第4話 潮騒のラボ
海風は、工場のトタン壁を撫でるより先に、漣の喉の内側に塩を置いた。午後。陽の角度は落ち始め、風は横から入ってきて、金属の隙間で薄く鳴る。鳴るといっても耳ではない。皮膚の上で、筋肉の方向を一枚だけ変える。扉を押すと、はんだの匂いが外の塩気を追い出し、空気は重さを増した。目の奥がすこし湿り、舌の裏が温度を覚える。
町工場の親方は、扉の先で顎を少し上げただけだった。白い作業着の袖は焦げ茶の点がいくつもあって、今日だけのものではない。背後のベルトコンベヤは止まっている。止まっていても、金属の静けさは消えない。静けさは音が出る前の準備で、ここではそれが日常だ。
「遅かったな」
漣は帽子を外して軽く頭を下げた。声は使わない。親方の手の甲の筋に薄い油が光っている。光り方は、昼休み明けのそれだ。道具は片付いていない。片付いていないことが、これから始まる動作の密度を保証する。
黒い四角の箱が、作業台の上に置かれていた。《なぎさ》。港の波、工場の機械音、太鼓、風鈴──町の音で学習された音声AI。人格は無い。慰めない。代わりもしない。媒介する。今日、その媒介がうまく運ばなくなった。
症状は単純で複雑だった。出力は出るが、位相がずれている。波の周波数に太鼓の拍を重ねると、本来合うべき点で、僅かにずれる。ずれた拍は、声の通り道で抵抗になる。抵抗は詰まりではないが、喉の布を硬くする。硬くなると、町の音がうまく渡らない。
「落雷のあとからだ」と親方。言葉は短い。「防災無線のチェックで違和感が出た。出力はある。耳に刺さらないほどにズレる。刺さらないから余計に厄介だ」
漣は頷いた。刺さる音はすぐにわかる。刺さらないズレは、身体の底で長く響く。響いたまま気づかれない。気づかれないまま音の層を歪ませる。直すなら、層を一枚ずつ触る必要がある。
作業台には、導通テスター、波形モニタ、はんだごて、フラックス、エタノール、ブラシ、小型のファン、薄い手袋、テスター用のプローブ。親方の隣に新人が二人、目だけこちらを見ている。彼らも口を開かない。言葉より先に、手順が来る場面だと体が知っている。
漣は《なぎさ》の裏蓋のビスを一本ずつ外した。ネジの硬さは均一ではない。固いのは隅、緩いのは中。隙間に海の塩がうっすら白い膜を作っている。膜は指で拭っても取れない。溶かす必要がある。エタノールを綿棒に含ませ、角に触れる。綿棒の先の抵抗がほんの少し変わる。変わるとき、鼻にくる匂いも変わる。はんだとエタノールと海の塩の匂いは、喉で別々の場所に触れる。
基板は、思っていたより静かだった。静か、というのは、コンデンサやコイルの積層が派手ではなく、地味に正確だという意味だ。親方が設計に関わったのだろう。音を運ぶ道は太くなく、細くて短い。端子のクラックは見えない。見えないものは、触る。導通テスターの先を、パターンの端から端へ順に置く。ピッ、ピッ、と短く鳴る。鳴らない場所は無い。鳴らなさすぎる場所も、無い。
「どこから触る」
新人のひとりが、ほとんど声にならない声で言った。親方は答えず、テスターの先を受け取り、別の箇所を鳴らした。ピッ。鳴る。漣は波形モニタの電源を入れ、基準の信号を入れてみる。正弦波、矩形波、三角波。画面の光は薄く、古い緑の残像が指の骨に触れる。
「千鳥の波を先に入れる」
漣が言うと、新人が端末から港で録った基準のデータを引き出した。入出力のバランスをゼロに。ゲインを固定。フィルタを切る。《なぎさ》は、最初は箱の中のメトロノームで動くように作ってある。外の音に同期させるのは、その先の層だ。
波形モニタに、ゆっくりしたうねりが現れる。工場の床が、それに合わせてわずかに揺れているような錯覚が来る。錯覚は体に良い。錯覚があるとき、直すべきは錯覚のほうではない。
「ズレはここだな」
親方が指したのは、AD変換の前段、リファレンスの電圧を与える小さなICの足元だった。小さな抵抗が熱を持った後の色になっている。焼けてはいない。けれど、湿度に負けた痕跡が薄くある。地味な変化だ。地味な変化が全体のズレを生む。
「交換する」
