第2話 褪色した日常
保健室の扉を閉めた音が、長く響いた。相沢夏希は階段を上がりながら、この体の軽さにまだ慣れない。十八歳の筋肉は柔軟で、息切れひとつない。死の床で感じた重苦しい痛みは、悪夢のように遠ざかっている。
三階の廊下はひっそりとしていた。使われていない教室が並び、午後の陽射しがほこりを舞い上げている。彼女の目的地は最も奥の美術室だ。かつての彼女が、時折、誰にも知られず訪れていた場所。
(変わったな…)
彼女は心の中で呟く。前世のこの時期、彼女は今ごろ教室で予習復習に励んでいた。一分一秒を無駄にしないように、と追い立てられるように。
ドアノブを回す。かすかに軋む音がして、扉が開いた。ほこりっぽい空気が鼻を突く。室内にはキャンバスがかけたイーゼルが数台、片隅には色あせた石膏像が積まれている。窓辺の植木鉢には枯れた植物が寂しげに首を垂れていた。
(ここだ、私の隠れ家)
カバンを置き、窓を開ける。新鮮な空気が流れ込み、カーテンがゆらりと揺れた。彼女は教室の前方にある教卓の引き出しを開けた。中には古い画材と、幾つかのスケッチブックがしまわれている。
一番新しいスケッチブックを取り出す。表紙には「観察記録」と書いてある。開くと、そこには細やかな描写で様々な生徒の姿が描かれていた。
(そういえば、私はずっと人を観察するのが好きだった)
ページをめくると、四人の少年の姿があった。
藤原雅人——優等生らしく整った顔立ちで、常に完璧な姿勢を保っている。しかし彼の絵の横には「猫に餌をやる優しい目」と小さくメモが書いてある。
森川陸——物静かでどこか遠くを見つめるような目。彼のページには「投球フォームの美しさは芸術的」と記されている。
赤城優斗——明るい笑顔が特徴的だが、彼の絵の横には「笑顔の裏の寂しげな影」と不思議な注釈が。
神崎蓮——鋭い目つきと常に顰めた眉。彼のコードが書かれたノートの描写の横には「天才の孤独」という言葉が。
(私はこんなことまで描いていたのか)
彼女はスケッチブックを閉じ、窓辺に立った。校庭では生徒たちがそれぞれの時間を楽しんでいる。かつての彼女も、そんな光景を「時間の無駄」と一蹴していた。
(あの頃の私は、何であんなに急いでいたのだろう)
ふと、チャイムが鳴り響く。四時間目が終わった合図だ。彼女はカバンを手に、美術室を後にする。
廊下には生徒たちの賑やかな声が響き渡る。教室に戻ると、すでに昼食の準備が始まっていた。
「夏希さん、大丈夫? 顔色だいぶ良くなったみたいだね」
小林美桜が笑顔で近づいてきた。彼女の手には可愛らしい弁当箱が握られている。
「うん、少し休んだら良くなったよ」
「よかった! それでね、今日の放課後なんだけど…」
美桜が話し出す前に、教室の入口がざわめいた。藤原雅人が颯爽と入ってくる。彼の周りにはすぐに生徒たちが集まり、質問攻めが始まった。
(…そうだ、彼はいつもこんな感じだった)
前世の彼女も、そんな藤原の姿にどこか引け目を感じつつ、同時に強い憧れを抱いていた。しかし今の彼女の目には、彼の完璧な笑顔の裏にある疲れの影がはっきりと見える。
「藤原さん、今日の数学の課題なんですが…」
「昨日の小テストの範囲、もう一度教えてください!」
彼は丁寧に一つひとつ質問に答えている。しかし夏希には、彼の目が時折、遠くを見ているように見えた。
(あの絵の通りだ…猫に餌をやる時のような優しい目をしている)
彼がふと彼女の方を見た。視線が合った瞬間、彼はわずかに目を見開いた。まるで彼女がそこにいることに驚いたかのように。
(どうしたんだろう)
彼女が疑問に思っていると、今度は教室の後方でざわめきが起きた。森川陸が席に着いたのだ。彼はいつも通り、一人で窓の外を見つめている。
(彼もまた、あの絵通りの目をしている)
森川の目には、何かを見つめているような、しかし実際には何も見ていないような、独特の虚ろさがあった。
「見てよ、あの森川さんまたボーッとしてる」
