第11話:オーバースペックな日常

 馬車道の一角にある、榎田の自宅兼事務所。薄暗いその部屋の古い木製デスクの上に、異様な輝きを放つ物体が鎮座していた。


 それは、亡き外資系エリート、城崎文彦が愛用していたノートパソコンだ。遺族の承諾と、万城目不動産を経由した正式な手続きを経て、今やこの最高級モデルは榎田の私物となっている。最新鋭のCPU、グラフィックボード、高精細な4Kディスプレイ。数々の複雑なデータを瞬時に処理し、国境を越えた取引を支えてきたはずのその機械は、今、極めて牧歌的な用途に供されようとしていた。


 榎田が最初にこのPCを起動した時、その起動速度の速さと、画面のあまりにも鮮やかな発色に、一瞬たじろいだ。「前のパソコンとは、時間の流れが違う…」とまで感じたという。彼はセキュリティのために設定されていた指紋認証や顔認証を全てオフにし、パスワードも「enokida123」という単純極まりないものに変更した。高性能機が持つ高度なセキュリティ機能は、彼によってあっさりと無効化されたのだった。


 榎田は、その高性能機の前で冷や汗をかいていた。彼は、この日の午後に面会の約束を取り付けている岸川弁護士――彼もまた榎田とは旧知の仲で、中央にも太いパイプを持つ大物だ――に提出する書類を作成していた。城崎の一件で、大堂剛に対する鑑定料や賠償請求に関わる書類、そして警察沙汰になった後処理を、岸川に「合法的な形」でまとめてもらうためだ。


 榎田はまず、本体の洗練されたトラックパッドと薄型キーボードを避け、わざわざ古い有線式のキーボードと、カチカチと音が鳴るボール式のマウスを接続した。最新鋭の機体と、時代錯誤な周辺機器。アンバランスな組み合わせだが、榎田にとってはこれが「間」であり「安心」だった。


 その高精細な4Kディスプレイには、全画面表示されたYouTubeの昭和歌謡のチャンネルが映し出され、高性能な内蔵スピーカーからノイズのないクリアな音色が静かに流れていた。


 彼は、デスクトップに最小化されたメールアプリを開くと、送信先の岸川弁護士宛に、「本日の面会、宜しくお願い致します」というごく短いメッセージを、一文字、一文字、確認するようにぽつりぽつりと打ち込んでいた。そののんびりとしたタイピング速度は、超高速CPUの処理能力を、文字通り塵ほども使っていないだろう。


 榎田にとって、文章を「ぽつりぽつり」と打つこの時間は、単なる入力作業ではない。それは、複雑に絡み合った案件の糸を解きほぐし、自身の思考を整えるための儀式のようなものだ。特に岸川弁護士に渡す書類は、事件の結末を左右する重要性を持つ。「心して打たないと、後で岸川さんに怒られますからねぇ…」と、彼は密かに震えていた。


「…うーむ。岸川さんに送るなら、やっぱりクラウド経由で安全に共有しないと、ですかねぇ…」


 榎田が普段使っている、十年前の低スペック機であれば、この文書は古いテキストエディタで作成し、せいぜいメールに添付するだけだった。しかし、この城崎モデルは違う。最新のセキュリティソフト、連携されたクラウドサービス、そして複雑な認証システムが、すべて「最適化」されている。


「これで、共有ボタンっと…。あれ? えぇっと、どうして『仮想環境の権限が不足しています』なんて表示が出るんですかぁ…」


 城崎がセキュリティのために入れていた仮想化ソフトウェアが、榎田の単純な操作をブロックしていたのだ。榎田は、設定画面を開こうと、トラックパッド上で見様見真似のジェスチャーを試みたが、指が滑ってしまい、画面上のアイコンが次々と勝手に起動し始めた。


 高性能機は、榎田のミスタッチを忠実に、かつ驚異的な速度で実行する。わずか数秒で、高性能なグラフィックボードを要求する鑑定シミュレーションソフトや、海外の市場データ解析ツール、そして謎の動画編集ソフトまでが起動し、画面がカオスと化した。ファンが回り始め、初めてこのPCが本気を出し始める。