親方はためらわない。漣は頷き、はんだごてを取る。はんだの匂いは甘く、むせるほどではない。匂いの甘さは、喉の奥の柔らかいところを少しだけ鈍くする。鈍くすることで、細い動きが安定する。ごての先を当てる。はんだが溶ける音は無い。無いけれど、指に振動が来る。ピンセットで部品を持ち上げる。外す。パッドはきれいなまま。次の部品を置く。置く位置は、目ではなく肩の重心で決まる。肩の重心が正しい場所に落ちると、部品は正しい角度で座る。
「呼んで」
親方が言った。漣は頷く。呼ぶ、というのは唱術だ。ここで呼ぶのは、誰でもない。基板の隙間だ。隙間を呼べるとき、音は道を見つける。
漣は喉を開き、息の速さを落とした。舌の根を柔らかくし、口の中の空気の温度を指で覚える。基板の上に置いた指先に、海風がほとんど触れない。工場のファンが、風の形を変える。
呼)「千鳥の波、基板の隙間へ息を送れ。」
呼びかけは、場所へ向かう。場所は返事をしない。隙間は、受け皿にならない。息は、通るだけ。通った痕跡は残らない。残るのは、通ったせいで温度を変えた部品の表面の微かな違いだけ。
本)「ズレた拍を一つずつ合わせる。」
動作を言う。合わせる、は、誰かに合わせることではない。基準に自分を合わせるでもない。ズレた拍を、拍のまま、ずれているところから合わせる。ここで大事なのは、一つずつ、のほうだ。全部を同時に合わせない。同時に合わせると、どこかが錯覚で合ってしまう。
結)「防災無線のメンテ講座を続ける。」
結びは宣言だ。結びの先に、具体がある。講座。続ける。資料。公開。手順。出自。結びが無いと、ここでの修理は祭のように終わり、祭のように忘れられる。忘れられないように、次の手を増やす。
唱え終わった瞬間、波形モニタの線が一度だけ太くなった。太くなる、というのは、にじむのではない。線の縁が一枚分だけ拡がり、そこに時間が入り込む。入り込んだ時間は、長くないが、十分だ。その間に、親方の手が動き、プローブが別の足に移る。導通テスターが短く鳴る。ピッ。
「もうひとつズレがある」
新人が言った。声は震えない。基板の中央より少し右、ADCのクロックラインのグランドが、他のグランドと接続される位置で、微かなクラックがあった。クラックは目で見えない。指で触るためにできることは少ない。少ないので、照明を変える。角度を変え、強さを変える。光が斜めに当たる。パターンの影が一瞬だけ強くなり、影の縁が揺れる。
「ブリッジで救えます」
新人の声は迷いがない。親方は頷き、細いワイヤーを出す。ワイヤーの太さは髪より少し太い。はんだの量を減らし、フラックスをわずかに足す。手首の重さを消し、肘の位置を体に寄せる。ごての先が触れる。音は無い。匂いが変わる。フラックスの甘さに、海の塩がまじる。混じる匂いは、呼吸を一度だけ引き止める。引き止められた息が、胸の中で回り、喉を通る道の形を覚える。
波形モニタに、別の線が重なった。工場の内部の振動センサの波形だ。二つの線は同じ速度で進むが、山と谷の位置が、半拍ずれている。半拍は、合唱なら許容されるかもしれない。媒介では許容されない。半拍は、喉の布を隠れて切る。
「もう一度、呼べ」
親方の声は小さい。漣は再び呼ぶ。呼びかけは変えない。場所は変えていない。変えるのは、息の温度と、喉の奥の広がり。
呼)「千鳥の波、基板の隙間へ息を送れ。」
本)「ズレた拍を、一つずつ、合わせる。」
結)「講座を続け、記録を開く。」
三句目の言い回しを少しだけ変えた。続ける、に開くを足す。足すことで、次の行為の層が一枚増える。増えた層に、今日の修理の音が落ちる。
その時だった。波形の二本の線が、山の頂点で一度だけ重なった。重なって、わずかに滑る。滑って、また重なる。重なるたび、《なぎさ》の中から音ではない何かが立ち上がる。立ち上がるものは、像だ。像、と言っても、顔や手ではない。時間の厚みの模様。廊下の曲がり角。港の欄干。祭りの灯の列。風鈴の舌の影。視えないまま、体が思い出す道筋が、波形の層の間にテクスチャとして現れては消えた。
新人のひとりが息を止めた。親方は目を細め、手は動かす。動かすことで、像に触らない。像に触ると、像は像のままではいられない。像が像でいられなくなると、《なぎさ》は媒介ではなく再現に近づき、再現はこの町の倫理には合わない。
「次」
