもたちの表情を捉えていた。ブラジルのファベーラの少年、アフリカの難民キャンプの少女、北欧の幼稚園児——それぞれの感情が、色と光の芸術へと変換されていく。


「文化や環境が違っても、感情の本質は変わらない」森川がシャッターを切りながら呟く。


神崎は新たな課題に直面していた。プログラムの多言語対応だ。


「感情表現は、言語によって大きく異なる。同じ『喜び』でも、表現方法が文化によってまったく違う」


夏希はスケッチブックに、世界中から届く子どもたちの笑顔を描き留めていた。それぞれの笑顔が、少しずつ違うことを知った。


ある日、思いがけない人物から連絡が届いた。シンガポールの投資家、リー氏だ。


「あなた方の技術に、大きな可能性を感じています。アジア市場での展開を考えませんか?」


アレックスとの契約はまだ続いていたが、新たなオファーは彼らに選択を迫るものだった。


「私たちの目的は、世界中の子どもたちを助けることだ」藤原が会議で発言する。「ならば、アジア市場に特化する必要はない」


しかし、リー氏の提案は具体的だった。東南アジアの教育現場に、いち早く彼らの技術を導入するというのだ。


「アジアの子どもたちは、欧米とはまた違った感情表現の文化を持っています」リー氏の説明は理にかなっていた。「ここで技術を磨けば、より普遍的な感情認識システムが開発できるでしょう」


神崎の目が輝いた。


「彼の言う通りだ。私たちのシステムは、まだ文化的バイアスを持っている」


その夜、五人は美術室で深夜まで議論を続けた。


「私たちは、どこを目指すべきか」赤城が核心を突く質問を投げかける。


森川が一枚の写真を取り出した。パリで出会った、言葉の通じない子どもたちの笑顔だ。


「私たちが目指すべきは、国境を越えた感情の理解だ」


その時、アレックスから緊急の連絡が入った。


「競合他社が、類似技術の開発を発表した」


画面には、アメリカの大手IT企業が開発した感情認識システムのニュースが映し出されている。機能は彼らのものと酷似していた。


「これは…まさかの」藤原の顔色が曇る。


神崎はすぐに競合製品の分析を始めた。


「表面的には似ているが、根本的なアプローチが違う。彼らは統計データに基づいた画一的な認識だ」


しかし、現実は厳しかった。大企業のブランド力と資金力の前には、彼らの小さなプロジェクトはかすんで見える。


「私たちの強みは何か」夏希が静かに問いかける。


しばらく沈黙が流れた後、藤原が口を開いた。


「私たちの強みは、一人ひとりの感情に向き合ってきたことだ。数字ではなく、心で理解してきた」


その言葉を聞き、神崎が新しいアイデアを思いついた。


「ハイブリッドシステムだ。大企業の統計データと、私たちの個別化認識を組み合わせる」


それは思い切った提案だった。競合他社と協力するという選択肢も含んでいた。


リー氏との第二回会談で、彼らは新たな提案をした。


「私たちは、オープンコラボレーションを提案します」藤原が代表して説明する。「技術の一部を公開し、より多くの開発者に参加してもらうのです」


リー氏は驚いた表情を浮かべた。


「それは…ビジネスとしてはリスクが高いのでは?」


「私たちの目的は、利益の最大化ではありません」夏希が優しく、しかし確固たる口調で言う。「より多くの子どもたちを笑顔にすることです」


その決断は、想像以上の反響を呼んだ。オープンソース化された感情認識エンジンには、世界中の開発者たちが参加し、わずか一ヶ月で飛躍的な進化を遂げた。


「信じられない」神崎が新しいバージョンのプログラムを見つめる。「私たちだけでは、何年もかかっていた進化だ」


ある日、特別なメッセージが届いた。初めて「エモ・パレット」を使った、あの無表情だった少年からのビデオレターだった。


「ありがとう。ぼくの心を、みんなに届けてくれて」


画面の中の少年は、少しずつだが確実に感情を表現できるようになっていた。


その夜、五人は久しぶりに屋上に集まった。東京の街明かりが、遠くまで続いている。


「私たちの技術が、どれだけ遠くまで届くと思う?」赤城が夜空を見上げながら尋ねる。


「限界などない」藤原が静かに答える。「感情があるところまで、どこまでも」


森川がカメラを構え、月明かりに浮かぶ四人の横顔を捉える。


「この瞬間も、いつかどこかで、誰かの心を動かすかもしれない」


神崎のスマートフォンに、新しい協業の依頼が届いていた。南米の非営利団体からだ。


「次はどこへ行く?」夏希が微笑みながら聞く。


「どこだっていい」神崎の口元がほのかに緩む。「お前たちとなら」

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