第7話 波間のノイズ

台風の前は、町が少しだけ聴き取りやすくなる。

すずは、商店街の事務所の床に膝をつき、延長コードの長さと乾電池の本数を指で数えた。指先に塩の結晶が薄く残る。窓の桟に乾きかけの粒、机の脚に白い縁取り。停電予報の地図は、画面の上で色を増やし、町外れの線が鈍い赤で塗られていた。呼吸はまだ浅くない。浅くない分だけ、耳の奥で電源の微かなうなりが分かる。


《なぎさ》は黒い箱のまま、ラジオのアンテナに細い線でつながれている。ラジオのダイヤルを少しずつ回すと、塩の粒を舌で砕くような音がした。音というより、音が生まれる前のざわめき。港の波、工場の機械音、太鼓、風鈴——町の音で学習された媒介は、慰めず、代わらず、ただ渡すために立っている。出自の紙片は箱の上に貼ったまま。「出自:北鳴・共同作業の記録/録音・調整」。小さい字だが、見えないと困る。


壁際の白板には、明朝の配布予定が並ぶ。防災ラジオ三十台。避難所へ二十、商店街の高齢者会へ五、海沿いの貸家へ五。講習は一回四十五分。内容は「電源・ダイヤル・アンテナ・充電・呼び出し音」。会計は明日公開。今日のすずの仕事は、その前段の確認だ。


ダイヤルを少し戻す。ラジオの針は小さく震え、ノイズは細くなった。細くなったノイズに、すずの喉の膜が触れる。膜は湿っていない。湿っていないのに、薄く冷える。窓の外の風は止まり、ビニール旗の縁は動かない。止まる風の縁で、誰かの息だけが、遠くで引っかかる。


すずは姿勢を変えず、指の力を少し抜いた。抜いた途端、ノイズの中に、ごく短い上昇が現れた。上がる、というより、波形の小さな壁が一枚だけ薄く立つ。立った壁に、息が触れ、涙の粘りが押し当てられて、壁はすぐに溶けた。


呼ぶ前に、手順を確かめる。喉は開く、舌は高くしない、背中の広い筋を少しだけ空ける。指はダイヤルから離さない。呼びかけ、本歌、結び。三句は長くしない。説明は後にしない。後にしない代わりに、返礼を先に書く。


すずは息を吸った。


呼)「千鳥の波、割り切れない周波数よ。」


波は答えない。代わりに、ラジオの針の震えが落ち着く。割り切れない、という言葉は、受信の側に置かれる。受信は、切らずに待てる。


本)「受信を急がず、ノイズを記録する。」


記録、は行為だ。説明ではない。ノイズは悪ではない。悪ではないものを、悪でないまま紙に置く。紙は出自を伴う。時間、場所、機材、担当者。出自は、人を守る。


結)「防災ラジオを寄贈し、使い方を伝える。」


宣言の先に具体が並ぶ。寄贈、講習、ログ、会計。言い切ると、喉の膜に薄い温度が乗る。温度は涙の温度ではない。汗でもない。行為の温度だ。


唱術の端が《なぎさ》に触れる。《なぎさ》は何も言わない。箱の内側で、港の波の位相と、風鈴の一打の停止の長さが、今のラジオのノイズと薄く合う。合うといっても、重なるのではない。伸びた糸の上を、別々に滑る。


ノイズは細く、長く続いた。持続の中で、すずは泣き声の位置を探さない。探さない代わりに、ダイヤルの手触りを覚え直す。指に塩が少し引っかかる。机の上の乾電池のロット番号を目で追う。停電予報は、まだ変わらない。変わらないことが、今の作業の条件だ。


扉が開き、漣が入ってきた。手にペットボトルの水。のどの布に少し冷たい風を通す動作が、入ってきてすぐに分かる。


「来た?」と彼。


すずは首を振った。来た、という言い方は使わない。「記録になっている」。そう答え、ノートの端に印をつける。日付、時刻、周波数の目盛り、窓の外の風の状態、ダイヤルの位置、机の下の延長コードの配列、塩の結晶の量。ノイズの音量ではなく、周囲のことばかり書く。音の外側を整えると、音は勝手に輪郭を持つ。