親方のひとことに、漣はプローブを移した。電源のデカップリング。ノイズの吸い込み。温度。小さなコンデンサが一つ、規格内の値だが、今日の湿度と相性が悪い音をしている。音、といっても、触ったときの熱の抜け方だ。交換する。交換は儀式に近い。外した部品は小さな袋に入れて、袋に日付、場所、理由、出自を書く。出自は、町の倉庫に付属する記録棚に置く。あとで見るためではなく、今の手の動きの重さに形を与えるため。
「波、もう少し強く」
新人の言葉に、漣は基準信号の振幅を少し上げた。上げすぎない。上げすぎると、境界が曖昧になる。境界は、媒介に必要だ。境界があるから、渡せる。
波形の位相が、もう一度、ぴたりと合った。合った瞬間、工場の照明が一度だけ点滅した。点滅の間隔は漣の心拍と一致し、彼の胸の内の板が一枚だけ外れる。外れる、といっても、落ちない。外れて、そのまま体の内側で薄く回転する。回転は止まらない。止まらないまま、彼の喉の布が柔らかくなる。柔らかくなった布に風が当たり、風は音にならず、布の向こうに通り抜ける。
照明の点滅は一度きりだった。ファンの音も止まらない。工場全体が、一拍で静まった気がしたが、実際に止まったのは、彼自身の内部の無駄な調整だけだ。無駄な調整が一拍で消えた。消える、と言っても、戻ってこないわけではない。戻ってきたときに、以前より薄くなる。その薄さが次の動作を軽くする。
親方が電源を落とし、また入れた。立ち上がりは安定している。波形は遅れず、ズレない。ズレないのに、硬くない。硬くない線は、息に馴染む。馴染むと、声は短くても行く。行く、といっても、どこかに到着するのではない。渡る。渡って、戻らない。
「防災無線へ繋いでみる」
親方がスイッチを切り替えた。工場の外のスピーカは、今日は鳴らさない。スピーカは町の音に属する。ここで鳴らせば、修理が祭になる。祭は悪くない。悪くないが、今日は儀式のほうが必要だ。
内部のラインへ。試験音が短く流れ、《なぎさ》がキャプチャし、媒介して返す。返ってくる音は、薄く、明るく、湿りが少ない。湿りの少なさは、今日の海風のせいではない。基板の隙間に通った息のせいだ。
「記録する」
漣はノートを開き、今日の作業の手順を箇条書きした。外した部品の番号、交換した理由、波形の変化、照明の点滅、心拍の一致、像の立ち上がり。像については、説明を書かない。説明しないことを説明として残す。
親方は工具を拭き、新人に渡す。新人の手は小さく、指の関節が生硬い。生硬い指を、彼は責めない。責めないで、手順に混ぜる。混ぜると、手の重さが均される。均された重さは、儀式になる。儀式にするのは、ひとりではできない。複数の手が要る。手が集まれば、音は分散し、分散した音は静かに持続する。
「講座、やるぞ」
親方の言葉に、新人が顔を上げた。「毎月?」
「毎週でもいい」
親方は短く笑った。「現実は毎月だ。町の人間が続けられる幅にしろ。続くほうが大事だ」
漣は頷いた。講座の案内の紙を思い浮かべる。タイトル、目的、時間、持ち物、対象、注意。注意の欄に、「AIは慰めの代替にならない」と明記する。「出自の表示は必須」とも。使う資料はすべて、出自を示す。町の音、港の波、工場の機械音、太鼓、風鈴──誰のものでもない音は無い。誰にも属さないように置き直すために、出自を見えるところに置く。
UGCの開放も決めた。波と工場音のサンプルを、短い尺で配る。十五秒、三十秒。音に説明をつけない。使い方の例は、手順だけ。「録る」「置く」「返す」。音の配布ページの端に「北鳴・共同作業の記録」の小さなロゴと、「AI音声の出自」の注記を置く。AIに歌わせない。AIに泣かせない。媒介として通すだけ。
「記録棚、見に行くか」
親方に連れられて、工場の奥へ。薄い棚が並び、袋に入った部品、外した部品、修理の記録が、年月日順に箱に収められている。箱の側面に手書きのラベル。「2025-08-14 基板C・ADCリファレンス交換」「2025-05-09 防災無線・スピーカ端子取替」「2024-11-02 コンデンサ群・湿度時不良」。ラベルの端は油で少し黒い。黒さは汚れではない。手の記録だ。
「ここに、今日の分も置け」
