地味なβ、それは偽りの姿。本当は希少なΩの僕は、記憶喪失の執着αに懐かれてしまう。僕らが幼い頃に出会った「運命の番」だと、彼はまだ知らない。

藤宮かすみ

第1話「灰色の世界と、色彩の君」

 僕の世界は、ずっと灰色だった。

 色のない音のない、ただ息を潜めてやり過ごすだけの毎日。青葉学院大学のキャンパスは春に桜が咲き誇り、秋には黄金の絨毯のように銀杏の葉が敷き詰められる美しい場所だ。けれど僕の目にはそのどれもが、くすんだモノクロームにしか映らなかった。


 水瀬湊、二十歳、文学部二年生。属性はベータ。

 もちろん、それは偽りの姿だ。本当の僕は男性としては極めて希少なオメガ。だが、その事実を知る者は誰もいない。強力な抑制剤で本来の性を捻じ曲げ、僕は平凡なベータとしてこの広大なキャンパスの片隅で石ころのように転がっている。


『今日も、綺麗だな』


 講義室の窓から中庭を横切るひとつの影を見つめ、僕は小さくため息をついた。

 その影の名は、神楽坂蓮。

 経営学部の二年生で、僕と同じ学年。しかし彼と僕とでは、住む世界が違いすぎた。プラチナブロンドの髪は陽の光を浴びてきらきらと輝き、彫刻のように整った顔立ちはすれ違う誰もが思わず振り返るほどだ。背が高く、モデルのようなスタイルで着こなすブランド物のシャツは嫌味なくらい彼に似合っていた。


 彼は、選ばれしアルファ。それも特に優れた血統の。

 彼が歩くだけで周囲の空気は色めき立つ。女子学生たちは熱のこもった視線を送り、男子学生たちでさえ憧れと少しの嫉妬が混じった眼差しで彼を遠巻きに見ていた。僕も、その他大勢と同じ。ただ少し違うのは、僕が彼の姿を盗み見る時間がきっと誰よりも長いことくらいだろうか。


 彼に近づきたいなんて、おこがましいことは考えない。僕のような地味で存在感のないベータ(偽りだが)が、彼の隣に立つことなど許されるはずもないのだから。それに万が一僕がオメガだと知られたらどうなるか。アルファの本能を刺激して、面倒なことになるのは目に見えている。

 だからこうして遠くから眺めているだけで十分だった。灰色だった僕の世界に、彼という色彩がほんの一瞬だけ差し込んでくれる。それだけで、僕は満たされていた。


「湊、また見てんの? 神楽坂のこと」


 隣の席から、呆れたような声がした。振り返ると、親友の高槻健太がニヤニヤしながら僕の顔をのぞき込んでいる。


「べ、別に見てないよ」


「嘘つけ。穴が開くほどガン見してたじゃん。お前、ほんと好きだよな、あいつのこと」


「好きとかじゃなくて、憧れだって言ってるだろ。芸術品を鑑賞するのと同じ感覚だよ」


「はいはい。その芸術品サマ、今日は一段と機嫌悪そうだな。なんか近寄りがたいオーラ出てるぞ」


 健太の言葉に、僕はもう一度中庭に視線を戻す。確かに、今日の神楽坂蓮はいつも以上にクールで人を寄せ付けない雰囲気をまとっていた。数人の取り巻きらしき学生が話しかけているが、彼は一瞥もくれずただ無表情に前を見据えて歩いている。

 あの美しい顔が、少しでも綻ぶところを見てみたい。そんな叶わぬ願いを抱きながら、僕は講義の開始を告げるチャイムの音に思考を現実へと引き戻された。


 講義が終わり、健太と別れて一人で帰路につく。

 空はいつの間にか、僕の心の中を映したかのような厚い灰色の雲に覆われていた。天気予報は午後から雨だと言っていた。折り畳み傘は持ってきたけれど、気分は一層重くなる。


 大学の最寄り駅へと向かう途中、僕はいつもとあるカフェの前を通り過ぎる。ガラス張りの洒落た店内で、神楽坂蓮が友人たちと談笑している姿をこれまで何度か見かけたことがあった。今日ももしかしたら、なんて淡い期待を抱いて店の前を通りかかったが、そこに彼の姿はなかった。

 当たり前だ。そう自分に言い聞かせ、僕は歩みを速めた。


 ぽつり、と冷たい雫が鼻先に落ちてきた。

 見上げると、灰色の空から雨粒が糸を引くように落ちてきている。あっという間にその勢いは増し、ざあざあと音を立ててアスファルトを叩き始めた。僕は慌てて鞄から折り畳み傘を取り出し、それを開く。


 駅までは、あと少し。横断歩道で信号待ちをしていると、すぐ近くで甲高いブレーキ音と何かが強くぶつかる鈍い音が響き渡った。

 何事かと周囲を見回すと、僕が渡ろうとしていた横断歩道の少し先で一台の乗用車が不自然な角度で停まっている。そして、その車のすぐそばの路上に誰かが倒れていた。


『人身事故…?』


 周囲の人々が悲鳴を上げ、遠巻きに様子をうかがっている。僕も、その野次馬の一人になるはずだった。けれど、倒れている人物が着ている服に見覚えがあって、足が縫い付けられたように動かなくなった。

 上質な生地の、チャコールグレーのシャツ。雨に濡れて、色が濃くなっている。そしてその人物から流れ出たであろう血が、雨水に混じって赤黒くアスファルトに広がっていく。


 まさか。

 そんなはずはない。

 心臓が嫌な音を立てて脈打つのを感じながら、僕は傘を放り出し雨の中に飛び出していた。降りしきる雨が容赦なく僕の体を濡らしていくが、そんなことはどうでもよかった。


 倒れているその人のそばに駆け寄り、僕は息をのんだ。

 雨に濡れて額に張り付いたプラチナブロンドの髪。閉じられた瞼。いつも自信に満ち溢れていたその顔は、今は苦痛に歪み血の気を失っている。


「かぐらざか、くん…?」


 僕の世界に唯一、色彩を与えてくれる人。

 神楽坂蓮が、そこに倒れていた。

 彼の頭部から流れる血は、雨に混じって僕の手を赤く染めていく。

 僕は震える手でスマートフォンを取り出し、救急車を呼ぶために番号をダイヤルした。遠くでサイレンの音が聞こえ始めるまでの時間が、まるで永遠のように長く感じられた。


 灰色だった僕の世界が、彼の血の色で真っ赤に染まっていく。

 僕はただ、彼の名前を呼び続けるしかなかった。

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