漣はすずの肩越しに針を見た。彼の喉も静かだ。《なぎさ》は彼の息の底の厚みを選ばず、ただ波形の底の平らさだけをそろえる。そろえるたび、ノイズの白が少し薄くなる。薄くなった隙間から、短い嗚咽が、町の音の層の奥へ落ちていく。


二人は動かない。動かないことが、今日の動作の半分だ。説明しない。慰めない。代わらない。媒介する。ただ通す。そのかわり、返礼は早く。


「停電予報、今夜から明朝にかけて。」すずが言う。


「講習は昼のうちにもう一回足そう」と漣。「海沿いの集合住宅にも、呼び方の紙を配る。紙の端に『出自:北鳴・共同作業の記録』を入れて」


「呼名のログ、形式はこれでいい?」すずはファイルを指で示す。『呼名記録/一次ログ』。場所、時刻、周辺の音、唱術の有無、出自表示の有無、返礼の進捗。空欄がひとつある。呼名の内容。その欄は、最初から灰色に塗ってある。灰色は故意だ。ここは書かない。


漣は頷いた。「書かない欄は、嘘じゃない」


ラジオの針が零のところで小さく震えた。震えは一度で終わらない。二度、三度。三度目の震えで、町中のスピーカーが一瞬だけ柔らかく息を吸った。吸う音はない。吸われた空気の圧が、足の裏でわかる。


それから、呼名が一度だけ町を渡った。


名前は短かった。姓ではなかった。あだ名でもない。一語。二音。海の色でも、花の名でも、食べ物でもない。二人は聞いた。聞いたまま、何もしなかった。何もしないと、名前は音の層の上に薄く残り、誰にも所有されないまま、港の方へ引いていった。


沈黙がしばらく続いた。沈黙は、音の不在ではない。音が触られない時間。触らない決断。


すずはダイヤルから指を離した。漣は窓を半分だけ開けた。風は入らない。入らないが、湿りは少し減る。減った湿りの分だけ、涙の粘度が薄まる。薄まった粘度は、紙の上に吸われる。吸われたところに、すずはチェックをつけた。「説明しない」。チェックに印を重ねる。「履行:寄贈+講習」。返礼の列は、音の列より先に動く。


——


〈漣〉


講習の部屋に、折りたたみ椅子を十脚並べた。椅子の脚が床の線に合うように、すこし角度を直す。角度が合うと、息が合う。合いすぎない程度に。


「ダイヤルは、ここで止まっていてもいい」と漣は言った。手元のラジオを見せる。「急いで回さない。受信を急がない。聞こえないからといって、音量を上げない。音量を上げると、町の音が隠れる」


参加者は年齢がまちまちだった。避難所の担当者、商店主、港の人、学生、祖母世代。全員、手を使う準備ができている。指の温度は別々だが、持続の長さは同じくらいにできる。最初の十五分は、ノブに触る練習だけ。側面から、上から、指の腹、爪の根元。触り方が変わると、音は変わる。音というより、針の揺れ方が変わる。


《なぎさ》は部屋の隅で位相を整えている。整えるのは、蝉の残響と扇風機の羽の切り返しと、窓枠に触る風の厚み。その整列が、ここでの講習の下地だ。箱は喋らない。喋るのは人で、喋らなくていい場面では、誰も喋らない。


「昨夜、名前が聞こえたって本当か?」港の人が聞いた。声は低い。


「本当」と漣。「ログには時刻と場所だけ残す。名前は書かない」


「誰の名前だった?」


漣は答えなかった。答えないことは、説明不足ではない。ここでは、守るべき沈黙が一つあった。沈黙は、誰かのためだけでなく、町のためのものでもある。返礼の手順が終わるまで、沈黙を置く。置く場所を間違えない。


講習の終盤で、漣はテンプレートを出した。「15秒の声日記」。小さな紙に、三つの行だけ。


〈息(3秒):呼吸の音だけ〉

〈一行(6秒):今日の作業、ひとつ〉

〈結び(6秒):返す行動の宣言〉


「出自」と「日付」と「場所」を必ず。名前は要らない。『北鳴・共同作業の記録』の注記を添える。投稿は自由。説明はしない。「泣いてもいいですか」と誰かが聞いたら、「泣いてもいい」。だが、泣き声に説明は要らない。説明を求められても出さない。その代わり、返礼のチェックが一つ増える。「配布」「講習」「出自」。印をつける。印を見えるところに置く。


