第16話:頑固シェフの「隠し味」

「―――で、頼んだぞ、榎田先生」


 ダブルのスーツを粋に着こなした万城目不動産の社長が、人差し指をぴっと立てた。


「例のビル、オーナーはもう売りたがってる。問題は、テナントの『キッチン・フルカワ』だ。あそこのビーフカツレツは絶品だったんだがなぁ…」


 社長は心の底から残念そうに言い、溜息をついた。


「先代が亡くなって半年、息子の代になってから家賃の滞納が続いてる。まずは店の現状をしっかり査定してきてくれ。もちろん、碇くんも一緒にな」

「は、はいぃ。承知いたしましたです…」


 榎田が弱々しく応えると、隣で、碇裕美子が手帳にペンを走らせながら、きっちりとしたお辞儀をした。


 かくして、榎田順一郎と碇は、町の洋食屋『キッチン・フルカワ』の前に立っていた。年季の入ったレンガ造りの、趣のある店構えである。しかし、ランチタイムだというのに、窓から見える店内に客の姿はまばらだった。


「とりあえず、客として食べてみましょうか」


 碇の提案に頷き、榎田は重い木製のドアを開けた。カラン、とドアベルが鳴る。


「いらっしゃいませ…」


 厨房から現れた若い男性は、疲労の色を隠せないでいた。彼が、二代目の古川拓海だろう。二人はテーブルにつき、名物だというビーフカツレツを注文した。

 運ばれてきた一皿は、完璧な見た目をしていた。しかし、一口食べて、碇は小首を傾げる。


「美味しいですけど…なんだか、味が迷っているような…?」


 的確な表現である。美味しい。だが、心に響かない。焦点のぼやけた味。それが、今のこの店の味なのだった。


 その時、榎田の目に、厨房に立つ拓海の背後にもう一人の男性の姿が映った。白髪頭に、いかにも職人といった風貌の老人。間違いない、半年前に亡くなった先代、古川大吾の霊である。大吾は、息子がソースの鍋に高価そうな赤ワインを注ぐたびに、頭を抱え、天を仰いでいる。その姿は、悲痛ですらあった。


 食事を終え、二人は一度店を出た。会計の際、拓海の目が「どうでしたか」と問いかけていた気がしたが、榎田も碇も、かけるべき言葉を見つけられなかった。


「…ちょっと、お手洗いを借りてきますねぇ」


 榎田はそう言って、一人店内に戻った。狙い通り、大吾の霊がすっと榎田に近づいてくる。トイレに入り、個室のドアを閉めると、彼はためらいなく壁をすり抜けて入ってきた。


「あんた、俺が見えるんだな? 聞こえるんだろ?」


 切羽まった声に、榎田は無言で頷く。


「頼む、聞いてくれ! 息子の奴、全然わかっちゃいねえんだ! 俺のソースの決め手は、高級な酒や珍しいキノコじゃねえんだよ!」


 大吾は悔しそうに拳を握りしめ、榎田の顔の目の前で熱弁を振るい始めた。その距離の近さに、榎田はたじろぐ。


「基本は野菜の甘み、太陽の甘みなんだ! 玉ねぎを薄く切ってな、半日ほど天日に干すんだよ。それだけで、野菜の旨味がぐっと凝縮される。金なんてかけなくても、手間をかければ味は深くなるんだ! なのにあいつは…!」

「ちょ、ちょっと待ってください! 待ってくださいってば!」


 あまりの剣幕に、榎田は思わず叫んでいた。というか、生理現象のほうが限界だったのだ。


「漏れちゃいますよぅ! 人はですね、こういう狭い個室で、目の前に人がいると、その…用を足せないものなんですよぅ!」

「何を言っとるんだ、そんなことくらい我慢しろ! 俺の人生がかかっとるんだぞ!」


(いや、もうかかってないですよぅ)と喉まで出かかったが、榎田はぐっと堪える。幽霊相手に正論は通じない。


 答えは、あまりにも明快だった。だが、この明快さが、今の榎田にとっては最大の足枷なのだった。


「…それを息子さんに伝えるのは、ちょっと、無理な相談ですよぅ」


 榎田が言うと、大吾は「そこをなんとかするのがあんたの役目だろう!」と食い下がる。幽霊というのは、どこまでも自分本位なものである。


 数日後、榎田と碇は、不動産鑑定士として正式に拓海へのヒアリングを行った。店の経営状況を尋ねる碇の質問に、拓海は虚勢を張って答える。


「父の味を守るだけじゃ、この時代は生き残れません。俺なりのやり方で、父を越えてみせますよ」


 その言葉とは裏腹に、彼の目には焦りの色が濃く浮かんでいた。父へのコンプレックスが、彼を頑なにしているのだ。ここに「お父さんの幽霊が言ってましたが、玉ねぎを干せ、と…」などと口を挟めば、狂人として即座につまみ出されるのは目に見えている。


