第2話:性同一性障害の平等と自由

まず、性同一性障害、いわゆるジェンダー・アイデンティティ・ディスオーダー(GID)を持つ人々の平等について考えてみよう。性同一性障害とは、自分の身体的性別と心の性自認が一致しない状態を指し、当事者は深刻な精神的苦痛を伴うことが多い。日本では、二〇〇四年四月に「性同一性障害者の性別の取扱いの特例に関する法律」が施行され、一定の条件を満たせば戸籍上の性別を変更することが可能となった。この法律は、性別適合手術を受け、未婚で子がいないこと、十八歳以上であることなどの要件を定めている。確かに、これは進歩と言えるかもしれない。戸籍変更により、運転免許証やパスポートなどの公的書類が心の性別に沿ったものになるため、日常生活での不利益が軽減されるケースがある。しかし、この法律自体が平等を阻害している側面もある。なぜなら、手術を強いる要件は、当事者の身体的自由を侵害するからだ。手術は高額な費用がかかり、身体的リスクを伴う。すべての当事者が手術を望むわけではないし、経済的に余裕がない人もいる。それなのに、手術を受けなければ法的な性別変更が認められないというのは、平等とは程遠い。厚生労働省のデータによると、二〇二二年時点で性別変更の申請件数は年間約一千件程度だが、これは氷山の一角に過ぎない。潜在的な当事者は数万人いると推定され、多くの人が手術の壁に阻まれ、戸籍と実態の不一致に苦しんでいる。

 さらに、社会的な平等の観点から見ると、性同一性障害者への差別は根強い。職場でのカミングアウトは、解雇やいじめの原因となり得る。文部科学省が二〇二一年に公表した調査では、LGBTQ+の生徒のうち、性自認に関する悩みを抱える生徒の約三割が学校で差別的な扱いを受けた経験があると回答している。トイレや更衣室の利用を制限されるケースも少なくない。学校や職場が「男性用」「女性用」と二分される空間では、心の性別に沿った利用が認められないことが多い。これは、憲法第十四条の「性別による差別禁止」に反するのではないか。法の下の平等は、形式的なものではなく、実質的なものを意味すべきだ。性同一性障害者が自分の性自認に基づいて自由に生きる権利は、保障されているとは言い難い。自由とは、自分の意志に従って行動できることだが、手術を強要され、社会的視線に怯えながら生きるのは、束縛された状態に他ならない。また、一部では「GIDを偽装して犯罪を犯す者」が問題視され、GID全体への偏見を助長している。

 この問題に対し、医師による診断基準の強化を提唱する。具体的には、精神科医による複数回の面接と長期観察を義務づけ、診断の客観性と信頼性を高めるべきである。これにより、制度の悪用を防ぎ、「嘘をついて犯罪を犯す者」を減らすことが可能となる。同時に、「犯罪者=GID」という誤った認識を改める啓発活動が不可欠である。メディアや教育現場で、GIDの本質と犯罪の無関係性を繰り返し伝えることで、社会全体の偏見を払拭する必要がある。GID者は犯罪者予備軍ではなく、性自認に基づく苦悩を抱える一市民である。この認識の転換なくして、真の平等は実現しない。

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