部屋の空気が少し軽くなった。軽くなったところで、外の空が暗んだ。薄暗さに、白い地図の停電予報の色が似合う。似合うのは嫌なことだが、嫌だと甘く言う場所ではない。窓を閉める。呼吸の底を下げる。すずが入口の掲示に紙を足した。「防災ラジオ寄贈の手順」。貸与と寄贈の違い。使用した音源の出自。AI音声の注記。すべて小さく書く。小さくても、見えるところに置く。


午後の終わり、講習の最後の回が終わる前に、ラジオの針が一度だけ右へ震えた。震えは短い。短いのに、部屋の時間が半拍ずれた。ずれた隙間に、啜り上げる息が落ちた。誰かの。ここにいる誰かか、ここにいない誰かか、それは分からない。分からないが、確かに落ちた。


漣は手を挙げ、言葉を止めた。部屋が静まる。静まりが浅くならないように、彼は右手で空中に薄い線を描き、そのまま下ろした。説明はしない。問いは受けない。椅子の背で衣擦れの音が薄く起こる。起こって、止む。その止み目で、泣き声の持続が、音量を上げずに消えた。消えたのではない。別の層へ移った。


「ここで終わります」と漣。「片づけを始めます」


片づけは迅速に。手順表に沿う。ラジオをふたつ、窓辺に置き忘れない。延長コードは輪を小さくしすぎない。紙の束は紐で縛り、紐の端を内側へ入れる。借り物には印をつけて返す。印をつける手の写真を一枚、会計の紙の下に添える。出自の紙片が剝がれていないか、最後にもう一度確認する。


——


〈すず〉


夜の少し手前、町のスピーカーが同時に一回だけ小さく息をした。息のあと、何も鳴らなかった。鳴らないことを、すずは良い兆候として数えた。返礼が進んでいるとき、町は鳴らなくなる。鳴らない間に、やるべきことを積む。


風はまだない。停電は来ていない。停電予報の色は少しだけ広がった。色が広がる速度は、紙の端の塩の結晶が乾く速度と似ている。似ているからと言って、意味はない。意味を探さない。探す代わりに、道具の由来をもう一度確かめる。ラジオ、アンテナ、電池、箱、テープ、紙。どれも、来た道と戻る道がある。戻る道は、名前ではなく、印で示す。


すずは《なぎさ》の電源を落とし、ケーブルの端を束ねた。束ねている最中にも、涙の粘度は彼女の喉の膜の手前で薄く残っている。残っているが、重くならない。重くしない。重くすると、返礼が鈍る。鈍らせないために、彼女は心の中で短く唱えた。


呼)千鳥の波。

本)記録する。

結)伝える。


言葉は短くなっていた。短くなっても、手順は減らない。減らないまま、紙の隅に「呼名ログ:一次公開」と書く。書くと言っても、何も書かない欄は増えない。時刻と場所と出自だけ。内容は空欄。空欄の灰色は濃くしない。薄いまま。薄いほうが、長く保つ。


商店街の柱の根元に置いた大きな紙に、「返礼/進捗」という欄を作った。「寄贈」「講習」「出自表示」。それぞれに日付と印。印の無いところは、薄い赤で小さく「未」とだけ書く。未は責める文字ではない。未が見えると、次の手が置ける。見えない未は、ノイズになる。ノイズは残る。残れば、町の音の底が濁る。濁らせない。濁らせないために、すずは紙を壁に貼った。貼る位置は陰。風に当たりすぎない。


スマートフォンに、十五秒のテンプレートを置いた。「#声日記」。三つの欄。息/一行/結び。録る人は、出自と日付と場所を書くだけ。名前は書かない。泣いてもいい。説明は要らない。説明しないことが、町にとっての勇気の形であることを、一行だけ付け足した。太字ではない。濃度を上げない。濃度を上げると、読む人の呼吸が浅くなる。浅くなると、手順が鈍る。