 答えは目の前にあるのに、決して届かない。榎田は、自分の持つ厄介な能力を、改めて呪わしく思った。


 事務所に戻り、榎田は一つ、賭けに出ることにした。突破口は、碇の真面目さと誠実さしかない。


「あのぅ、碇さん」

「はい、何でしょう」

「例の洋食屋の件ですけども、資産価値報告書に厚みを持たせるために、お店の歴史的背景を調べてみませんかぁ?」


 榎田は、あくまで仕事のためだ、という体で切り出した。


「例えば、創業当時のこだわりとか、過去に受けた雑誌のインタビューとか…。そういう『物語性』は、物件の付加価値になると思うんですよぅ」


 榎田の言葉に、碇の目が輝いた。


「さすが榎田さん!素晴らしい着眼点です! そのお店ならではのストーリーがあれば、新しいオーナーさんへのアピールにも繋がりますね!」


 純粋な彼女は、榎田の悪知恵など微塵も疑っていない。


「はい、すぐに調べてみます!」


 そう言って、彼女は早速、町の図書館や資料館のリストを検索し始めた。榎田は心の中で(どうか、お願いしますよぅ…)と呟いた。



 それから三日後のことだった。


「榎田さん! 大変です! ありました!」


 碇が、事務所に駆け込んできた。その手には、少し黄ばんだ古いタウン誌が握られている。


「見てください! オープン当初の『キッチン・フルカワ』の紹介記事です! 若い頃の、先代マスターの写真も!」


 彼女が指さすページには、若き日の大吾が、はにかみながらインタビューに答える姿があった。そして、その記事の最後に、探していた言葉はあったのだ。


『うちのソースに特別な材料なんてないよ。秘訣? まあ、強いて言うなら、野菜たちにしっかり太陽を浴びせて、甘みをうんと引き出してやることかな』

「これです! これですよ、榎田さん!」

「…それは、すごい発見ですねぇ」


 榎田は冷静を装いながら、内心でガッツポーズをした。


 その日の午後、榎田と碇は、再び『キッチン・フルカワ』を訪れた。


「古川さん、お忙しいところすみません。調査の中で、こんなものを見つけまして」


 碇が、拓海にタウン誌の記事を見せる。彼は訝しげにそれを受け取ったが、若い父の姿と、そこに記された言葉に目を留めると、その表情がはっと変わった。


「野菜に…太陽を浴びせて…」


 呟く彼の声が、微かに震えていた。それは、他人の受け売りではない、父自身の言葉だった。第三者である碇が、客観的な資料として届けたからこそ、その言葉は彼の心に真っすぐに届いたのだ。


 一週間後。榎田は一人で店の前を通りかかった。ランチタイムの店内は、以前とは比べ物にならないほど客で賑わっている。


 厨房では、拓海が自信に満ちた表情でフライパンを振っていた。その顔つきは、もはや迷いを抱えた青年ではなく、一人の料理人のものだった。


 そして、その厨房の隅に、腕を組み、満足そうに息子を見つめる大吾の霊がいた。彼は榎田の視線に気づくと、ふっと微笑んだ。


「あんた、大したもんだな。まさかあんな方法を思いつくとは」


 その声は、穏やかだった。


「…息子を、ありがとうよ」


 彼はそう言うと、一度深く、榎田に向かって頭を下げた。そして、その体はゆっくりと光の粒子に変わり、穏やかな昼の光の中に溶けて消えていった。

 榎田は、大吾の霊が消えていった空を、ただぼんやりと見上げていた。


「榎田さん、何ぼうっとしてるんですか!早く事務所に戻らないと社長に怒られますよ!」


 ふいに背後から声をかけられ、びくりと肩を揺らす。いつの間に来たのか、碇が仁王立ちで榎田を睨んでいた。


(幽霊の声が聞こえるという能力は、やはり厄介で、面倒なものですよぅ…)


 榎田は心の中で溜息をついた。ほんの少しだけその使い方に光明が見えたような気がしても、すぐにこうして現実に引き戻されるのだった。


(第16話 了)

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