第三話 魅惑の誘い

 ムーン・ブロッサムにて。VIP──西園寺と呼ばれた女性の唇がようやく離れる。半個室席で周りから見えないとはいえ、ゲストからの突然のキスに混乱した私は力なく彼女の肩を押した。

「な、何するんですか……っ」

「あ……ごめん。我慢できなかった……ずっと君を探していて、ようやく会えたから」

「探してたって……私を?」

 バクバクと脈打つ心臓のまま目の前の女性を見つめる。どれだけ見ても、こんなに華やかで美しい女性は記憶にない。しかし、彼女のたった一言で、かつて過ごした日々の記憶が鮮やかに甦った。

「うん、ずっと探してた。また君を描かせてほしい……ゆき」

「……あっ」

 手を取られそのまま甲にキスをされた私は、大人ぶった夜の仮面が剥がれ、あの日の看護師の顔になってしまった。

「まさか……ま、マヤ、さん……!?」

「ふふ……そうだよ。覚えていてくれたんだ。嬉しい」

「えーっ!? うそ、本当に、あのマヤさん……!?」

「うん。本物の『あのマヤさん』だよ」

 VIP──もとい、マヤさんに腰を抱かれ、再びキスを迫られる。相手が女性だとか、正体はマヤさんだとか、店内でキスなんてとか、さまざまな思いが脳内を駆け巡る。理解が追いつかなかった。あの『マヤさん』が、なぜ自分を抱きしめてキスをしたのか。これ以上流されてはまずいと、私は彼女の唇を手で遮った。

「ん?」

「ストップ、ストップ……! マヤさん、どうして……」

 マヤさんの顔がゆっくり離れていく。私の手をそっと掴み、口元から手が離れた。

「言っただろう? ずっと探していたって。君、あの病院からいなくなってたから……全国の病院を探した。まさか看護師を辞めたとは思っていなかったからね。探すのに苦労したよ」

「あ……」

「画廊のオーナー……私のパトロンがここの行きつけらしくてね。偶然……本当に偶然、君の話を聞いた。目立たないが、心配りが素晴らしい子がいる、と。なんでも、看護師として働いていたことがある『ゆき』という名の、私と同い年くらいの子だって」

 彼女の瞳はあの頃と違い、光がみなぎっていた。高揚……興奮。それは生命の力強さだった。

「初めてだよ、彼に何かを頼んだのは。私を店に紹介してもらって、おかげで早く話がついた。ああ……やっと会えた、会いたかった、ゆき……」

 泣きそうな声で私を抱きしめるマヤさん。まだ理解が追いつかない頭で、私は呆然とその抱擁を受け入れることしか出来なかった。



「五〇五の西園寺さん、随分良くなってきたようだね」

「はい、中庭にもよく出るようになって、顔色もいい日が増えました」

 ある日、マヤさんの担当医がコーヒーを片手に話しかけてきた。私が彼女の近況を伝えると、ドクターがコーヒーを飲みながら頷く。

「月城さんが随分とケアを頑張っていると聞いてるよ。精神科は患者の心に寄り添うことが高いレベルで求められるけど、月城さんはよくやっていると看護師長も褒めていた」

「えっ! 師長が……? いつも注意されてばかりですが……」

 師長の厳しい叱咤を思い出して、何かの間違いではないかと狼狽えていると、ドクターが笑った。

「ハハ、期待をかける学生や新人ほど厳しく指導するからね、師長は……だから、君は本当に大したものだよ」

「先生……ありがとうございます」

 私は胸が熱くなり、最近よく見るようになった彼女の笑顔を思い出す。更に状態が落ち着けば、退院できる日も近いだろう。あらためて気を引き締め、私は病棟へ向かった。


 私が看護師として働いていたのは、四年と少し。母子家庭で育った私は、できるだけ早く働きたいと母に言ったのに「高校は卒業しなさい」「資格が必要な職に就きなさい」と言われた。仕方なく学費の安い高校や短大を選び、看護師になる道を選んだ。母が看護師であることも大きかったと思う。昼夜問わず多忙な中で私を育ててくれた母を、今度は私が支えたい……困っている人の支えになりたい。そんな気持ちで選んだ。父親は毎月の養育費をしっかりと送ってくれていたようで、今思うと大いに学費の足しになっていたと思う。それでも、奨学金に頼ることになったけれど。