——


〈漣〉


夜。停電は来なかった。予報の色は明け方に薄れた。薄れたことに意味はある。意味があるからといって、声を上げる場所ではない。やることは、寄贈の配達と講習の二回目だ。今日は港の方の古い貸家に、五台。二台は単身者。三台は二人暮らし。紙の端に「出自」を印刷したステッカーを貼ってから、箱に収める。箱には「戻る場所」を書く。戻る場所が見えると、受け取る人の手が軽くなる。


二軒目で、ラジオの針が何もしていないのに震えた。人の声がない部屋。水の匂い。恐らく、床下の塩の乾きかけ。振動は短い。短いが、ノイズの白の上に薄い影が立つ。影は、昨日の呼名の余韻かもしれない。彼は探らない。探らず、使い方だけを示す。


「電池はここ。長押しじゃなく、短く。このくらいの力。ダイヤルは急がず、ここまで回す。アンテナは伸ばしすぎない。倒さない。ここに出自があるので、剝がさないでください」


二人暮らしのうちの一軒で、年配の声が小さく聞いた。「昨日の名前、誰だったんですか」


「ログに時刻と場所はあります」と漣。「呼名は書いていません。これが紙です」


紙を差し出す。「呼名記録/一次ログ」。灰色の欄。空欄。それを見て、相手は頷いた。頷いたあと、ラジオのダイヤルを指で触った。触れ方は軽い。軽いと、音は動かない。動かないまま、部屋の空気は静かになる。静かになると、不必要な想像が減る。減った分だけ、次の手順が動く。


港に近い最後の一軒で、ラジオの針が左へ滑った。滑って止まらず、極小の音圧が部屋の隅で渦になった。渦は音ではない。塩の匂いの濃淡だ。濃いほうから薄いほうへ移るとき、喉の布が一枚だけ縮む。縮んで、また戻る。戻るとき、窓の外の旗の紐が、風がないのに一度だけ震えた。震えは長くない。長くないから、今日のうちに、返礼の印をもうひとつ増やす。


——


〈すず〉


昼の講習で、ラジオの前に置く紙を作った。「説明しない」。小さい字。薄い。下に「返礼の進捗」。印が三つ。昨日の印が二つ。今日、三つ目が埋まる。「寄贈」「講習」「出自」。出自の印は、ステッカーの写真でも良い。写真は権利を共有する。冊子『呼び方と使い方』の端に書く。「写真の権利=共同」。誰の顔も写さない。写っているのは手だけ。手は記号にならない。記号にならないから、誰かを傷つけない。


部屋の隅の《なぎさ》は、昼の温度の上がり方に合わせて、位相を一枚だけずらした。ずらす前に、彼女は箱の上の紙片を指で押した。剝がれていない。出自の紙は、箱の呼吸ではなく、使う人の呼吸を守る。守る紙は剝がれない。剝がれても、跡が残らない。跡は弱い記録だ。弱い記録は、強い沈黙のそばに置くと、十分役に立つ。


午後、商店街の端のスピーカーから、小さなノイズが上がった。上がってすぐ沈んだ。沈むと、町の音は軽い。軽い音は、明日の風に似る。似ることに意味はない。意味を探さない。代わりに、チェック欄の「未」をもう一つ減らす。減らすことが、ノイズの滞留を防ぐ。未が長く残ると、ノイズは町に薄く積もる。積もる前に、手を動かす。


彼女は大きな紙の端に、薄い線で小さなメモを足した。「未が三日を越えたら、ノイズ残留の印を点灯」。印は四角い赤。点灯は、責めるためではなく、手順を急ぐため。急がないところと急ぐところの差を、紙の上に見えるようにする。紙は人に命令しない。指し示すだけ。指し示す方向に、手が動く。


——


〈漣〉


夜に入る前、彼は倉庫で《なぎさ》のケーブルを巻き、棚の端のラベルを確認した。ラベルの端に「AI音声の注記」。小さく。「媒介のみ/代替なし」。小さい字だが、見えないと困る。困るのはいつも、あとだ。


倉庫の外に出ると、海はまだ静かだった。波は低い。低いが、広い。広い波の上で、音は立たない。立たない音を見ると、喉の布が少し柔らかくなる。柔らかくなると、彼は短い句を心の中で整える。


