ACT.8
翌朝。
カーテンの隙間から差し込む光がやわらかく揺れている。
枕元では娘が小さく咳をしていた。額に手を当てると、熱い。
「……熱あるね」
彩花は時計を見た。登校時間が迫っている。けれど、このまま娘を置いて行くことなんてできない。
学校に「体調不良で休みます」とだけ連絡を入れ、保育園にも電話をした。
静かな部屋。時計の針の音がやけに大きく響く。
タオルを濡らして額にのせ、湯を沸かしてポカリを作る。
彩花の髪は乱れたまま、目の下には少しクマが浮かんでいた。
ピンポーン。
インターホンが鳴る。心臓が一瞬跳ねる。
ドアを開けると、そこに美咲が立っていた。
制服姿のまま、リュックを背負い、手には買ったばかりのコンビニ袋。
「……やっぱり休んでたんだ」
美咲は少し息を弾ませて笑った。
「学校で聞いたの。彩花が休みって。なんか心配になってさ」
彩花は驚きながらも、思わず笑みを浮かべた。
「美咲……ありがとう。でも大丈夫だよ、ちょっと熱があるだけ」
「でも、一人じゃ大変でしょ? これ、ポカリとゼリー」
袋を差し出す美咲。
「それにしても……彩花の家、かわいいね。ちゃんと“暮らしてる”って感じ」
彩花は少し照れながら娘を抱き上げた。
「ねえ、あの時の“おねえちゃん”だよ」
娘は熱で少しぼんやりしながらも、美咲を見て微笑んだ。
「……みさき、おねえちゃん」
美咲は膝をついて、そっと娘の髪を撫でた。
「早く良くなってね。ママが困っちゃうよ」
小さな手が、美咲の指をぎゅっと握る。
その温もりに、美咲の胸がじんわりと熱くなった。
「……やっぱり来てよかった」
美咲は立ち上がり、彩花の方を見て微笑んだ。
「ねぇ彩花、無理しないで。困ったら、いつでも呼んで。あたし、相棒でしょ?」
彩花は何も言えずに、ただ頷いた。
涙がこみ上げたが、笑ってみせた。
窓の外では、春の風がやさしくカーテンを揺らしていた。
午後の光がレースのカーテン越しに柔らかく差し込んでいた。
娘は毛布の上で浅い呼吸をしながら眠っている。頬はまだ少し赤く、額に冷えたタオルがのっていた。
キッチンからは、湯を沸かす音と包丁のまな板を叩くリズム。
エプロン姿の美咲が立っていた。制服の上から借りたエプロンは少し大きくて、腰のリボンがだらんと垂れている。
「……ねぇ、彩花。おかゆ、こんな感じでいい?」
鍋の中で米がゆっくりと煮えて、湯気が立ち上る。
「うん、すごく上手。ありがとう」
彩花は娘の側で洗濯物をたたみながら、微笑んだ。
部屋は狭いけれど、二人が並ぶと不思議とあたたかかった。
美咲はお玉を握ったまま振り返り、笑った。
「ふふ、こうやって家事するの、初めてかも。楽しいね」
「楽しい?」
「うん。なんか、落ち着く。あたしの家は、こういう“静かな時間”ってあんまりないから」
彩花は少しだけ手を止めた。
「……ありがとう、美咲」
「何が?」
「こうして、一緒にいてくれること。ほんとに助かる」
美咲は少し照れくさそうに、鍋の中を覗き込む。
「いいってば。あたしも彩花に会えて良かったし。なんか……ここに来ると、“普通に生きてる”って感じがする」
娘が寝返りを打って、小さく咳をした。
美咲はすぐに駆け寄り、タオルを替えてやる。
「……ねぇ、彩花。この子がもう少し大きくなったらさ、三人でどっか行こうよ。公園とかさ」
「うん。行こう」
外では夕立の後の風が吹き抜け、どこか遠くで子どもの笑い声が響いた。
湯気とともに漂うおかゆの香りの中で、穏やかな午後がゆっくりと過ぎていった。
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