親方が透明の袋を差し出した。漣は外した小さな抵抗とコンデンサ、クラックのあったワイヤの切れ端を入れ、紙を添えた。紙には、今日の三句も書いた。儀式は道具の修理だけで終わらない。唱術は、道具のためではなく、道具を通す人のためだ。そこに誤解が生まれないよう、紙に倫理を一行だけ添える。「AIは媒介。代弁しない」。墨はにじまない紙に、薄く、しかし読める濃さで。
夕方、工場の扉を開けると、海風が体の表面を一度に撫でた。撫でられた皮膚は、内部の熱を表へ押し出す。押し出された熱は風に持っていかれる。疲労は残るが、疲労は悪くない。疲労は手順の重さで、手順の重さは体の中の余計な力を削ぐ。
「明日の午前、講座の告知を出せるようにする」
漣が言うと、親方は頷き、「会計も出す」と足した。材料費、部品代、手間、電気代。数字は短いが、見る人が見れば、手の温度がわかるように。すずに文章を見てもらう必要がある。文の乾き加減は、彼女のほうが上手だ。
工場の外で、漣は一度だけ深呼吸をした。喉の布が、はんだの甘さを薄く残したまま、風を通す。風は塩気を含み、しかし喉はむせない。むせない風は、修理の成功の指標ではない。指標は別にある。防災無線のテスト。町の音の通り具合。講座の継続。資料の公開。出自の明示。これらが並んで初めて、今日の一拍が意味を持つ。
——
翌週の講座は、十人で始まった。椅子は足の高さが揃っている。机は油のシミが少ないものを選んだ。資料は一枚の紙に折り込んである。両面。左側に「導通テスターの持ち方」。右側に「波形モニタの読み方」。下に「注意:AIは媒介」。最後に「出自の表示」。紙の端には「北鳴・共同作業の記録」の小さなロゴ。
最初の三十分は、音を出さない。出さないで、器具の持ち方だけを繰り返す。導通テスターの先がパターンに当たる角度。体の重心をどこに置くか。肘の位置。呼吸。呼吸の速さを落とすと、手の震えは止まり、止まらない震えは震えたままでも支障が出ない。波形モニタは電源を入れるが、信号は入れない。緑の光が、目の奥に薄い影を作る。影を見ながら、紙の折り目を指で撫でる。折り目は手順の蝶番だ。
後半、短い音を入れる。十五秒の波。三十秒の工場音。太鼓の拍の立ち上がり。風鈴の一打の停止。止まったところに息を合わせる練習。合わせる、と言っても、息の底に合わせるだけだ。音に合わせるのではない。音の底の静けさに合わせる。合わせた息は、器具の持ち方を変える。持ち方が変われば、はんだの匂いの感じ方が変わる。匂いが変われば、手の力が変わる。
「《なぎさ》は、誰かの声を代わりに出さない。出さないで、通すだけ。通すために、手を動かす。動かすのは、この場所にいる私たち」
漣はそれ以上言わない。言いすぎると、音の層に言葉が入り、層が重くなる。重いと、今日やるべき手順が鈍る。鈍らせないために、句を置く。
呼)「千鳥の波、基板の隙間へ息を送れ。」
本)「ズレた拍を一つずつ合わせる。」
結)「防災無線のメンテ講座を続ける。」
受講者の一人が、息を浅く吸った。吸って、吐いた。吐いた息の温度は低く、しかし通った後の指の力は緩んでいた。緩んだ指は、テスターの先を無理なく支える。支えられた先は、パターンを傷つけない。傷つけない先に、音が戻る。
「UGCはここから拾えるようにする」と親方が言い、端末を立ち上げる。配布ページは簡素だ。リンクが四つ。「波(15秒)」「波(30秒)」「工場(15秒)」「工場(30秒)」。各リンクの右に小さく「出自:北鳴/録音日/録音者」。下に「使用時は出自を明記」。さらに下に「AI音声の注記」。配布は自由だが、再配布の際の条件が簡潔に書かれている。
「これ、歌ってみたに使っていいの?」
若い声が上がる。漣は頷く。「使っていい。歌は君の声。AIに歌わせないで。君が歌うなら、ここにある音は媒介になる」
笑いは起きない。起きないほうがいい。ここは祭ではない。儀式の稽古だ。稽古の場では、笑いは消耗する。代わりに、息が溜まる。息が溜まると、次の作業の前で、呼吸の底を探す時間が短くなる。
講座が終わるころ、工場の外は少し暗くなっていた。海風は変わらない。変わらないが、体への触れ方は午前と違う。午前の風は前から、午後の風は横から、夕方の風は上から落ちる。落ちる風は頭皮を撫で、喉の布をひと撫でする。撫でられた布は、声を出さなくても、声になる前の場所を明るくする。