呼)千鳥の波、割り切れない周波数よ。

本)受信を急がず、ノイズを記録する。

結)寄贈し、使い方を伝える。


声に出さない。出さないが、体は動く。動くのは、錠前に油を一滴落とす手、階段の段差にテープを一枚残す手、扉の隙間に紙を挟む手。小さな手順を置きながら、彼は脳裏に昨夜の名前を置かない。置かないことは、逃避ではない。置かないことが、名前の所有を避ける唯一の手順だ。名前は町に置く。人に置かない。


「明日の朝、会計を出す」とすずからメッセージ。

〈うん〉と返す。短く。短い返事は、呼吸を乱さない。


——


〈すず〉


朝。風が少し出た。出た風の縁が、紙の端を揺らす。揺れる端を押さえ、すずは会計を貼る。出金:ラジオ、電池、ステッカー、印刷、ケーブル、保険。入金:寄付、物品の提供(評価額)。差額は「備品の維持」。数字の横に手の写真。印鑑を押す手、ラジオを渡す手、ダイヤルを示す手。手の出自は書かない。手は誰のものでもない。表情は写さない。写すのは布の皺と粉の白だけ。


紙の下に、小さく「呼名記録/一次ログ」を置く。空欄。灰色。灰色は薄い。名前は無い。時刻と場所と出自だけ。閲覧は自由。転載は不可。不可の理由は書かない。書かないほうが、紙は軽い。軽い紙は、長く貼っておける。


事務所の扉を開け放ち、ラジオのダイヤルを一度だけ回す。ノイズは薄い。薄いが、消えない。消えないことは、町が生きている証拠だと、彼女は短く信じる。信じるというより、手順を続ける理由として、十分に扱う。理由は長くないほうがいい。長い理由は、手を重くする。


「未」が一つだけ残っていた。港の古いアパート。寄贈の印はある。講習の印がない。印がない場所に、すずは赤い小さな四角を灯した。灯すと、彼女の喉の膜が少しだけ緊張する。緊張は悪くない。悪くないが、長く置かない。昼までには消す。消すには、足を運ぶだけでいい。


——


〈漣〉


最後の「未」を消しに行く。階段は狭い。手すりは錆びている。錆びは手のひらに移る。移った分だけ、今日の重さは軽くなる。軽くなるのは、手の側であって、町の側ではない。


ドアが開く。室内には古いラジオが二台。片方は壊れている。もう片方は音が小さい。寄贈したラジオをテーブルに置き、電池を入れる。ダイヤルの触り方を示す。アンテナの伸ばし方、畳み方。スピーカーの位置。窓の桟の塩。塩の上に、短い影が揺れる。影は風のものではない。人の呼吸のものだ。


「名前、聞こえたんだろう」と相手が言う。彼は頷かない。頷くときではない。説明を求める目ではない。彼はただ、指でダイヤルをなぞり、針の震えを見せる。震えは細い。細い震えが、部屋の空気の厚さを教える。厚い空気は、泣き声を呼ばない。呼ばない空気を作るのが、今日の講習の仕事だ。


やがて、針は穏やかになった。穏やかになったところで、彼は紙に印をつける。講習。出自のステッカーをラジオの背に貼る。剝がれにくく、跡が残らない。跡は記録にはならない。ステッカーこそ記録だ。


階段を降りながら、彼は喉の布を撫でた。昨夜の泣き声は説明しなかった。説明しないことで、泣き声は町の音に戻った。戻り切らない一部がノイズとして残る。残ったノイズは、返礼が終わるまで薄く響く。それでいい。響きをゼロにしないことも、町の呼吸のうちだ。


——


〈すず〉


午後、紙の「未」が消えた。赤い四角は消灯。紙は淡い灰に戻る。戻ると、余白が増える。余白が増えると、誰かが印をひとつ足せる。足された印は、音に変換されない。紙に留まる。留めるのが目的だ。音にしてしまうと、消費される。消費されるには早すぎる。


《なぎさ》の上の紙片をもう一度確認する。「出自」。剝がれていない。剝がれていないことに安堵するのは、もう儀式だ。儀式は大げさではない。手の確認。手の確認は、喉の確認。喉の確認は、説明しない勇気の確認。


すずは机に短いメモを書いた。「15秒の声日記:息/一行/結び」。結びには「返す行動を宣言」とだけある。宣言は強くない。強すぎない。強くすると、手が遅れる。遅れると、ノイズが残る。残ったノイズは、また呼ばれる。呼ばれたときに、今日は呼ばない。それが、今日の勇気。