 長じてから、私の父は医者だと聞いた。それは祖母が『うっかり』口を滑らせた話らしく、母は父の話をしたがらなかった。幼い頃、私は祖父母の家によく預けられていた。祖父母にとって私は初めての孫ということもあってか、とても可愛がってくれた。ある日、祖父母の家で絵本を読んでいたら出てきた『家族』のページ。女の子が母親、父親と手を繋いで笑っている姿を見た私は、特に深い意味はなくただ単純に疑問に思って、祖母に訊ねたことがある。

「ゆきのパパ、どこ?」

 あの時の祖母の引き攣ったような顔と、震える手で頭を撫でられた感触が忘れられない。

「パパはいないんだよ。ゆきちゃんにはママと、ばあばとじいじがいるからね」

 絵本の中の女の子は両親と手を繋いで幸せそうに笑っていた。けれど、私は父親のことを聞いてはいけないのだと、幼心に察したのを覚えている。



 マヤさんの退院後も、私は患者のために懸命に働いた。彼女の退院を見送ったあの日のように、誰かの笑顔を守ることが私の生きがいだった。

 でも、現実は私の理想を容赦なく砕いた。患者の前では笑顔を見せていたけれど、病棟は常に人手不足で、夜勤と日勤が交互に入るシフトは気力と体力を奪った。命を預かる重圧、ミスを許されない緊張感、そして時には患者や家族からの厳しい言葉──私はそれらを全て受け止めようとした。彼らの苦しみを私が受け止め、最後には笑いかけてくれるような穏やかさで退院していく患者を見て、それが正しいのだと思って。実際、あんなに酷い状態だったマヤさんだって、最後は自分の足でこの病院を去ったのだから。

 全て……なんて烏滸がましかったのかもしれない。心の奥で、日々少しずつこびりつくような疲弊が積み重なっていたことを知ったのは、随分経った後だった。

 経済的な問題もあった。奨学金の返済。それが給与をかなり圧迫した。生活はギリギリで、実家は裕福でもないから頼ることもできず、休日は隙間時間に副業をして補填しようとした。そしたら、ただでさえ少ない睡眠時間が更に削られ、過労で倒れてしまった。看護師長から休養しなさいと言われたけど、休む余裕なんてなかった。

「あなたは患者のために頑張りすぎる。自分を大切にしないと、続けられないよ」

 看護師長の言葉が私の心に突き刺さった。自分を大切にする? そんな余裕なんてない。患者の全てを笑顔で受け止めて、患者の笑顔を守りたい。その一心で走り続けていたはずなのに、私は、自分の笑顔を失っていることに気づいた。


 決定的な出来事は一人の患者の死だった。私は三年目の異動時期に精神科から小児科病棟に配属された。子どもの相手は大人とは全く違う大変さだったけど、充実していた。子どもたちは「ゆき姉ちゃん」と呼んで私を慕ってくれた。

 担当していた女の子は、末期疾患で入院していた。私は彼女の話を聞き、笑顔で受け止め、最期まで寄り添った。「サンタさん来てくれるかな」そう言って笑っていた彼女はクリスマスを迎えることが出来ずに逝ってしまった。彼女が亡くなった夜、私は病室で涙が止まらなかった。患者の死は看護師にとって避けられない現実だ。看護師になってから、何度か患者を見送ったことはあった。無力感は何度も感じたことがある。でも、心がすり減っていたこの時、薄氷が脆く割れてしまったように何かが決壊して、私は自分を責めた。もっと何かができたのではないかと。その夜初めて、看護師としての自分が無力だと感じた。

