第9話「学園に渦巻く黒い噂」
俺がアシュレイの別邸に囚われてから、一月ほどが過ぎた。
学園では俺、ルシアン・フォン・ヴァイスハイトは「重い病気で長期療養中」ということになっていた。もちろんアシュレイが裏で手を回した結果だ。ヴァイスハイト公爵家にも皇太子の名で箝口令が敷かれているらしく、両親からの連絡は一切ない。
俺は社会的に「存在しない」人間になっていた。
そんな中、学園ではある噂がまことしやかに囁かれていることを、俺はアシュレイの口から聞かされた。
「最近、リリアナ・ブルームが君の悪評を流して回っているらしい」
夕食の席で、アシュレイが何でもないことのように言った。
「私がいないのをいいことに、『ヴァイスハイト様は私とアシュレイ殿下の仲に嫉妬して、私を階段から突き落とそうとした。そのことが明るみに出るのを恐れて姿をくらました』などと吹聴しているそうだ」
「……なんだって?」
思わず手にしていたフォークを落としそうになった。
階段から突き落とす? 俺が? そんなこと、するわけがない。
いや、原作のルシアンならやりかねないことではある。リリアナは原作で起こるはずだったイベントを、俺がいないのをいいことに自分の都合のいいように捏造して利用しているのだ。
「なんて悪趣味な女だ」
「心配するな。そんな嘘、信じる者はほとんどいない」
アシュレイは冷静に言うが、俺はそうは思えなかった。
平民で、か弱く、健気なヒロイン。
高慢で、嫉妬深い、悪役令息。
どちらの言葉を人々が信じやすいかなど、火を見るより明らかだ。
特に俺が姿を消している今、彼女の言葉は真実味を帯びて聞こえるだろう。
「このままじゃ、本当に俺が悪者にされてしまう」
焦る俺を見て、アシュレイは優雅にワインを一口飲んだ。
「だから言っただろう。心配するな、と。すべて私の計算通りだ」
「計算通り……?」
「彼女が動き出せば、その裏にある本当の顔も暴きやすくなる。今は泳がせておけばいい。彼女が積み上げた嘘が高ければ高いほど、それが崩れ落ちた時の衝撃は大きなものになるからな」
彼のサファイアの瞳が冷たく光る。
まるでチェスの盤面を眺める王のように、彼はすべてを見通しているようだった。
この男にとってリリアナの行動など想定の範囲内。むしろ彼女が動くことすら、彼の計画の一部なのだ。
「……お前は、いつかあいつを断罪するつもりなんだな」
「当然だ。私の番に手を出そうとしたのだ。それ相応の罰を受けてもらわなくては割に合わん」
その声には一切の情も容赦もなかった。
彼は俺のためなら、誰かを社会的に抹殺することさえためらわないだろう。
その冷酷さに少しだけ背筋が寒くなる。
だが同時に、俺をそこまで想ってくれているという事実に、心が温かくなるのを感じた。
矛盾した感情。
この男に抱く気持ちは、本当に複雑だ。
アシュレイの言う通り、リリアナの行動は日に日にエスカレートしていったらしい。
彼女は自分がアシュレイに選ばれた運命の相手であるかのように振る舞い始めた。アシュレイが公務で学園に顔を出せばすり寄ってきては親しげに話しかけ、周囲に二人の親密さをアピールする。
アシュレイは表向きは彼女を冷たくあしらいながらも、完全には突き放さなかった。それは彼女を油断させ、さらなるボロを出させるための彼の計算だった。
リリアナは自分が物語の主役の座を取り戻したと、信じて疑わなかっただろう。
邪魔な悪役令息は消え、皇太子は自分のものになる、と。
彼女は貴族の令嬢たちを味方につけ、学園内での発言力を高めていった。俺の悪評はもはや学園内の共通認識となりつつあった。
「ヴァイスハイト様って、本当に恐ろしい方だったのね」
「リリアナ様が、どれだけ辛い思いをされたことか……」
「皇太子殿下も、あんな婚約者がいてお気の毒に」
そんな声が俺の耳に直接届くことはない。
だがアシュレイから伝え聞くだけで、胸が締め付けられるような思いがした。
「……なあ、アシュレイ」
ある夜、ベッドの中で、俺は隣で眠る彼の腕に顔を埋めながら呟いた。
「俺は、このままここにいていいのか?」
「どういう意味だ?」
「俺がここに隠れているせいで、お前にも迷惑がかかっている。それに俺のせいで、ヴァイスハイト家の評判も……」
俺の言葉を遮るように、アシュレイが俺の体を強く抱きしめた。
「君のせいではない。すべて私が望んだことだ」
彼の声はどこまでも優しかった。
「ヴァイスハイト公爵家には私が手を回してある。君の不在が家に累を及ぼすことはない。私の評判などどうでもいい。私が欲しいのは世間の名声ではなく、君だけだ」
彼は俺の額に優しいキスを落とした。
「だから君は何も心配せずここにいればいい。すべてが終わるまで、私のそばでただ笑っていてくれ。それが私の唯一の望みだ」
その言葉に、俺は何も言い返せなくなった。
この男は俺がここにいることを、心から望んでくれている。
俺の存在が、彼の支えになっている。
その事実がたまらなく嬉しかった。
同時に罪悪感も感じていた。
俺は彼が背負っているものの大きさを、まだ何も理解していない。彼が百回ものループの中でどれだけの絶望を味わってきたのか。
俺にできることは本当に、彼のそばにいることだけなのだろうか。
「アシュレイ……」
俺は彼の胸に顔をすり寄せた。
今はまだ何もできないかもしれない。
だがいつか、俺も彼を支えられるようになりたい。彼が俺を救ってくれたように、俺も彼の孤独な心を救ってあげたい。
そんなことを、ぼんやりと考えていた。
黒い噂が学園に渦巻く中、俺たちの籠の中の生活は奇妙な安らぎと、そして近づきつつある嵐の予感をはらみながら静かに過ぎていった。
リリアナが断罪される、運命の舞台。
その幕が上がる日は、もうすぐそこまで迫っていた。
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