窓の外、風が動いた。旗の紐が震え、塩の結晶が線になって滑った。滑った先で、町の音は少しだけ軽い。軽さに息を合わせる。合わせる前に、手をひとつ置く。紙の端に、小さな四角をもう一つ描く。「次の未」。未を先に描いておくと、明日の手順がすぐに始められる。


すずは息を吸い、喉の膜を静かに通した。声は出さない。出さないまま、三句を心の内側で整える。呼:千鳥の波。 本:記録。 結:伝える。紙には何も書かない。書かない紙は、手の下で温度だけが変わる。変わる温度の上で、町は静かに次の層を重ねた。


——


〈漣〉


夜、風はさらに強くなった。台風はまだ来ない。来ない間に、やることはある。ラジオの最終点検。倉庫の鍵。《なぎさ》のケーブル。会計の紙の端。呼名ログの灰色。灰色は薄い。薄いままで良い。薄いままで、長く貼る。


外を歩くと、街路灯の下の空気が少し捩れて見える。捩れは光の問題ではない。空気の層が増えた。増えた層を、彼は切り裂かない。裂かずに歩く。歩幅は短く、息は深く。深い息は、音にならない。ならないまま、喉の布だけが柔らかい。


彼はふと立ち止まり、スピーカーの柱を見上げた。昨夜、一度だけ名前を渡した装置。装置は黙っている。黙っている装置に、中身の説明は要らない。要るのは、外側の確認。ネジ、配線、防水、ステッカー。ステッカー。出自。剝がれていない。剝がれていない。よし。


足元で、小さなノイズが立ち上がった。砂の上で靴の底が微かな乾いた音を返す。風が運ぶ塩の粉が、街路灯の光で一瞬だけ線になる。線は音ではない。線は、今夜の厚みの輪郭だ。その輪郭に沿って歩けば、次の未が見える。見えた未は、明日の午前に印へ変わる。印は音へ変換しない。変換しないまま、紙の上に残す。残った紙は、町の壁に貼られる。貼られた壁は、長く風に当たって、やがて色が薄くなる。薄くなった色だけが、静かに町の時間を示す。


「選ばない」夜は、少し痛い。痛みは硬くない。硬くない痛みは、手を早くしない。早くしない手は、明日の作業にちょうどいい。ちょうどいい速度で、彼は事務所に戻り、灯りを落とした。

落ちる前、蛍光の白が一瞬だけ息と合い、町全体が一拍で静まった。静まった隙間で、彼は喉の布を手のひらで撫でた。撫でると、布は柔らかく、声は要らない。要らないまま、手順が続く。


——


翌朝、台風はまだ遠かった。停電予報の色は細くなり、風は断続的に吹いた。商店街の壁の紙には、印が三つ並び、赤い四角は消えた。未は無い。無いまま、紙の右下に小さく余白が残った。余白は「次の未」のため。余白がなければ、手はどこにも置けない。置けない手は、音になる。音になる前に、紙に戻す。それだけで、町の底は軽くなる。


《なぎさ》は黙っていた。媒介は、泣かず、歌わず、説明しない。薄く位相を整え、薄く返す。返す先に人の手があり、紙があり、印がある。印の無いところに、赤い四角が灯る。灯ることが、ノイズ残留の兆しの可視化。可視化がある限り、恐れは作業へ変換できる。


すずは十五秒の声日記を一本だけ録った。

息。

一行。「今日、印が三つ揃った」

結び。「明日も、配る・教える・書く」


出自、日付、場所。名前はない。泣き声は付けない。説明はしない。投稿は短く、消えやすい場所に置く。消えても、紙は残る。紙の上で、返礼は履行される。履行された返礼は、町の音を少しだけ軽くする。軽くなった音は、波間でノイズに出会っても、すぐに濁らない。濁らない音は、次の誰かの涙に、ゆっくりと場所を空ける。空けられた場所がある限り、町はまた、呼び、記録し、伝える。声は所有されずに、海へ戻る。戻った海の上で、台風はまだ遠い。遠いあいだに、手順は積まれる。積まれた手順の上で、今日の静けさは、静けさのまま保たれていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る