「私、誰かを救えてるのかな……私のしてることなんて、意味がないのかも……」

 私の心は暗い色に染まっていた。看護師としての自信を失い、疲弊した心と体を支えきれずに。


 そんな時、ムーン・ブロッサムのスカウトを受けた。知人の紹介で訪れたクラブで、支配人──ノリコが私に言った。

「あなたの笑顔はお客様を癒す力がある。どう? この店でなら、もっと楽に稼げるわよ」

 楽に稼げる──そう言われた私は迷った。看護師を辞めるということは、夢を捨てるようなもの。でも、奨学金の返済、日々の生活、そして何より心の余裕を取り戻したいという思いが退職を後押しした。こんな私でも、同僚達は退職を惜しんでくれた。私が指導していた後輩は、勤務最終日に涙を堪えて送り出してくれた。あなたが一人前になるまでサポートすると言ったのに、ごめんね。そう言うと後輩は首を振って「先輩のような看護師を目指します」と言った。最後まで私を真っ直ぐ慕ってくれた彼女に「私なんかを目標にしたらだめだよ」とは言えなかった。


 ムーン・ブロッサムでの仕事は、看護師時代とは比べものにならない高収入だった。夜の世界は確かに過酷だけれど、患者の命を預かる重圧からは解放された。私はキャストとして笑顔を振りまき、ゲストの話を聞くことで自分を保とうとした。病院で聞くものとは全く違う彼らの話。彼らには彼らなりの悩みや聞いて欲しいことがあるようだった。時には悲しみや苦しみに共感しながら、笑顔で話を聞いていると、ゲストも笑顔になる。それが嬉しかった。

 それでも私はずっと、心のどこかで自分を責め続けている。看護師を辞めた自分は、逃げただけ。マヤさんのような患者を救えたあの頃の自分はどこに消えたのか。かつての笑顔をどこかに置き忘れてしまった。そんな空虚感がずっと胸に残っている。



「VIPルームに行こうか」

 彼女に抱きしめられたままそう囁かれて、私は大袈裟に肩を跳ねた。緊張がダイレクトに伝わったのか、マヤさんが笑う。

「怖がらないで。静かな場所で、君と二人きりで話したいだけだよ」

「話す、だけ……」

「うん。話すだけ。約束する」

「……わかりました。少々お待ちください」

 私はボーイを呼び、VIPルームの用意を頼んだ。するとボーイは「ご用意済みです。いつでも」と囁く。準備の良さに面食らいつつ、伸ばされたマヤさんの手をとり、ボーイの後を追った。

 マヤさんと連れ立ちフロアを歩いていると、にわかにざわめきが起こった。先ほどのボトルワインを運んだボーイと支配人を皆見ていたのだろう。隠しきれない興味津々な目が彼女に注がれていた。ゲストの男性たちも彼女の美しさに興味を惹かれたのか、値踏みするような目で見る人が少なからずいた。

「彼女、西園寺マヤじゃないか?」

 ふと聞こえた声の方を向くと、二、三人の男性客が驚いたようにマヤさんを見て何かを話していた。彼女は何か有名な人なのだろうか。ざわめくフロアを後にして、私達は店の奥……VIPルームの重厚な黒扉を開いた。


 初めて目にしたVIPルームは完全なプライベート空間だった。ソファ席と黒大理石のテーブルを中心に、専用バーカウンターに並ぶグラスやボトル。暖色のシャンデリアと間接照明が穏やかにそれらを照らす広々とした空間だった。マヤさんの「二人きりで」の意向により、バーテンダーやソムリエ、ボーイは居ない。天井に埋め込まれたスピーカーからは、フロアのBGMとは異なる、優しくもどこか官能的な曲調のジャズが流れている。ダークグレーのベルベットの壁紙が光を吸収する中で一際目を引いたのが、私の身長ほどもある大きなキャンバスに描かれた絵画だった。