「あんなにサッカーが上手かったのに、怪我しなきゃ良かったのにね」
囁き声が聞こえる。彼女は思わず眉をひそめた。
(人をそんな風に批評するなんて…)
ふと、森川がこっちを向いた。彼の視線は彼女の上で止まり、わずかに首を傾げた。まるで彼女がここにいることを不審に思っているかのように。
(なぜだろう? 私、彼と話したことなんてほとんどないのに)
昼食の時間が終わり、午後の授業が始まる。先生が教室に入ってくる。
「それでは、昨日の続きを始めます。この関数の問題、誰か解ける人はいますか?」
かつての彼女なら、真っ先に手を挙げていただろう。先生の視線が自然と彼女に向けられる。教室中の目も同様だ。
(…举手しないと、おかしいと思われる)
彼女は深呼吸した。これが最初の一歩だ。
「誰もいませんか? では…」
「先生」
彼女はゆっくりと立ち上がった。
「すみません、この問題…わかりません」
教室中がシーンとなった。誰もが驚いた表情で彼女を見つめる。
「相沢さんが…わからない?」
「え? まさか…」
先生も一瞬戸惑い、すぐに平静を装った。
「そうですか。では、他の人…」
「私、やってみます」
突然、教室の後ろから声がした。神崎蓮がだらりと手を挙げている。彼は立ち上がることすらせず、黒板まで歩いていき、複雑な数式をすらすらと書き始めた。
「…以上。こんなの簡単だろ」
彼は吐き捨てるように言うと、席に戻った。教室中が彼の鮮やかな解法に感嘆の声を上げる。
神崎は彼女を一瞥し、わずかに嘲笑うような表情を浮かべた。まるで彼女の「わからない」という言葉を疑っているように。
(彼は…私を見ている)
授業が終わり、彼女が廊下に出ると、赤城優斗がにこやかに近づいてきた。
「相沢さん、大丈夫? 珍しくわからないって言うところ見ちゃったよ」
彼の笑顔は太陽のように明るい。しかし彼女には、その笑顔がどこか練習したように均質に見えた。
「ええ、ただ…今日はちょっと調子が悪くて」
「そっか、無理しちゃだめだよ! 何か手伝えることあったら、いつでも言ってね」
彼は爽やかに笑い去っていった。しかし振り返った瞬間、彼の笑顔が一瞬だけ曇ったように見えた。
(あのスケッチの通りだ…笑顔の裏の寂しげな影)
放課後、彼女は再び美術室へ向かった。ドアを開けると、誰かが中にいる気配がした。
「…誰かいるの?」
恐る恐る中に入ると、そこには森川陸が立っていた。彼は窓の外を見つめ、彼女が入ってきたことに気づかないようだ。
「森川さん?」
彼ははっと振り返り、少し驚いた表情を見せた。
「相沢…どうしてここに?」
「それは私のセリフです。ここは普段誰も来ない場所だと思っていました」
彼は少し間を置き、窓の外を見た。
「時々…ここに来る。静かで…」
「わかります」彼女は思わず微笑んだ。「私も同じ理由でここに来ます」
彼は彼女をじっと見つめ、何かを考えているようだった。
「今日の数学の時間…君はわからないって言ったけど、嘘だろ」
彼の突然の指摘に、彼女は息を呑んだ。
「なぜそう思う?」
「前のテストでは、もっと難しい問題を解いていた。君の実力なら、今日の問題は簡単なはずだ」
彼の観察力の鋭さに、彼女は少し慌てた。
「ただ…今日はやる気がなかっただけです」
「ふん」彼は興味深そうに彼女を見た。「相沢夏希がやる気がない日が来るとはな」
彼はそう言うと、そっとうなずき、去っていった。
彼女は窓辺に立ち、遠くで練習するサッカー部を見つめた。森川の言葉が頭から離れない。
(もう、完璧な優等生は演じられない)
彼女はカバンからスケッチブックを取り出し、今日見た四人の少年の姿を描き始めた。藤原の疲れた笑顔、森川の虚ろな目、赤城の裏にある寂しみ、神崎の鋭い視線——すべてが彼女の筆の下に生き生きと再現されていく。
(この人生では、すべてが違って見える)
夕日が窓から差し込み、彼女のスケッチブックを黄金色に染めていた。
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