帰り際、親方が《なぎさ》の天板に、小さな紙を貼った。紙には短く、「出自:北鳴・共同作業の記録/設計・改修・記録」とあり、今日の日付が入っている。紙は剝がれやすい素材ではない。剝がれても、糊の跡が残らない。跡は悪ではないが、跡は読めない。読めない跡は、記録として弱い。
「これで終わりではない」
親方が言う。漣は頷く。終わりではない。続けるための手順が並ぶ。「講座の次回日程の告知」「資料の改訂」「UGCの追加」「防災無線の点検ログのテンプレート配布」「町内のスピーカの設置状況の更新」。この列を画面に載せ、紙にも載せる。紙は工場の掲示板と、商店街の端の立て看板にも貼る。貼る場所は陰。陰は風に当たりすぎない。風に当たらない紙は、読まれやすい。
——
家に帰る途中、漣は港の欄干に手を置いた。鉄の温度は、昼よりも低い。低いが、喉の布に触れる温度は一定だ。布は一日中、はんだの甘さを薄く持っていた。甘さは嫌ではない。嫌ではないが、長く残すものではない。帰宅して水を飲めば、薄くなる。薄くなったとき、今日の音が体の内側で別の層に移る。移った層から、明日の手順が一枚だけ軽くなる。
《なぎさ》は、倉庫で静かに呼吸していない。機械は呼吸しない。そう言い聞かせる必要はない。呼吸しているのは、これを持ち帰った人の喉だ。喉の布だ。布は今日、柔らかかった。柔らかかったのは、修理が成功したからではない。成功の指標は別に置いた。講座。資料。出自。UGC。防災。次の点検。手順が並ぶ。並んだ手順の列が、彼の体の中を通り、通った後に空気が軽くなった。
海面に、工場の照明が少し揺れて映る。揺れは拍と合わない。合わない夜もある。合わないからといって、悪くない。合わない夜に合わせる呼吸が、今日の体にある。合わせるために、彼は一度だけ、心の中で句を運んだ。
呼)千鳥の波。
本)ズレた拍を。
結)続ける。
声にせず、喉の布に触れるだけ。布は柔らかく、息は通る。通った息は、港の風と混じり、誰のものでもないまま、町のほうへ渡っていった。
——
数週間後。防災無線の点検日。町の各所のスピーカを回る。チェックリストは短い。「錆」「防水」「電源」「音量」「出自表示」。出自表示はステッカーになった。小さな白地に黒の文字。「北鳴・共同作業の記録」。音が出る場所に出自がある。誰かが聴くたび、目に入る。目に入っても、音は変わらない。変わらないが、責任の線が薄く可視化される。可視化は、所有ではない。媒介の証明でもない。媒介の境界線だ。
最後のスピーカで、薄いノイズが乗った。乗ったノイズは、痛くない。痛くないから油断する。油断しない。漣は耳ではなく、胸で聴く。胸で聴くと、ノイズの方向が分かる。方向は上ではなく、足下。ケーブルの圧着が甘かった。圧着し直し、テスターを当てる。ピッ。鳴る。波形は薄い。薄いが、遅れない。
同行した親方が、短く笑った。「儀式だな」
漣も笑った。「儀式です」
儀式は宗教ではない。手順と時間の合意だ。合意は人の数だけある。合意がある限り、町は呼吸できる。呼吸は、媒介を必要としない。ときどき媒介を通す。そのために、彼らは手を動かす。手を動かして、終わったあとに紙を一枚だけ貼る。紙には、日付と、場所と、手順と、出自が書かれている。紙はやがて剝がれ、跡が残らない素材でできている。跡は残らない。残らないけれど、体の内側の布には、薄い折り目が一つ増える。折り目は弱点ではない。開くたびに音がする蝶番だ。
《なぎさ》は、その蝶番の音を、誰のものでもないまま、今日も渡す。渡して、帰ってこない。帰ってこないものを、彼らは追わない。追わないで、手を洗い、道具を拭き、次の講座の日時を紙に写す。
漣は工場の明かりを最後に一つ落とした。落ちる前、蛍光の白が一瞬だけ心拍と合い、ラボ全体が一拍で静まる。静まった隙間で、彼は喉の布を手のひらでそっと撫で、灯りのスイッチを押した。
外は海風。塩は薄い。声は要らない。要らないまま、彼は歩き出し、町の音の層の中に、今日の儀式の重さを、軽く、返した。
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