「へえ、ここに飾られてたんだ」

 マヤさんが興味深げに絵画を眺める。深紅と金で描かれた抽象画は見事に部屋の雰囲気にマッチしていて、VIPルームの格を更に上げているように思えた。赤で描かれた流麗な線は情熱的なのに、どこか危うさを感じるのは何故だろう。ところどころ入っている黒色のせいだろうか……巨大なキャンバスを端から端まで眺めたら、ふと、右下の『MAYA』のサインが目に入った。

「あの、もしかして……これ、マヤさんの作品ですか?」

「うん、そうだよ。悠玄が……あ、画廊のオーナーがね、この店に提供したって聞いてたけど、ここに置いてたんだね。はは、懐かしい絵。君と出会う前に描いた絵だ」

 そう言った彼女はもう自分の絵に興味を失ったようで、八人は座れるであろうダークブラウンのレザーソファに悠々と座った。私もソファの端に恐る恐る腰掛けると、マヤさんが「遠いよ」と笑いながら手招きをした。隣まで近づくと、彼女の瞳が私をじっと見つめた。あの、心を全て暴くような目。私は彼女の目を見ていられず、俯いた。

「……うん。相変わらず、ゆきは美しいね」

 彼女は満足そうにそう呟いた。私は俯いたまま首を振る。

「そんな、美しいなんて……買い被りすぎです」

「いいや。私には美しさが色で見えるんだ。君の色は紛れもなく美しいよ」

「色……ですか」

 アーティストらしい論理に思わず顔を上げ、首を傾げた。そういえば、あの頃の彼女もよく「君の色は心地良い」と言っていた。当時の私もその感覚がわからなくて、ただ『そういうもの』として受け入れた。そして今日も。

「そう。今の君の色を描いてみたい。私の連作を見たことは? 『Yuki』君の名を冠した、一連の女性画だ」

「いえ、芸術方面には疎くて……でも、マヤさんの作品なら見てみたい……です」

「喜んで。君の都合の良い時にでも私の工房を案内しよう」

「ありがとうございます」

 丁寧に頭を下げると、マヤさんが不意に不満げな顔になった。

「……その話し方、他人行儀だね。楽に話してほしいな」

「え、でも、マヤさんはお客様ですし……」

「私が良いと言ってるのだから、いいんだよ、ゆき」

 有無を言わさぬような笑みに気圧され、私は反射的に頷いた。

「それじゃあ……マヤさん、こんな感じでいい?」

「うん。……あの頃の君を思い出すよ」

 懐かしそうに目を細めるマヤさんに、私は複雑な思いで微笑んだ。何か飲みませんかと提案すると、彼女はニヤリと笑みを浮かべ「一番高いやつ」と言った。その口調は冗談だとわかったので、私は自然と笑うことが出来た。

 私達はノンアルコールカクテルを片手に、近況を軽く話した。マヤさんが退院してからの社会復帰の過程を聞いて、彼女が画家ということに驚いた。確かに入院中は絵を描いていたけれど、まさか画家だったとは。そして、私が看護師を辞めたことを当たり障りなく。互いにぽつぽつと話すうちに、再び彼女の絵の話になった。

「ずっと、記憶と想像の中のゆきばかり描いてきたからね……目の前の君自身をモデルにした新作を描きたいんだ。もちろん、モデル代は出すよ」

「モデル……私が?」

「うん。君を描かせて、ゆき。お願い」

 それは未知への不安と共に、懐かしさと微かな期待が混ざり合ったような、魅惑的な提案だった。私がモデルなんて到底、柄じゃない。それなのに、彼女の真剣な表情と煌めく瞳を見ていると、断るという選択肢が見えなかった。まるで、色鉛筆ではしゃいでいたあの頃に戻ったような……私はそんな心地を感じていた。

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