「ひゃあ! ま、待って! 勝手に動かないでくださいよぅ! 四重起動なんて、そんなこと、メールをみるぐらいしかやらない私に…!」


 榎田は、タスクマネージャーの存在を知らず、慌てて電源ボタンを押そうとした。

 その瞬間、ガチャリと玄関のドアが開き、榎田の相棒、碇裕美子が勢いよく入ってきた。

「榎田さん! 今日の物件の書類、すぐお渡ししたいんですけど…って、な、何ですか、この画面!」


 碇は、デスクの上の風景を見て、ぴたりと動きを止めた。そこには、大量のアプリが起動し、そのうちの一つからは、なぜか爆音で昭和歌謡が流れているという、極めてカオスな状況があった。


「あぁ、碇さん! 丁度いいところに! 城崎さんのこのパソコンが、私の指示を聞いてくれないんですよぅ! 岸川弁護士への書類が…」

「岸川弁護士の書類ですか…? それをこの機械で、昭和歌謡の爆音と共に作っていたんですか?」


 碇は、普段の生真面目な顔を限界まで歪ませ、額を押さえた。彼女にとって、この光景は一種の「ハイテクホラー」だった。城崎文彦というエリートの魂を縛り付けていた、ある種の執着の象徴が、今、無防備な榎田の手に渡り、その高性能を最大限に無視されている。


「このPCですよ? 世界の金融情報を瞬時に処理し、数百万の利益を生み出していたはずの、最高のツールです。それを…!」


 その最高性能機は、最新のAIを動かすことだって余裕でできるスペックなのだ。それを、まるで制御不能な宇宙船のように扱う榎田の姿は、彼女にとって一種のホラーだった。


「も、もういいです。一旦キーボードから手を離してください!」


 碇は、慣れた手つきでトラックパッドに触れると、画面上のカオスを瞬時に収束させた。彼女の指先は、まるで熟練のピアニストのように正確で、数回のジェスチャーで全ての不要なアプリを閉じ、仮想環境のアクセス権限を一発で上書きした。


「榎田さん。岸川先生に送るなら、最新のセキュリティプロトコルを通した、この専用テンプレートを使うんです。そして、共有権限は『閲覧のみ』に設定。ほら、完了です」


 淀みない操作で、わずか三十秒。榎田が三十分格闘しても辿り着けなかった「岸川弁護士への安全な書類共有」が、完璧に終わった。


「お、おお…。さすがは碇さんですねぇ…」

「当たり前です! 私たちはハイテク不動産の会社ですよ!」


 碇は、その高性能機を「校閲と昭和歌謡鑑賞」に使うことへの憤りを抑えきれず、つい声を荒げた。


「いやいや。道具っていうのは、自分が使いやすいように使えばいいんですよぅ。高性能機で、のんびり『間』を楽しむ。これぞ、贅沢の極みですよぅ」


 そう言って、榎田は、わざわざ引っ張り出してきた有線式の古いキーボードに、再び手を置いた。性能を活かさない贅沢。ハイテクとアナログの奇妙な共存。榎田の「日常」は、今日も変わらず、そのマイペースな速度で進んでいた。


 碇は、ふう、と深くため息をついた後、緊張を解くようにソファに座った。


「あぁもう、疲れました。毎回毎回、榎田さんの周りはどうしてこう、事件の規模が大きいんでしょうか…」

「そう言わないでくださいよぅ。おかげで岸川先生への手土産ができましたし、それに…」


 榎田は、流しへ向かうと、年季の入った電気ポットでお湯を沸かし始めた。そして、自身の棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出す。


「…こういう静かな時間ってのが、より贅沢に感じられるじゃないですかぁ」


 二つのマグカップに、濃いめのインスタントコーヒーを注ぎ、一つを碇の前に差し出した。


「ほら、どうぞ。一仕事終わりのコーヒーは、また格別ですからねぇ」


 碇は、そのカップを受け取り、一口すすった。いつもと変わらない、安っぽいインスタントコーヒーの味。だが、その味こそが、彼女を安心させた。


「…そうですね。今回は特に、タワマンの件は精神的に大変でしたから。しばらくは、本当に書類作成と鑑定だけがいいです」

「えぇ。当分は、この高性能機で、ただのメールをみるぐらいしかしないと思いますよぅ。…あぁ、いい匂い。この『間』こそ、私の鑑定価格で一番高い部分ですからねぇ…」


 外の喧騒は遠く、二人の間には、湯気を立てるコーヒーと、ゆったりとした時間が流れていた。それは、死と生、光と闇が交錯した一連の騒動を乗り越えた、主人公たちの短い、しかし確かな「休憩時間」だった。


(第11話 了)

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