第7話「温室の悪夢と初めての熱」
月光花の甘い香りが脳を痺れさせる。
体の芯から湧き上がる熱は、経験したことのない種類のものだった。これがオメガの発情期(ヒート)……。ゲームの知識としては知っていたが、実際に我が身に降りかかると想像を絶するほどの威力だった。
理性が溶けていく。思考がまとまらない。
目の前にいるアシュレイがひどく魅力的に見えた。彼のアルファとしてのフェロモンが甘露のように感じられる。もっと欲しい、もっと近くにいたい、という本能的な欲求が頭をもたげた。
「……っ、はな、せ……」
だが俺の中に残った最後の理性が、必死に抵抗を試みる。
ここで流されてしまえば終わりだ。この男の思う壺だ。
「嫌だと言ったら?」
アシュレイは俺の抵抗を楽しんでいるかのように、口元に笑みを浮かべた。
彼の指が俺の頬を優しく撫でる。その感触だけで、背筋にぞくぞくとした快感が走った。
「君は本当は私を求めているんだろう? 体は正直だ」
彼の言う通りだった。
俺の体は完全にアシュレイというアルファを求めてしまっている。
悔しい。そして恐ろしい。
オメガという性がこれほどまでに抗いがたいものだとは。
「……誰が、お前なんか……」
「強がるな。もう限界のはずだ」
アシュレイはそう言うと、俺の体を軽々と抱え上げた。
いわゆる、お姫様抱っこというやつだ。
屈辱に顔が熱くなる。だが暴れる力はもう残っていなかった。
「少し場所を移そう。ここだと誰かが来るかもしれない」
彼はそう言って、薄暗い温室のさらに奥へと歩き出した。
月光花の幻想的な光が遠ざかっていく。連れてこられたのはおそらく資材置き場か何かだろう、古びた木の机と椅子が置かれた小さな一角だった。
アシュレイは俺を机の上にそっと座らせると、上から覆いかぶさるようにして俺の唇を塞いだ。
「ん……!」
突然の口づけに目を見開く。
彼の唇は柔らかく、そして驚くほど熱かった。こじ開けられた唇の間から彼の舌が侵入してくる。抵抗しようとしたが顎を強く掴まれ、逃れることができない。
初めてのキスは、甘くなどなかった。それはすべてを奪い尽くすような、支配的で暴力的な行為だった。
どれくらいの時間そうされていただろうか。
ようやく唇が解放された時、俺はぜえぜえと肩で息をしていた。口元からは繋がっていた証拠のように、銀の糸が引いている。
「はぁ……っ、は……、やめ、ろ……」
涙目で睨みつける俺を見て、アシュレイは恍惚とした表情を浮かべた。
「いい顔だ、ルシアン。ずっと君のそんな顔が見たかった」
彼のサファイアの瞳は熱に潤んでいた。
そこには普段の冷静な彼からは想像もつかないほどの、剥き出しの欲望が渦巻いている。
「ゲームの中の君は、いつも私を睨みつけ憎しみを向けてきた。だが私は知っていた。そのプライドの高い仮面の下に、こんなにも愛らしい素顔が隠されていることを」
『……ゲーム?』
途切れ途切れの意識の中で、彼の言葉が引っかかった。
今、こいつははっきりと「ゲーム」と言った。
「ああ、そうだ。私は知っている。この世界が元はどんな物語だったのかを」
俺の驚きを読み取ったように、アシュレイは告白を続けた。
「私は何度も何度も、あの物語を繰り返した。あらゆる結末を見た。だがどのルートも私の心を満足させることはなかった。ヒロインと結ばれても世界を救っても、そこには常に虚しさだけが残った」
彼の声には深い絶望の色が滲んでいた。
「なぜなら、どの物語にも君はいなかったからだ。いや、いたな。だがいつも私の敵として、最後には断罪されるだけの存在として。私が本当に欲しかったのはヒロインでも王座でもない。ただ一人、君だけだったんだ、ルシアン」
信じられない、という思いと、やはりそうだったのか、という納得が頭の中で渦を巻く。
彼も転生者。それも何度もゲームを周回した、古参プレイヤー。
そしてその果てに、悪役令息である俺に異常なまでの執着を抱くようになった。
「だから今度こそ、私は君を手に入れる。誰にも邪魔はさせない。この物語は、君と私が結ばれるための新しいシナリオだ」
それはあまりにも身勝手で、独善的な愛の告白だった。
だがヒートで朦朧とした頭では、彼の言葉の異常さをまともに考えることができなかった。
ただ彼の声が、彼の瞳が、彼のフェロモンが俺を絡め取っていく。
アシュレイの指が制服のボタンにかけられる。
一つ、また一つとボタンが外され、白い肌が露わになっていく。ひやりとした空気が肌に触れ、ぶるりと体が震えた。
「大丈夫だ。優しくしてやる」
彼はそう言って、俺の首筋に顔を埋めた。
オメガの最も敏感な場所。そこに彼の熱い唇が触れた瞬間、びくりと体が跳ねた。
「ひ……っ!」
甘い痺れが背筋を駆け上る。
そこはアルファが番にする相手を噛む特別な場所、うなじ。
そこに歯を立てられれば俺たちは「番」になってしまう。そうなればもう、俺は一生この男から逃れることはできなくなる。
「だめだ、アシュレイ……こんな……」
最後の力を振り絞って懇願する。
だがアシュレイは俺の言葉を聞き入れなかった。
「逃がさない。お前は、俺だけのものだ」
彼の低い声が、俺の最後の抵抗を打ち砕いた。
首筋に鋭い痛みが走る。
と同時に、今までに感じたことのないほどの強烈な快感が全身を貫いた。
「あ……ぁ……っ!」
声にならない叫びが口から漏れる。
視界が白く染まり、何も考えられなくなる。
ただアシュレイという存在が、俺のすべてを上書きしていく感覚だけがあった。
温室の片隅で、誰にも知られず、悪役令息は皇太子にその身を捧げた。
それは原作のどこにも書かれていなかった、歪で狂おしい愛の始まり。
俺の破滅フラグ回避計画は、これ以上ないほど最悪な形で完全に潰えたのだった。
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